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目指せ寿退社?
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千種は迷わず生成りの糸を出し、糸通しを使って一瞬で針穴に通した。そしてボックスの隅に入っていた、3センチほどの長さの白い布を一枚取り、亜希に見せてくれる。そこには「ぬくもりぬいぐるみ病院」と、丸いフォントの日本語で書かれていた。
「代ぬいにはこれをつけて貸し出しするんだ……預かっていたぬいぐるみの退院が決まって、持ち主様がもし代ぬいを買い取ってくださる場合は、これを外してお渡しすることになってて」
亜希は小さなタグと、犬のぬいぐるみを千種に渡した。千種はぬいぐるみのお尻を見て、ちょこんと突き出た尻尾の付け根にタグを当てると、迷わずそのまま針を通す。ぷつっという微かな音が、タグに針が刺さり糸が通る時に聴こえた。ぬいぐるみのお尻に縫いつけられていると思うと、亜希は自分の尻が何となくむずむずした。
千種は数度糸をくぐらせると、くるくると糸を針に巻き、あっという間に玉止めする。そして、随分使い込んだもののように見える糸切り鋏を右手に持ち、一度で糸をカットした。
タグの両端を軽く代ぬいのお尻に縫いつけて、千種の持ち帰り残業はほんの3分ほどで終了した。あまりの手早さに、あ然としてしまう。亜希は不器用ではないが、同じことをするのに3倍は時間がかかるだろう。
「はい、ではこれで住野さんにこの子をお持ち帰りいただけます」
糸の残った針を針山に戻すと、千種はぬいぐるみを亜希に差し出した。受け取って思わず犬のお尻を見てしまう。タグは最初からそこについていたように、違和感なく縫いつけられていた。あんな手早い作業だったのに、縫い目はミシンを使ったようにきれいに揃い、なおかつしっかりしていて、玉結びの始末糸もきっちりタグの下に収まっている。
亜希は心からの賛辞を千種に投げかけた。
「凄い、大西さん天才」
「えっ、こんなことでそんなに言われるの初めてで照れる……」
ソーイングボックスの蓋を閉めた千種の耳は赤くなっていた。クローゼットにボックスを片づけると、そのままキッチンに行ってしまう。そんなに破壊力の高い言葉を投げかけたつもりは無かっただけに、亜希のほうが困惑した。
千種はお茶を淹れてくれて、すぐに夕飯の準備を始める。キッチンが広い訳ではないので、亜希はお客さんに徹することにした。ほうれん草を水で洗う彼の後ろ姿が新鮮である。
ご飯はタイマーをセットしていたようで、急に自分が来て足りなくなるのではないかと亜希が言うと、千種は明日の弁当の分だからまた朝に炊けばいいと、鷹揚に答えた。
千種はほうれん草とたまごを、香りから察するにバターと醤油で炒めたものと、ハッピーストアのチキン南蛮、そして豆腐とわかめの味噌汁を出してくれた。テーブルを拭いて茶を淹れ直すことしかしなかった亜希は、千種がやはり器用で、料理をさして苦にしていないと知る。
「あの、こういう言い方は不愉快かもしれないんだけど」
ご飯のよそわれた茶碗を受け取りながら、亜希は口を開く。
「私の知る男の中では大西さんが、一番料理の手際がいいかも」
千種は困惑したように、眉の裾を下げた。
「俺の知る中で、住野さんが一番大げさだよ……お父様は会社勤めもして、3人分の食事作ってらしたんだよね?」
「うん、でも私と妹が下ごしらえはしたし、待たされた割に不味かったこともしばしば」
「それは許してあげよう、俺だって味つけはあまり自信無い」
そんな風に言う千種だったが、ほうれん草の炒め物の味は普通に良かった。
「美味しい、バター醤油?」
「うん、ほうれん草普通に食べてくれて良かった」
