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2月 1

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 晴れた日の渋谷の賑わいは、昨夜あまり部屋の暖房を効かせないままで一人巻き寿司を食べた侘しさを忘れさせてくれた。暦の上ではもう春だが、今日も空気はきんと冷たい。
 暁斗は若い社員に付き添い、得意先に久々に顔を見せに行った帰りだった。元々暁斗が新規開拓した会社だったので、社長が暁斗はどうしているのかと尋ねていたと耳にしたからだった。
 70代の社長は、暁斗が課長になったと聞いて破顔した。暁斗の年齢での、営業課の課長への昇進は早いほうだ。茶を出してくれた社長夫人も、身体に気をつけて頑張ってと言ってくれる。一応若手に担当は引き継いでいたが、たまに顔を出さないといけないなと、暁斗は反省した。

「課長は外回りされてる時のほうが断然生き生きしてますよね」

 百貨店の前まで来たところで、部下の日高に言われる。

「取引先の人も課長が行ったら喜びます、固定の外回りもう少し復活させたらいいのに」
「そうかな」
「というかまあ、課長が来てくださったら僕らも安心なんですけど」

 甘えているのかと暁斗は苦笑する。自分たちも新入社員の頃はきっとそう言われていたのだろうが、最近の若い子は失敗を恐れて挑戦を嫌がる。
 暁斗が心配なのは、他人と関わりたがらない子も多いことだ。会社の飲み会に参加したがらないのはまあいい(暁斗だって一緒に飲む相手は選びたいと基本的には思う)が、仕事はそうはいかない。特に営業は、会社の最前線の部隊なのだから、つき合ってくれと先方が言って来た際は、承諾するほうが、双方のために良いのである。そう考える暁斗は、自分はそういう営業しか出来ないし、接待でプライベートを犠牲にする社畜と呼ばれても仕方がないと割り切っている。

「じゃ僕は会社に戻りますね、お昼ごちそうさまでした……課長、直帰しちゃいます?」

 日高は腕時計を見ながらにやりと笑う。暁斗はもう一つ約束があり、それが済んでからでも会社には戻れなくはない。

「微妙だなあ、電話は急ぎでなければ明日折り返すと答えてくれ、メールは見る」

 日高はラジャー、とおどけて敬礼してみせた。会社ではこんな風に振る舞わない男である。舐められているのかも知れないが、個別に外回りに行くと、相手の知らなかった顔が見えて面白い。
 駅に向かう部下を見送り、暁斗は2時間近くを何処で潰そうかと思案した。この辺りにちょっと感じの良い喫茶店があった筈だと思い出し、足を進めると、少し先の角で二人の男が立ち話をしているのが目に入った。

「……かなとさん」

 暁斗は見間違えなかった。それほどまでに、あの魔性の可愛らしい生き物に夢中になっていた。
 かなとはこれまで会った時とは、印象の違う服装をしていた。顔と身体を隠すような黒のロングコートとブーツではなく、短めのグレーのコートに細身のパンツ、足もとはビジネスシューズだった。微笑しながら相手と話しているのを見て、暁斗の胸に湧いたのは明らかにときめきだった。ディレット・マルティールを使うのは月に1度だけにしようと決めた暁斗は、辛うじてそれを守っているが、本当は毎週かなとの顔が見たいくらいである。
 この間のアフターのメールに、僕はあなたとの出会いに本当に感謝しています、などと、嬉しいことを書いてくれていた。それを何度読み返したことか。
 暁斗が数歩近づくあいだに、二人の表情からにこやかなものが消えたことにぎくりとした。かなとの前に立っている、よく見るとあまり品の無さそうな男は何者なのか。……かなとの客か。声をかけるべきではないかも知れないと思った時、相手の男の声がした。

「こっちだって色々都合があるんだよ、いちいち連絡しろっていうことな訳?」

 恫喝のようにも聞こえた。暁斗は思い直し、足早にそちらへ向かった。コートのポケットにスマートフォンがあることを確認する。何かあればすぐに警察に連絡できるように。

「僕たちはあなたのために時間を取っているんですよ」

 かなとの口調は強かった。聞いたことのない冷ややかな物言い。切れあがり気味の眉の下の目からは、微笑が消えていた。

「桂山さん……!」

 先にかなとが近づく暁斗に気づいた。こちらに顔を向けて、驚きの表情になる。暁斗は場違いにも、さっきの冷たい顔も今の驚いた顔も、きれいだと思う。
 かなとの声に、相手の男もこちらを見る。そして舌打ちをしそうな顔をした。柄の悪そうな男だが、ディレット・マルティールの会員だということは、それなりの人物なのだろうか。暁斗はかなとを守るように、彼のすぐ脇に立つ。

