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3月 1
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奏人のカレンダーに全く空きが出ないまま月が変わり、暁斗も年度末の仕事に忙殺され始めた。締めの作業は経理系の課に比べれば多くはないものの、営業などがきちんと書類を処理していないと、その経理に大迷惑になる。暁斗は課の社員たちに、放置している領収証が無いかを確認させ、3月中に終わらせたい業務の稟議書に目を通してハンコを押す。
「わぁ、東北と北海道は雪降ってるそうですよ」
19時を過ぎた頃、ネットのニュースを見て長山が声を上げた。東京も今日は春の嵐で、さすがに雪は降らないものの、朝から冷たい雨が降っている。直帰しない外回り要員には、なるべく早く戻るように暁斗は指示していた。爆弾低気圧なんて、いつからそんな用語が定着したのだろう。
「みんな終わったら早く帰れよ、電車が乱れたらまずい」
暁斗は部下たちに指示したが、残業も2時間を超えると皆テンションがおかしくなる。
「帰れなくなった場合は課長がタク代出してくれるんでしょ?」
「明日休みだろ、歩いて帰れ」
「あるいは課長の家にお泊まりとか?」
「絶対嫌だ」
長山の言葉を即否定すると同時に、最後に外回りから戻った宇野が駆け込んできた。
「寒い! めちゃくちゃ寒い!」
春物のコートでは風を防ぎきれなかったらしく、しかも雨に濡れていた。その気の毒な姿に、暁斗は思わず言う。
「風邪引くぞ、それ脱いで頭も拭いて……誰かコーヒー淹れてやれ」
「はーい、課長は?」
暁斗の指示に明るい返事の声が上がった。
「俺お茶がいい」
「他に何か飲みたい人いる?」
私も俺もという声が出て、長山と和束が給湯室に向かった。
暁斗はデスクで書類を整理しながらカレンダーを視界の端に入れた。今日は奏人の誕生日である。誰と過ごしているのだろうかと考えると、チリッと胸を焼くものがあった。
お茶を淹れてくれた長山に礼を言った時、電話が鳴った。こんな時間の内線なんて、経験上ろくな連絡でない可能性が高い。暁斗が長山の顔を見上げると、彼女は肩をすくめた。
「はい、桂山です」
「桂山課長、お客様です」
「え? 今来てるの?」
暁斗は1階の受付からの電話に、驚きと面倒くささを覚えた。しかし受付嬢の言葉は、暁斗の緩んだ気持ちに焼き鏝を当てた。
「たかさきかなと様とおっしゃるかたです、若い男性ですが」
暁斗はすぐ行く、と小さく即答した。お茶を一口飲み、急ぎ足で部屋を出て行く彼を、部下たちは何事かと見送った。
どういうことだ。果たしてエレベーターを降りて目に飛び込んできたのは、所在無さげに受付の前に佇む奏人だった。ロビーの煌々とした明かりに、その輪郭が薄くなっているように見えた。
「ど、どうしたの?」
暁斗は受付の新城の視線を感じて、動揺を必死で抑え込む。奏人は暁斗が傍に行くなり、ごめんなさい、とぽつりと言った。彼は白いシャツに黒のネクタイをつけていて、羽織ったコートをびっしょり濡らしていた。黒い傘から水が滴っている。
「大丈夫ですか?」
新城が奏人の様子を見て、心配そうに訊いてきた。確かに、こんな時間に会社のビルを喪服の人間が訪れるなど、尋常でない。しかも奏人は青い顔をしていた。寒いのだろう、唇が微かに震えている。暁斗はその痛々しい様子に、胸の中を絞られた。
「身体を拭くものはある? すぐに終わらせて降りてくるから、何か温かいものを飲ませてやって」
暁斗は新城とは割と気安いこともあり、頼んだ。彼女ははい、と答えてエレベーターホールの奥に走って行く。
「ほんとにごめんなさい」
「いいです、気にしないで」
奏人はその場で倒れてしまいそうだった。ホールのソファに引っぱっていく。初めて見る彼の弱った姿に動揺しつつ、暁斗は声を潜めて尋ねた。
「一体何があったんですか」
「先生のお通夜に……」
暁斗ははっとした。例の「大切なひと」か。
「桂山課長、これを……」
新城が靴の踵を高く鳴らしながら、受付の前のソファに向かってきた。
「私に話を合わせておいて」
らしくなくぼんやりしている奏人に、暁斗は囁いた。奏人は細い首をうなだれたまま、はい、と答えた。
「北海道の親戚なんだ、恩師のお通夜に来たらしいんだけど飛行機が飛ばなくなったみたいで」
新城は暁斗にタオルとお茶のペットボトルを手渡しながら、まあ、と美しく整えた眉の裾を下げた。
「今日なんかホテルの空室もすぐに見つかるかどうか……」
「うちに泊めるよ、ちょっと上片づけてすぐ……」
その時、エレベーターから3人の社員が降りてきた。そのうちの一人の顔を認めて、暁斗は緊張する。山中穂積だった。