もう少し若い頃に偏食気味の女性と交際して、食事に誘うのに困った話を、千種がしてくれた。不思議なことに、千種の口調にその女性を軽視したり、嫌悪したりするニュアンスは無かった。彼にとって、それはあくまでも昔の話で、当時は困らされたけれど今となっては楽しくもある思い出だということらしい。
「代ぬいにはこれをつけて貸し出しするんだ……預かっていたぬいぐるみの退院が決まって、持ち主様がもし代ぬいを買い取ってくださる場合は、これを外してお渡しすることになってて」
亜希は小さなタグと、犬のぬいぐるみを千種に渡した。千種はぬいぐるみのお尻を見て、ちょこんと突き出た尻尾の付け根にタグを当てると、迷わずそのまま針を通す。ぷつっという微かな音が、タグに針が刺さり糸が通る時に聴こえた。ぬいぐるみのお尻に縫いつけられていると思うと、亜希は自分の尻が何となくむずむずした。
千種は数度糸をくぐらせると、くるくると糸を針に巻き、あっという間に玉止めする。そして、随分使い込んだもののように見える糸切り鋏を右手に持ち、一度で糸をカットした。
タグの両端を軽く代ぬいのお尻に縫いつけて、千種の持ち帰り残業はほんの3分ほどで終了した。あまりの手早さに、あ然としてしまう。亜希は不器用ではないが、同じことをするのに3倍は時間がかかるだろう。
「はい、ではこれで住野さんにこの子をお持ち帰りいただけます」
糸の残った針を針山に戻すと、千種はぬいぐるみを亜希に差し出した。受け取って思わず犬のお尻を見てしまう。タグは最初からそこについていたように、違和感なく縫いつけられていた。あんな手早い作業だったのに、縫い目はミシンを使ったようにきれいに揃い、なおかつしっかりしていて、玉結びの始末糸もきっちりタグの下に収まっている。
亜希は心からの賛辞を千種に投げかけた。
「凄い、大西さん天才」
「えっ、こんなことでそんなに言われるの初めてで照れる……」
ソーイングボックスの蓋を閉めた千種の耳は赤くなっていた。クローゼットにボックスを片づけると、そのままキッチンに行ってしまう。そんなに破壊力の高い言葉を投げかけたつもりは無かっただけに、亜希のほうが困惑した。
千種はお茶を淹れてくれて、すぐに夕飯の準備を始める。キッチンが広い訳ではないので、亜希はお客さんに徹することにした。ほうれん草を水で洗う彼の後ろ姿が新鮮である。
ご飯はタイマーをセットしていたようで、急に自分が来て足りなくなるのではないかと亜希が言うと、千種は明日の弁当の分だからまた朝に炊けばいいと、鷹揚に答えた。
千種はほうれん草とたまごを、香りから察するにバターと醤油で炒めたものと、ハッピーストアのチキン南蛮、そして豆腐とわかめの味噌汁を出してくれた。テーブルを拭いて茶を淹れ直すことしかしなかった亜希は、千種がやはり器用で、料理をさして苦にしていないと知る。
「あの、こういう言い方は不愉快かもしれないんだけど」
ご飯のよそわれた茶碗を受け取りながら、亜希は口を開く。
「私の知る男の中では大西さんが、一番料理の手際がいいかも」
千種は困惑したように、眉の裾を下げた。
「俺の知る中で、住野さんが一番大げさだよ……お父様は会社勤めもして、3人分の食事作ってらしたんだよね?」
「うん、でも私と妹が下ごしらえはしたし、待たされた割に不味かったこともしばしば」
「それは許してあげよう、俺だって味つけはあまり自信無い」
そんな風に言う千種だったが、ほうれん草の炒め物の味は普通に良かった。
「美味しい、バター醤油?」
「うん、ほうれん草普通に食べてくれて良かった」
もう少し若い頃に偏食気味の女性と交際して、食事に誘うのに困った話を、千種がしてくれた。不思議なことに、千種の口調にその女性を軽視したり、嫌悪したりするニュアンスは無かった。彼にとって、それはあくまでも昔の話で、当時は困らされたけれど今となっては楽しくもある思い出だということらしい。
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