「どうしたんですか、こんなところで言い合いなんて」
「大丈夫です、ちょっとした行き違いです」

 かなとは言いながら、今度は明らかに軽蔑をたたえた顔を男に向けた。その目の冷たさに、暁斗のほうがひるんだ。この子にこんな顔をさせるとは、こいつは何をやらかしたのだ。

「おまえ、俺を馬鹿にしてるよな⁉ 金出してるのこっちだぜ? 何かおかしくね?」
「ルールを守っていただけないということでしたら事務所にそう言います」

 かなとは男の低劣な絡みを全く無視して言い放った。男は暁斗と同じくらいの年齢か、少し上にも見える。そんな相手にこのような態度で接するとは、なかなか肝が座っている。男が一歩かなとに近づいた。

「やめて下さい、手を出すなら警察を呼びますよ」

 暁斗は迷わず割って入った。かなとを背後に隠す体勢を取ると、男は逆上したらしかった。目を細めてこちらを見るので、彼の人相は更に悪くなった。

「あんたもこいつの客か⁉︎」
「客? 客だとも、この人は私の会社の大切な取引先の担当のかただ、場合によっては第三者に入ってもらう段取りをするぞ」

 暁斗は咄嗟とっさに言った。客という言葉に実は動揺した。男の顔に下卑た笑いが浮かぶ。

「……ふうん、あんたこの子がどんな副業をしてるか知ってるの?」

 暁斗の頭に血が昇ったが、挑発に乗るなと自分を叱りつける。男から目を離さず、答えた。

「この人の副業がどんなものかは私には関係ないことだ」

 保身のために堂々と嘘をつく自分に、暁斗は衝撃を受けた。

「警察に電話します」

 背中から凛とした声がした。かなとはスマートフォンを手にしていた。男はくっそ、と呟き、きびすを返して小走りで去っていく。警察を呼ばれるとまずいような職業の者なのか。

「かなとさん、大丈夫ですか」

 暁斗は男の姿が見えなくなってから、後ろを向いた。かなとは暁斗を見上げて、にっこり笑った。

「ありがとうございます、助かりました」

 かなとには怯えやほっとした様子が微塵も無かった。自分がいなくとも切り抜けたかも知れないと、暁斗は呆れるようなひやりとするような気持ちになる。豪胆過ぎる。

「あいつ何なんですか」
「たまにああいうかたがいらっしゃるんです、無理なチェンジや無断キャンセルを何回かなさったのでブラックリストに載っていました」

 かなとは言いながら、コートのポケットからICレコーダーを取り出し、スイッチを切る。

「約束して会ったんですか?」

 暁斗の問いに、かなとはいえ、とかぶりを振った。偶然捕まったらしい。

「……じゃあいつもレコーダーを持ち歩いてるんですか」

 かなとはゆっくりと瞬いた。長い睫毛が揺れる。セレブな顧客に深くかかわることになるスタッフは、望まない危険に晒される可能性があるということなのか。

「念のためです、こういう時に便利でしょう?」

 今のやり取りが神崎綾乃の知れるところになり、あの男はディレット・マルティールを退会させられるのだろう。しかしこんなことがよく起こるのであれば、危険だ。

「僕は大丈夫ですよ、桂山さん」

 信じてもいいのかわからないが、暁斗はひとつ息をついた。かなとが小さく笑う。感情の読めない彼の笑顔を見て、ここで彼の副業に関していろいろ質問するのは良くないのだろうと察した。

