ほつれた心も縫い留めて ~三十路の女王は紳士な針子にぬいぐるみごと愛でられる~

穂祥 舞

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心の中に落ちて芽吹くもの

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 しかし川口は亜希のそんな複雑な気持ちも知らず、俄然盛り上がってきた。

「嘘っ! それめちゃ素敵、どこで出会ったの?」

 可笑しな話だが、「外部」の人間と出会い交際するのは、この業界の中では一種の憧れ案件として扱われることが多い。土日が休みでないシフト勤務の業界人は、漫然と過ごしていると、本当に同業者以外との出会いが無いからである。

「うん、……病院の」

 亜希はぼそっと言ってから、過ちを犯したと気づいた。川口があ然として、右手に持つ紙コップを取り落としそうになったからだ。

「ええっ、お医者さん⁉ マジなの?」
「ごめん、ちょっと嘘つきました、私の医者じゃない」
「えっ? すみちゃんの先生じゃないって、お父様どこか悪くしてるの?」

 ああっ、それも違うっ! 亜希は頭を掻きむしりそうになった。でも、何て説明したらいいんだろう?
 亜希はこの間の千種の真剣な声を思い出す。卑下すると、ももさんが可哀想だ。……もし今、川口にごまかしの説明をすれば、千種まで可哀想な目に遭わせることになってしまうのではないか?
 亜希はひとつ深呼吸した。

「いや、父も妹も元気なの、つまりですね……私の、ぬいぐるみを直してくれてる人なんです、ぬいぐるみ病院のプロの針子」

 川口はまた目を丸くした。30に手が届いた同い年とは思えない、愛らしさがあった。

「すみちゃん、ぬいぐるみ直すって、おもちゃを直すみたいなことなんだよね」
「あっ、そうだよ、古いぬいぐるみでいろんなところが破れてきて」
「へぇ……針子ってことは、手で直すのね」
「ああ、ミシンも使うと思う……ごめんね、実は私、ぬいぐるみ捨てられない人種なの」

 亜希はいたたまれなくなって、お茶のペットボトルを握りしめたが、川口は次の瞬間、へらっと顔を緩めた。

「すみちゃん可愛いとこあるんだ、ちょい待って……私が男だったらハート射抜かれてしまうわ……」
「は?」
「ぬいぐるみの病院って聞いたことある、テレビで特集してて……じゃあ大阪にぬいぐるみ送ったの? 人気で順番待ちだって言ってたけど」

 想定外の話の流れに、亜希のほうが驚く。

「あっ、いや、東京の分院に預けたの、うちの近くで」
「へぇー、だから針子さんが医師ってことか」

 川口は心から感心している風だった。ぬいぐるみを直そうとすることも、預けた相手と仲良くしていることも、彼女は一切笑ったり小馬鹿にしたりしない。亜希はほとんど拍子抜けしていた。
 会議が始まる時間が近づき、会議室に事務チーフが次々と入ってきた。亜希は腕時計に目をやる。

「あ、もう時間か」
「ちょっと早いけど、終わってからご飯食べようよ」

 川口の誘いに、亜希はそだね、と即応じた。そんな風に過ごせる時間を、結婚を控えている彼女と、これからどのくらい持てるかわからないからだった。
 会議では全員が座る場所を指定されているので、亜希は川口の前の席を離れて、自分の場所に戻った。
 会議に来るたびに、顔見知りが少なくなることが、最近少し寂しい。この職場は女性が多いのに、女子社員は結婚して辞める者が大半で、定年まで勤め上げることはほとんど無い。自分はあとどれくらい働くことができるだろうか。亜希は窓の外に広がる晴れた空を眺めた。
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