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心の中に落ちて芽吹くもの

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 目を伏せた亜希を見て、千種は慌てたようだった。

「ごめん、言い過ぎた……つまり、要するに、俺の前ではもう自己卑下しないでほしい、他の人に対して住野さんがどう振る舞っても何も言わない、でも俺には素顔を見せていてほしいんだ」

 顔を上げた亜希は、今度は千種が俯いて、耳を赤くしたのを見た。
 どうしよう。こんな言葉を聞かされて、嬉しい気持ちも大きいのに、一抹の困惑が亜希を襲う。この人は、何か勘違いしているのではないか?

「あっ、あの、大西さん……私は何というか、あなたが考えてるほど魅力的じゃないし、メンヘラとまで言わないけど、ほんとに大概な拗らせだし……」

 言い終わる前に、千種は少し眉根を寄せて、亜希の傍らをすり抜けた。そして洗面所に行ってしまった。ここを出なくてはいけない時間が近づいているので、歯を磨きに行ったのだろう。
 言われたそばから自己卑下発言をしてしまった亜希は、思わず溜め息をついた。千種が着替える間に亜希も歯を磨いたが、もう彼は気分を損ねてはいない様子で、何となく名残惜しげに言った。

「ありがとう住野さん、いずれにせよ助かりました……次は住野さんの出勤時間が早い日の前日にでも、うちに来てください」

 そんな、互いの自宅がそれぞれの職場に近いからって、ホテル代わりにするみたいに。亜希はやや不満に感じた。

「わっ、私は、2人とも翌日休みの時に……」

 千種がじっと顔を見るので、恥ずかしくなってきて言葉が続かない。榊原とは、お互い休みの前夜に一緒に過ごしていたが、千種とはそういう関係にはなり得ないということなのだろうか?

「あ、そういう日があればそれもそのうち」

 千種はあっさりと答えたが、ちょっと照れくさそうである。それをごまかすかのように、彼は続けた。

「住野さん、ももさんのファンのうちの副院長が寂しがってるから、過去写真とか投稿してあげて」
「あ、そうなんだ……副院長さんにお礼伝えてください」

 頷いた千種は、それと、とワンテンポ置く。

「考えてたんだけど、ずっと投稿してたら、もしかしたらおばあさんに届くこともあるかもしれない」
「え?」

 一瞬話が飲み込めず、亜希は千種の顔を見る。

「お年寄りもSNS使うし、そうでなくても、何かのきっかけでももさんの写真が目に触れることはありえないかな」

 考えてもみなかった。亜希は何となく、胸がどきどきするのを感じた。千種がふっと表情を緩める。

「ちょっと楽しそうな顔になった」
「だってもしそんなことがあったら……」

 言い終わるなり、千種がついと近寄ってきて、亜希はふわりと彼の腕に囲われた。あまりに自然に抱き寄せられたので、驚く暇もない。

「そんなことがあればいいと俺も思う」

 右耳の傍で優しい声がした。その時亜希は、千種も今、この部屋を後にし難いのだと察する。お互いの気持ちが同じなのに、もう一緒に過ごせないということが、やるせない。
 亜希もそっと、千種の背中に手を回した。この人は、私を大切にしてくれる。そんな本能的な気づきと安心感があった。
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