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駆け落ち事件

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「嫌だ! 嫌だ! この間、女とは寝てないって言ったばかりなのに! どうして? どうしてなんだよ! 3日前に、あんなに俺を情熱的に抱いたのに、やっぱり女がいいのか?」

木月は、自分が信じて露ほども疑っていなかった海邦が、自宅に女を連れ込んでいたことに、言い知れぬ絶望感を抱いた。目の前が暗くなって、走れなくなり、立ち止まった。涙が次々に頬を伝って零れた。

立っていられなくなり街路樹の根元に座り込んだ。胸を掻きむしりたくなるような、絶望と、喪失感が襲ってきた。発狂しそうな怒りと悲しみの感情が脳内に流れ込んでくる。今まで感じたことがないような、激しい感情の奔流だった。木月は、流れ込んでくる己のものとは思えないような猛り狂う何かに怖れをなして、蹲った。裏切られた! 俺は、愛する男に裏切られたんだ! 声なき声が叫んでいた。


一方、重苦しい空気の中に残された二人は、視線を合わせることもなくしばらく黙りこくっていた。海邦は、脱がされていた服を身に着け、ノロノロと服を着ている佐知に一瞥を送った。

「はやく服を着ろよ」
「はい」

佐知がこんな暴挙に出るなんて海邦は予想だにしていなかった。大体、どうして眠らされたのだろうか。

「なんでこんなことした?」
「恨みです」
「俺は、前世でお前ら3人に尽くしたと思う。最後まで添い遂げただろう」
「それは勿論感謝してますよ、私たち3人を平等に家族の愛で包んでくれた。でも、あの人に向けるような愛はついぞ受け取ることができなかった」
「すまん、でも、そればっかりは、俺は、あんな愛情を4つも持てなかったんだ」
「だからです。私たちに向けてくれたのと同じ愛で木月様を愛してたなら、何も言わなかった。あの人への想いは特別だったでしょう。それが悔しかった。二人の貴方のお妾さんたちは知りませんが、私は、激しく嫉妬しました」
「悪かった。辛い思いをさせた」
「我慢ならない!だって、前世であれほど私たちを苦しめて、今度は、私たちを抱えてない元哉様を独り占めしているんでしょ、あの人は!」
「許してくれないか?俺は、前世では、お前たちのために木月を諦めた。今世は、彼奴を愛したいんだよ、最期の瞬間まで」
「どうしてですか!! あの人は男ですよ! 私たちは貴方の子供を6人も産みましたけど、あの人は何も生み出さないんですよ!」
「分かっている。それでもいいんだ。俺の今のこの人生含めて、たくさんの子孫を世に送り出したから、もう、十分だから」
「元哉様! あくまで、あの人をとるって言うんですね!」
「ああ」
「酷いわ! あんまりだわ。生まれおちてからずっと元哉様に出会うことだけ夢見てここまできたのに!」

佐知は泣きだした。と、突然、ドアが開いた。木月が戻ってきた。木月の顔は蒼白だった。

木月を見て、佐知の怒りが沸騰した。


「木月様、貴方がどれほど私たち家族を苦しめたと思っているんです?」
「佐知、よせよ。此奴は前世を覚えてないんだ」
「関係ないわ! 覚えてようといまいと貴方が背負って生まれてきた罪からは逃れられないわ」

木月は、佐知の前に正座して、手をついた。

「佐知殿、俺が前世で貴方たち家族にしてしまったことは許されないことです。お詫びします」


「木月! お前、前世を思い出したのか?」
「ああ、海邦とこの人が抱き合ってるのを見て、思い出したんだ。俺が醜いほど奥方達に嫉妬していたことを」

床に頭を擦りつけて謝罪する木月に、佐知は尚も舌鋒を鋭くした。

「私たちは元哉様に何度も言ったんです。木月様も一緒に暮らせばいい。私たちは何も邪魔しないって! それなのに、貴方は、元哉様を独占しようとして、元哉様はそれに応えようとさえした! 何よりも許せなかったのは元哉様が私たちを置いて木月様を連れて失踪しようとしたことですよ!」

「ええ、駅に置き去りにされて、海邦を殺してやると言って屋敷に乗り込んだことも思い出しました」


海邦元哉が、木月の狂気に振り回され、駆け落ちを考えたことが一度だけあった。付文を送り、“明日新橋駅2時”と、待ち合わせを知らせた。

佐知が元哉のただならぬ様子を不審に感じ、執事が文をどこに届けたのか、帰ってきたところを掴まえて聞き出した。


「いいですか、口頭でいいです。待ち合わせを新橋駅から上野駅に変更と伝えてきて」
「しかし…」
「これは大問題ですよ。大将が2名もいなくなったら大騒ぎです」
「承知しました」

 佐知たちは、元哉が新橋駅で木月を待っているところに現れ、木月様は来ません、と言って元哉を屋敷に連れ戻した。

 木月が変更を信じて上野駅で待っても、待っても元哉は現れなかった。日が暮れた頃、執事が文を届けた。

『すまん、やはりいけない』

 海邦の故意の仕打ちだと信じた木月は、失意に沈んだ。屋敷では妻妾らが海邦に詰め寄っていた。

「元哉様、私たちがいつ木月様と別れろと言いましたか?」
「いつでも好きな時に逢えばよろしいでしょ。ここで逢うなり、屋敷に行くなりいくらでも逢瀬を楽しめばいいのに!!」
「そうです! 木月様との関係が、私たちを置いて、あまつさえ、大将の責務を放り出す理由にならないですよ!」

 元哉は頭を冷やせと妻妾らに散々詰られた末、駆け落ちは諦めた。文は佐知が無理やり書かせた。

 木月は屋敷に乗り込んできた。日本刀を振り回し、海邦を殺してやると喚いた。海邦と妻妾らの4人で、木月の興奮を鎮めるために大立ち回りをしたのだ。海邦が後ろから羽交い絞めにして、佐知が痺れ薬を塗った短剣を木月の肩に刺して眠らせた。

目を覚ました木月は、自分が再び海邦の腕の中にいたことで怒りを鎮めたが、19歳と21歳の恋に狂う若者二人が暴走した大事件だった。


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