「あれ、何してるの?」
「山中課長、お疲れ様です」
新城はこちらに来る山中に挨拶したが、余計なことを言った。
「桂山課長の親戚のかたがいらっしゃって、北海道への飛行機が欠航になって帰れないと」
「ああ、もうこっちに泊まらなきゃ仕方ないよ、あっちえらいことになってるから」
こっちに来るな! 暁斗は山中に心の中で毒づいた。しかし山中は興味を覚えたらしく、2人の部下を放置してさらに足を進めてきた。
「山中さんすみません、お騒がせして」
暁斗は牽制のつもりで言い、奏人が彼の視界になるべく入らないよう壁になる。山中はディレット・マルティールの会員だ、奏人の顔をあのページで見ている確率が高い。暁斗はそんな行動をとる自分に、先月の渋谷での出来事の後と同じ苦々しさを覚えた。
「お葬式だったの? 遠いところ大変だったね、ご愁傷様」
山中に言われて、奏人は少し顔を上げ、ありがとうございます、といつものように丁寧に言い、軽く会釈した。暁斗ははらはらしてそれを見守る。
山中は気をつけて、と片手を挙げて部下たちのほうに戻った。3人が雨に悪態をつきながらビルを出るのをほっとしながら見届け、お茶を口にする奏人に待っているよう言い、エレベーターに乗る。コートを脱いで髪を拭いた桂山課長の親戚の子が美形であることに気づいたからか、新城がしっかり見ていてくれそうだった。
奏人の顔には少し色が戻っていたが、品川に着いて京浜東北線に乗り換えるまで、ほとんど口をきかなかった。打ちひしがれた様子の喪服の青年に、ちらちら視線を送る乗客がいる。暁斗は彼を泊めるつもりで連れてきたが、まず風呂を沸かして、と考え始めてすぐに困った。まともに貸せる着替えさえ無い。だいたい、サイズが全く違う。
「服を調達しなきゃいけないなぁ」
「何とかします、気にしないで……ほんとにごめんなさい」
奏人は伏し目がちのまま言った。彼がどこに住んでいるのか暁斗は知らないが、自宅に帰ると言わない辺り、一人になりたくないのだろう。気持ちは分からなくもない。
大森駅で大勢の人に紛れて降りると、まだ駅直結のショッピングビルが開いていた。奏人は入り口で足を止めた。
「着るものを買ってきます、待っていただいていいですか?」
「……大丈夫?」
暁斗は心配だったが、奏人は黙って頷いた。彼がファストな衣料品店で買い物をする間に、暁斗は地下の食料品売り場を物色した。冷蔵庫はほとんど空っぽだ。
1階から上の店舗の閉店を告げるアナウンスを聴きながら、値引きシールが貼られた惣菜数点とレトルトのごはん、明日の朝のパンや牛乳などをかごに入れる。
1階の入り口で合流し、互いの傘の中に縮こまりながら暁斗の自宅に向かった。雨は弱まる様子が無く、強い風が髪をなぶる。マンションまでひどく長い時間歩いたような気がした。
「すぐに風呂を沸かすから……ごはんはそのあとでいいね?」
ホールに入り、珍しげに辺りを見る奏人に言った。畳んだ傘から水を滴らせながら、エレベーターに足早に乗りこむ。暁斗の部屋は5階の隅だった。玄関の扉を開けると、中もひんやりしていた。靴の中にまで雨が入り気持ち悪かったので、まず洗面所に行きタオルを出した。コートを脱ぐ奏人に一枚手渡す。
「寒いな、ちょっと待って、暖房……」
暁斗は電気のスイッチを入れ、コートを椅子の背に掛けてからダイニングを横切る。奏人が静かについて来る気配がする。
リビングでエアコンのリモコンを探そうとしたが、その場で背中から羽交い締めにされた。思わずえっ、と声が出る。自分の胸の前で奏人の手が震えているのを見て、暁斗は後ろを振り向こうとした。そこから聞こえてきたのは、子どものようにしゃくり上げる声だった。
「奏人さん……」
暁斗は何と言葉をかけたらいいのかわからず、途方に暮れてしまった。自分の背中にくっついて泣き続ける奏人の手に触れていいのか迷いながら、そのまましばらく時間が過ぎていった。
「わぁ、東北と北海道は雪降ってるそうですよ」
19時を過ぎた頃、ネットのニュースを見て長山が声を上げた。東京も今日は春の嵐で、さすがに雪は降らないものの、朝から冷たい雨が降っている。直帰しない外回り要員には、なるべく早く戻るように暁斗は指示していた。爆弾低気圧なんて、いつからそんな用語が定着したのだろう。
「みんな終わったら早く帰れよ、電車が乱れたらまずい」
暁斗は部下たちに指示したが、残業も2時間を超えると皆テンションがおかしくなる。
「帰れなくなった場合は課長がタク代出してくれるんでしょ?」
「明日休みだろ、歩いて帰れ」
「あるいは課長の家にお泊まりとか?」
「絶対嫌だ」
長山の言葉を即否定すると同時に、最後に外回りから戻った宇野が駆け込んできた。
