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女王は頼らない、頼れない

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 千種はフロイデハウスのロビーに置かれている、元入居者のぬいぐるみを修理したので、あのグループホームを全く知らない訳ではなかった。職員の山川は亜希より若いように見受けられるが、あのホームではベテランらしい。だから彼女に任せておけば、三波夫人と適度な距離感で接することができるだろうと千種は言う。

「でも……これって私の家族の個人的なことだし……山川さんや千種さんに面倒かけるのも……」

 亜希が口にすると、千種の手が肩甲骨のあいだをとんとんと叩いた。

「だから、そういうのがこの場合は良くない……亜希さんが家族のプライベートを俺や山川さんにちょっとでも晒したくないってなら、話は別だけど」
「そんなのそれこそ隠すことなんか無いの、全部一段落ついたことなんだから」

 父も母も再婚した。亜希と由希は、父方の縁者とは繋がっている。母方とはそうではない。ただそれだけのことである。

「……ね、千種さんのおうちのことは大丈夫なの?」

 亜希は少し迷ったが、訊いてみる。千種はそうだね、とあっさり応じた。

「こないだ大阪に戻って母親と話したらさ、母は父に対してもうあまりごちゃごちゃした感情を持ってないってことに気づいてしまった」
「そうなんだ……」
「何か俺一人でさ、父親はふしだらな裏切り者でさ、母親を傷つけてけしからんなんて思い続けてたのかなと悟った次第です」

 亜希は少し身体を離して、千種を見上げた。何となく彼が可哀想になった。そっと手を伸ばして、温かい頬に触れる。

「夫婦のあいだって、子どもにもわかんない感情が流れてると私も思うことある……でもね、千種さんがお母様のために怒ってたのってたぶん無駄じゃないし、お母様はありがとうって思ってると思うな」

 千種は黙って頷いた。よく見えなかったが、手で覆った頬が動いたので、亜希に笑いかけたのかもしれなかった。

「いつまでも親父を恨み続ける母親の姿なんて見たくないから、これでいいんだけどな……でも俺が大西の家で働かないのは、やっぱり家庭のこととは別だともわかった」
「そうなの?」
「だって俺、服縫うよりぬいぐるみ直すほうが好きだもん」

 そう言い切ることのできる千種を、心から羨ましいと思う。亜希は今仕事を続けるべきかどうか、真剣に考える時を迎えているようだった。事務の仕事が完全に無くなってしまうことは無いだろうが、やはりレジが最有力候補で、他の部門を手伝うことになりそうだった。
 事務の仕事を心から愛していて、レジなんか手伝えないとすぱっと割り切り、退職の意思を固められるならそれでいい筈だ。30歳に手が届いてしまったとは言え、まだ事務職で転職するチャンスはある。しかし亜希には、そこまで強い気持ちは無く、できればハッピーストアに居残っていたい気持ちが少なからずあるのだった。
 そんな風にぐずぐず考えていることも、千種にはお見通しらしく、彼は少し腕に力を入れて、亜希の肩を抱きしめてくれる。

「仕事のことも、自分がどうしたいのかを一番に考えて、ただ……」

 千種は言葉を切った。沈黙が流れ、それさえも心地良い亜希だったが、何? と訊いてみる。

「いや、えーっと……亜希さんがハッピーストアをもし辞めるとしても、俺たぶんしばらくだったら……亜希さん一人なら食わせていけると思うので……」
「えっ」

 亜希がぴくんと動いたからか、千種は焦ったように続けた。

「いや、気に障ったらごめん、ハッピーストアの仕事を軽んじてるとか、とっとと辞めたらいいとかって意味じゃない」

 そこじゃないんだが。亜希はこれ以上突っ込むべきなのか迷う。このあいだから気になっているのだが、この男は、自分と長く一緒にやって行こうと多少思ってくれているようなのである。もう少し亜希が若くて初心うぶなら、嬉しい、などと言って涙目になるところだろう。
 望まれることは、嬉しくない訳ではない。亜希だって千種に対しては、これまで交際してきた男性とはやや毛色の違う「好き」の感情を抱いていると自覚している。でもそれが、生涯を共にするというスパンのものなのかは、わからなかった。だいたい、千種と出逢ってまだ半年も経っていないではないか。まだまだお互いに知らないことが多過ぎる。

「うーん、何とか言ってほしいところ……」
「はい?」

 千種の独り言を聞き流してしまった亜希だったが、それでも少し気持ちを落ち着けることができた。こういうところで、亜希は千種が好きだと思う。全てを預けることはできないが、彼といると安心することができるのだった。
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