「かなとさん、時間ありますか? 何か飲みませんか? それとも勤務時間外に客と付き合うのは禁止?」

 暁斗は気持ちを上向きにして、言った。邪魔者がせた以上、かなととあっさり別れる訳にはいかない。

「別に禁止じゃないですよ、1時間でよければ……」

 かなとは腕時計を見ながら答えた。暁斗は一瞬にして明るい気持ちになる。内心小躍りして、目指していた喫茶店に彼を導いた。



 かなとは大きなビジネスバッグとパソコンケースを持っていて、暁斗より大荷物だった。

「桂山さんかっこよかったです、ますます惚れちゃう」

 荷物を横の椅子に置きながら、かなとは小さく言った。不意打ちを食らい、暁斗は童貞の高校生みたいに赤くなった。

「……たまには頼りになりそうなところも見て貰わないと」

 暁斗の言葉にかなとは笑う。彼は笑顔になったまま、ウェイトレスにコーヒーをオーダーした。

「外回りですか? 会社に帰るところでしたか?」
「ああ、一つ終わって15時にもう一つ約束があります」

 やっと暁斗はかなとの顔を正面から見ることができた。これまで夜にしか会わなかったので、昼の喫茶店でその顔を見るのは新鮮だった。黒い髪に黒い瞳、まっすぐな鼻梁、形の良い唇。それに細くて長い首……タートルネックのセーターがよく似合う。

「桂山さん髪の色明るいんですね、触ってますか?」

 相手も自分を観察していたようだった。その事実に照れて、どうでもいいことまで口走る。

「いいえ、ちょっと白髪出てきましたけど」
「髪の色が明るいと目立たないですよ、いい色だから全部を染めるともったいないです」

 かなとは明るい声で、ぱきぱきと話した。それを聞いて思い至る。変えているのだ、服装も、話しかたも。ディレット・マルティールのスタッフとして、彼を求める客が観る舞台に立つために。

「……どうかしましたか?」

 かなとに訊かれて、暁斗は我に返った。

「夜と少し雰囲気が違うので」
「そうですか? あ、そうだ……」

 かなとは夜に持っているものより大きめの名刺入れを鞄から出した。一枚、白い紙を暁斗に差し出す。

「僕の本業です」

 暁斗は紙片からもたらされた情報に心底驚かされた。
 高崎たかさき奏人かなと、コンピュータ会社に所属するシステム・エンジニア。

「……本名なんだ」
「源氏名だと思ってました? うちのスタッフはみんな本名で働いているんですよ」

 かなと……高崎奏人は笑った。暁斗は不思議な気分になっていた。夜にしか現れないかなとという名の正体不明の魅力的な青年の幻が、目の前に現実の高崎奏人として再生された、そんな感じがする。しかもこの容姿にどちらかといえば似合わない、一日中コンピュータに触っている職業。

「がっかりしましたか?」

 奏人の言葉に、暁斗はどうして? と応じた。

「だってきっと桂山さん……僕にファンタジーを感じていたでしょう?」
「ファンタジー……」

 うまいこと言うな、と思う。紛れもなく目の前の青年は、これまで口から出る言葉ででも暁斗を魅了してきた者だった。暁斗は自分の顔がだらしなく緩んでいるのを自覚しつつ、言った。

「今の奏人さんだって私にはファンタジーですよ」

 奏人はちょっと目を見開いて、うつむいて笑った。照れ隠しのようにも見えて、可愛らしい。
 コーヒーがやってきて、会話が途切れる。奏人はミルクだけをカップに入れて、長い指でスプーンを取り上げる。暁斗は、目の前の青年にこんなに焦がれているのに、彼が食べ物を口にするところさえ見たことがなかった。その事実が奇妙に思える。
 奏でるひと、と書く彼の名を美しいと暁斗は思った。その細くて長い指から、ピアノやヴァイオリンを弾く姿を連想した。案外、的外れでないかも知れない。

「……あ、ボーナスどれくらい出たの?」

 暁斗はブラックのままでコーヒーに口をつけた。ずっと気になっていたのだが、やや話題が下世話だなと勝手に反省した。

「ボーナス?」

「あー……客がおかずにしたらその分って話してたでしょう?」

 暁斗がやや声を潜めた言葉に、奏人はコーヒーカップを持ったまま、ぷっと吹き出した。

「ごめんなさい、あれ……冗談です」

 暁斗はあ然となった。あんな冗談で、人が自慰行為をどれだけしているかを聞き出すなんて、悪趣味が過ぎる。

「ほんとにごめんなさい、だって気になって……ほら、前回まあ事実が確認できて、その後どんな感じで折り合いをつけてらっしゃるかなと思ったんです」
「それにしても……あれは」

