ほつれた心も縫い留めて ~三十路の女王は紳士な針子にぬいぐるみごと愛でられる~

穂祥 舞

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昔の男、今の男

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 右手で小さなキャリーケースを引き、左手に5個組のティッシュと小さなラップを持った大西千種が、レジに近づきながらこんばんは、と言った。

「雨止んでたから買い物来ました、ティッシュ安くてラッキーです」

 出張の帰りに、そのまま店に寄ったらしい。彼の目が笑うのを見て、亜希の心に生えていた刺々とげとげしいものがぱらぱらと落ちる。いらっしゃいませ、と自然と笑顔になった。

「お疲れさまですね」

 言いながらスキャナーをバーコードに当てる。ピッ、という耳慣れた音まで、楽しげに聴こえた。

「いえいえ、住野さんこそこんな時間にレジにいるって、何かあったんですか?」
「雨が止んで下が混んできたので、ヘルプです」
「あ、なるほど」

 その時大西は、自分に注がれる視線を感じたのか、店名ラベルをティッシュに貼った男の顔をちらっと見た。

「住野さん、何時で仕事終わり?」

 いきなり大西から訊かれて、はい? と言った亜希は、つい答えた。

「8時です」
「あ、じゃあ俺これから帰って用意するから、ご飯食べに来てよ……大阪から代ぬい候補を連れて帰ってきたんだ、それも見てほしいな」

 一気に話す大西に、今度は亜希があ然とした。どうしたんだろう、いきなりこんな話し方をして。関係を誤解される……聞いているのは榊原だけだが。
 釣り銭を渡すと、大西は後でね、と言いながらエスカレーターに向かった。客が切れて、周辺に沈黙が落ちる。

「……好きな人って、さっきのお客さん?」

 榊原は低く尋ねてきた。亜希は、かも、といい加減を装って答える。

「……彼のメシの誘いには応じるんだ」
「はい」

 答えつつ、亜希の心臓の動きはせわしなくなっていた。大西からのメシの誘いは初めてだからだ。
 元カノの「新しい男」らしき人間のことが気になって仕方がないのか、榊原の質問が続く。少し愉快だった。

「大阪のだいぬいって何の話?」
「……あの人、ぬいぐるみを修理する縫製技術者なの、とても優秀な」

 亜希は横目で榊原を見上げた。そして静かに、1年前に言えなかったことを口にする。

「私の大切なぬいぐるみを今修理してくれてるの……あなたは理解してくれなかったけど、あの人は私と私のももちゃんをしっかり受け止めてくれた」

 思わずといったように、隣に立つ男の口から、えっ、という音が洩れた。亜希は淡々と続ける。

「代ぬいは代理ぬいぐるみのことよ、ももちゃんがいない間に私が寂しい思いをしないようにって、探してくれてたの」

 壁の時計が20時を指した。亜希は榊原のほうに身体ごと向いた。

「どうよ、意味不明でしょ? でももうあなたと私は理解し合う必要も無いから、私のことは気にかけないでね……婚約おめでとう」

 今度こそ、ほんとに、さよなら。亜希は軽く眉間に皺を寄せた昔の男に、胸の内で声をかけた。
 階段からぱたぱたと楠本が上がってきた。

「住野さんお待たせ、ああ、榊原バイヤー、代わりますよ……お客さんどうかな、レジ閉められそう?」

 榊原はついとその場を離れて、楠本に言った。気まずさから逃げたかったようだった。

「私が確認してきます、たぶんもう誰もいないと思いますけど」
「すみません、ありがとうございます」

 すぐに榊原は、大丈夫です、と離れた場所から声をかけてきた。亜希はレジを開け、首から下げていたキーを本体に差し込む。2階のレジは旧型で、タッチパネルや自動釣り銭機が無いため、清算が手作業になり少し時間がかかる。男子社員と一緒に作業をするのは、防犯上の理由だ。

「下は大丈夫なんですか?」

 札を数えながら、亜希は楠本に訊いた。彼は今までレジ支援をしていたらしく、やや疲れた声になった。

「うん、一気に来たよ、もう引いたけど売り場がたぶんぐちゃぐちゃだな」
「そうなんですね、ティッシュはもう定数出そうだけど、9時まで特価で行くみたいです」
「へぇ、雨なのによく出たんだなぁ」

 慣れた2人での閉め作業は、あっという間に完了した。楠本は1階に戻り、亜希は売り上げの入った清算カバンを手に、バックヤードに向かう。榊原と戸村が売り場を見ながら話し合っている前を過ぎる時、亜希は感情を排して声をかけた。

「お先に失礼します」

 男たちはお疲れ様でした、と声を揃える。榊原の視線を背中に感じつつ、亜希は悠然と売り場から立ち去った。
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