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古い子はかわいそうなのか
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ぬくもりぬいぐるみ病院では、預かったぬいぐるみを随分と丁重に扱ってくれる様子だった。一体一体に名札をつけ、ビフォアアフターだけでなく、要望があれば作業の途中の写真も送ってくれるようだ。
「え、1ヶ月もかかるんだ」
思わずひとりごちた。ももちゃんの全身の綿を抜き、「皮ふ」をクリーニングして、はげた部分を補強するには、それくらいの時間が必要ということらしかった。よく考えると亜希は、祖母から8歳の頃にももちゃんをプレゼントされて以来、手放したことがない。学生時代の短期留学にも連れて行った。1ヶ月も耐えられるだろうか?
しかし病院は、対策を講じていた。確認するように、読み上げてみる。
「ぬいぐるみの入院期間中、ご希望のかたには代わりの子を派遣いたします、その子がお気に召した場合は、買い取りも可能です……」
なるほど。ぬいぐるみ好きのツボを押さえている。大概のぬいぐるみ愛好家は、1ヶ月も接すれば愛着が湧いてしまうだろう。自分もその例に洩れないと、亜希には変な確信があった。
ももちゃんはうさぎだから、うさぎを貸してくれるのだろうか。じゃあ、ももちゃんに友達ができるかもしれない。2匹で写真を撮るのも悪くないな。
その想像は、亜希に幸福感をもたらした。修理の申し込みもしていないのに、妄想が先走る。
例えば、姪っ子のぬいぐるみがぼろぼろになっているということにして、大西にぬいぐるみ修理の詳細を訊いてみようか。公園の怪しい女だとバレることなく情報を収集するための策略を、亜希は巡らせる。
ぬいぐるみを毎日直しているような人物相手に、そんな回りくどいことをする必要は無いだろうとは思う。しかし亜希は、昨年別れた男の冷ややかな、恐れの色さえ混じっていた視線を忘れられない。
「うわ、その年になってそれは無いわ」
そんな言い方をされるとは思わなかった。
SNSに写真を上げていると話すと、どんな写真なんだと訊かれた。だから正直に話した。その頃一番いいねされていた自信作、ももちゃんがカーネーションを手にする母の日向けの写真を見せた。
それだけなのに、セックス込みで丸1年交際し、結婚という言葉もちらついていたのに、次の週にもう会わないと言われてしまった。
30にもなって、ぬいぐるみを手放せないばかりか、嬉々として写真を撮っている私は、キモい女、イタいマイノリティなのだ。亜希はネットの海に浸り、ぬいぐるみが好きな人ばかりと楽しみ過ぎていたせいで、自分がハマっている趣味に関して客観視できなかったのだった。手痛い喪失を経て、思い知らされた……この趣味は、世間には秘めておかねばならない。特に男性には。
亜希は小さく溜め息をついてから、温かい飲み物を淹れるべく立ち上がった。甘いものが欲しいので、湯を注ぐだけでできるココアを選ぶ。
ももちゃんをベッドから連れ出して、膝の上に乗せる。彼女の頭はやや重いので、こてんとテーブルの上に倒れた。すると、ももちゃんがココアの入ったマグカップの前で、飲みたいけれど飲んだら太るからどうしよう、と煩悶しているように見えた。亜希は思わず笑い、身体を捻りながらスマートフォンを構えた。
カシャッ、と高い音でシャッターが切れる。写真を確認すると、思ったより画面は明るかった。悪くないなと思うと、さっきまでの仄暗い回想を含めた嫌な気持ちが霧散した。
決めた。ももちゃんは姪のぬいぐるみだということにしよう。代金や「治療方針」が納得できなければ、無理に申し込まなくてもいいのだから。断りにくければ、姪と姪の母親が渋っている、とでも言えばいい。
亜希はココアを口にしてから、ノートパソコンをテーブルに運んだ。ぬくもりぬいぐるみ病院への問い合わせや申し込みには、専用フォームを使うようなので、パソコンのほうが使いやすそうだからだった。
「え、1ヶ月もかかるんだ」
思わずひとりごちた。ももちゃんの全身の綿を抜き、「皮ふ」をクリーニングして、はげた部分を補強するには、それくらいの時間が必要ということらしかった。よく考えると亜希は、祖母から8歳の頃にももちゃんをプレゼントされて以来、手放したことがない。学生時代の短期留学にも連れて行った。1ヶ月も耐えられるだろうか?
しかし病院は、対策を講じていた。確認するように、読み上げてみる。
「ぬいぐるみの入院期間中、ご希望のかたには代わりの子を派遣いたします、その子がお気に召した場合は、買い取りも可能です……」
なるほど。ぬいぐるみ好きのツボを押さえている。大概のぬいぐるみ愛好家は、1ヶ月も接すれば愛着が湧いてしまうだろう。自分もその例に洩れないと、亜希には変な確信があった。
ももちゃんはうさぎだから、うさぎを貸してくれるのだろうか。じゃあ、ももちゃんに友達ができるかもしれない。2匹で写真を撮るのも悪くないな。
その想像は、亜希に幸福感をもたらした。修理の申し込みもしていないのに、妄想が先走る。
例えば、姪っ子のぬいぐるみがぼろぼろになっているということにして、大西にぬいぐるみ修理の詳細を訊いてみようか。公園の怪しい女だとバレることなく情報を収集するための策略を、亜希は巡らせる。
ぬいぐるみを毎日直しているような人物相手に、そんな回りくどいことをする必要は無いだろうとは思う。しかし亜希は、昨年別れた男の冷ややかな、恐れの色さえ混じっていた視線を忘れられない。
「うわ、その年になってそれは無いわ」
そんな言い方をされるとは思わなかった。
SNSに写真を上げていると話すと、どんな写真なんだと訊かれた。だから正直に話した。その頃一番いいねされていた自信作、ももちゃんがカーネーションを手にする母の日向けの写真を見せた。
それだけなのに、セックス込みで丸1年交際し、結婚という言葉もちらついていたのに、次の週にもう会わないと言われてしまった。
30にもなって、ぬいぐるみを手放せないばかりか、嬉々として写真を撮っている私は、キモい女、イタいマイノリティなのだ。亜希はネットの海に浸り、ぬいぐるみが好きな人ばかりと楽しみ過ぎていたせいで、自分がハマっている趣味に関して客観視できなかったのだった。手痛い喪失を経て、思い知らされた……この趣味は、世間には秘めておかねばならない。特に男性には。
亜希は小さく溜め息をついてから、温かい飲み物を淹れるべく立ち上がった。甘いものが欲しいので、湯を注ぐだけでできるココアを選ぶ。
ももちゃんをベッドから連れ出して、膝の上に乗せる。彼女の頭はやや重いので、こてんとテーブルの上に倒れた。すると、ももちゃんがココアの入ったマグカップの前で、飲みたいけれど飲んだら太るからどうしよう、と煩悶しているように見えた。亜希は思わず笑い、身体を捻りながらスマートフォンを構えた。
カシャッ、と高い音でシャッターが切れる。写真を確認すると、思ったより画面は明るかった。悪くないなと思うと、さっきまでの仄暗い回想を含めた嫌な気持ちが霧散した。
決めた。ももちゃんは姪のぬいぐるみだということにしよう。代金や「治療方針」が納得できなければ、無理に申し込まなくてもいいのだから。断りにくければ、姪と姪の母親が渋っている、とでも言えばいい。
亜希はココアを口にしてから、ノートパソコンをテーブルに運んだ。ぬくもりぬいぐるみ病院への問い合わせや申し込みには、専用フォームを使うようなので、パソコンのほうが使いやすそうだからだった。
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