 暁斗は抗議しようとしたが、奏人がもう一度謝り、その様子に愛おしさを覚えてしまったので、追求を中止した。……奏人と自分しか知らない、極めて個人的で猥雑な秘密。

「でも僕は嬉しかったんですよ」

 それは本当らしいので、暁斗は返す言葉がなかった。特定の人のことを妄想しながらマスターベーションをしたり、会いたいという渇望を脳内でぐるぐる回したりするなんて、これまで経験が無かった。その当の相手から嬉しいなどと言われて、何と答えたらいいのか。

「桂山さん、あと一回指名をください……ちょっと喜んでいただけるプレゼントを用意します」

 奏人はカップを皿に戻し、ややもったいぶった口調で言った。暁斗は自分でも愚かしく思えるくらい、期待にどきどきしてしまう。

「LINEのIDをお渡しします、会社のアドレスは事務所にチェックされるのでなかなか色々お話しできませんから」

 暁斗は奏人とSNSで繋がることができると思うと、子どもみたいに嬉しくなるのを自覚した。しかし指名の回数とどう関係するのだろうか。少しごねてみることにした。

「……今じゃ駄目なの?」
「マイルールにしてるんです、……すぐにいろんな人とLINEやFacebookで繋がるのは好きじゃないので」

 暁斗は奏人が警戒心の強い一面を持つことを初めて知った。夜の仕事の性質上、当然かも知れない。彼は続ける。

「桂山さんが信用できない訳じゃないんです、僕も桂山さんに今日はマスターベーションしてくれましたかとか毎日お尋ねしたいところなんですけれど」
「それはいいよ」

 暁斗の即答に奏人は笑った。

「あと……誰かに一緒にいるのを見られて突っ込まれた時の口裏合わせを考えましょうか、これは今」

 暁斗はさっきの自分の対応が奏人にこんな提案をさせているのだと、苦々しい思いになった。思わず俯いて、覚悟の足りない、嘘つきな自分を恥じる。

「やっぱり……私があなたの客だとは正直に言えなかった」
「言えないのが当たり前です、桂山さんはまだ同性愛者として生きていく準備もできてないのに……だからさっきうまい言い訳するなって感心しましたよ」

 奏人は慰めるように言う。そしてあの言い訳もストックしておき、遠い親戚という設定も考えようと言った。妙に楽しそうである。

「奏人さんは北海道の出身なんですよね、どちらなんですか?」

 暁斗は閃いたことがあり、尋ねた。

「帯広です」

 本当に冬が寒いところだ。奏人のたたずまいに相応ふさわしいと暁斗は思う。

「私が大好きだった叔父……父の弟が札幌に住んでいました、その奥さんの従妹の息子さん……だったかなぁ、あなたと同じくらいの子がいます」

 遠すぎる縁者の話題に、奏人はくすっと笑って肩をすくめた。

「全く桂山さんと血の繋がりがないですね」
「似てなくても不思議じゃないでしょう? その子ということにしましょうか、私や他の親戚を頼って東京に出てきた……」
「桂山さんは地の東京人?」
「立川ですけどね、地元です……私の父も母も東京出身です、叔父は北海道が好きであちらの大学を出てそのまま就職したんだそうです」

 叔父は3年前、定年後のプランを何一つとして果たさないまま病魔に負けて世を去った。その葬儀の時に、初めて会う叔母方の親戚に次々と紹介されたのである。

「叔父さまはどんなご病気で?」
「膵臓癌です、見つかった時には手遅れで……札幌に出張へ行った時にお見舞いに行ったのが最後でした、見る影もなく痩せて……」

 暁斗の話に、奏人は悲痛な表情を浮かべた。

「桂山さんも辛かったですよね、大好きな叔父さまが……お若いのに」

 ええ、と暁斗は答えた。叔父の死は確かに暁斗にとって悲しいものだったが、奏人の表情がやけに沈んだのが気になり、どうしましたか、と思わず言った。

「いえ、……じゃあ会社の人に出会ったらそう説明してくださいね」

 奏人は楽しげな顔に戻った。自分の客の一人一人と「親戚ごっこ」をしているのだろう。堂々と紹介できる関係ではないが、ここまでごまかさないといけないのだろうか。暁斗は嬉しいひとときに、苦い雑味が混じるのを感じた。
 それでも至極単純に、奏人と雑談をした1時間は、暁斗の心を明るい色合いに染めた。15時に向かった取引先とも和やかなムードで話し合いが出来たので、暁斗は結局直帰せず、意気揚々と会社に戻り、少し事務処理をした。社畜上等だ、給料を貰わなくては奏人の顔も見ることができないのだから。
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