「寒い! めちゃくちゃ寒い!」
春物のコートでは風を防ぎきれなかったらしく、しかも雨に濡れていた。その気の毒な姿に、暁斗は思わず言う。
「風邪引くぞ、それ脱いで頭も拭いて……誰かコーヒー淹れてやれ」
「はーい、課長は?」
暁斗の指示に明るい返事の声が上がった。
「俺お茶がいい」
「他に何か飲みたい人いる?」
私も俺もという声が出て、長山と和束が給湯室に向かった。
暁斗はデスクで書類を整理しながらカレンダーを視界の端に入れた。今日は奏人の誕生日である。誰と過ごしているのだろうかと考えると、チリッと胸を焼くものがあった。
お茶を淹れてくれた長山に礼を言った時、電話が鳴った。こんな時間の内線なんて、経験上ろくな連絡でない可能性が高い。暁斗が長山の顔を見上げると、彼女は肩をすくめた。
「はい、桂山です」
「桂山課長、お客様です」
「え? 今来てるの?」
暁斗は1階の受付からの電話に、驚きと面倒くささを覚えた。しかし受付嬢の言葉は、暁斗の緩んだ気持ちに焼き鏝を当てた。
「たかさきかなと様とおっしゃるかたです、若い男性ですが」
暁斗はすぐ行く、と小さく即答した。お茶を一口飲み、急ぎ足で部屋を出て行く彼を、部下たちは何事かと見送った。
どういうことだ。果たしてエレベーターを降りて目に飛び込んできたのは、所在無さげに受付の前に佇む奏人だった。ロビーの煌々とした明かりに、その輪郭が薄くなっているように見えた。
「ど、どうしたの?」
暁斗は受付の新城の視線を感じて、動揺を必死で抑え込む。奏人は暁斗が傍に行くなり、ごめんなさい、とぽつりと言った。彼は白いシャツに黒のネクタイをつけていて、羽織ったコートをびっしょり濡らしていた。黒い傘から水が滴っている。
「大丈夫ですか?」
新城が奏人の様子を見て、心配そうに訊いてきた。確かに、こんな時間に会社のビルを喪服の人間が訪れるなど、尋常でない。しかも奏人は青い顔をしていた。寒いのだろう、唇が微かに震えている。暁斗はその痛々しい様子に、胸の中を絞られた。
「身体を拭くものはある? すぐに終わらせて降りてくるから、何か温かいものを飲ませてやって」
暁斗は新城とは割と気安いこともあり、頼んだ。彼女ははい、と答えてエレベーターホールの奥に走って行く。
「ほんとにごめんなさい」
「いいです、気にしないで」
奏人はその場で倒れてしまいそうだった。ホールのソファに引っぱっていく。初めて見る彼の弱った姿に動揺しつつ、暁斗は声を潜めて尋ねた。
「一体何があったんですか」
「先生のお通夜に……」
暁斗ははっとした。例の「大切なひと」か。
「桂山課長、これを……」
新城が靴の踵を高く鳴らしながら、受付の前のソファに向かってきた。
「私に話を合わせておいて」
らしくなくぼんやりしている奏人に、暁斗は囁いた。奏人は細い首をうなだれたまま、はい、と答えた。
「北海道の親戚なんだ、恩師のお通夜に来たらしいんだけど飛行機が飛ばなくなったみたいで」
新城は暁斗にタオルとお茶のペットボトルを手渡しながら、まあ、と美しく整えた眉の裾を下げた。
「今日なんかホテルの空室もすぐに見つかるかどうか……」
「うちに泊めるよ、ちょっと上片づけてすぐ……」
その時、エレベーターから3人の社員が降りてきた。そのうちの一人の顔を認めて、暁斗は緊張する。山中穂積だった。
「あれ、何してるの?」
「山中課長、お疲れ様です」
新城はこちらに来る山中に挨拶したが、余計なことを言った。
「桂山課長の親戚のかたがいらっしゃって、北海道への飛行機が欠航になって帰れないと」
「ああ、もうこっちに泊まらなきゃ仕方ないよ、あっちえらいことになってるから」
こっちに来るな! 暁斗は山中に心の中で毒づいた。しかし山中は興味を覚えたらしく、2人の部下を放置してさらに足を進めてきた。
「山中さんすみません、お騒がせして」
暁斗は牽制のつもりで言い、奏人が彼の視界になるべく入らないよう壁になる。山中はディレット・マルティールの会員だ、奏人の顔をあのページで見ている確率が高い。暁斗はそんな行動をとる自分に、先月の渋谷での出来事の後と同じ苦々しさを覚えた。
「お葬式だったの? 遠いところ大変だったね、ご愁傷様」
山中に言われて、奏人は少し顔を上げ、ありがとうございます、といつものように丁寧に言い、軽く会釈した。暁斗ははらはらしてそれを見守る。
山中は気をつけて、と片手を挙げて部下たちのほうに戻った。3人が雨に悪態をつきながらビルを出るのをほっとしながら見届け、お茶を口にする奏人に待っているよう言い、エレベーターに乗る。コートを脱いで髪を拭いた桂山課長の親戚の子が美形であることに気づいたからか、新城がしっかり見ていてくれそうだった。
奏人の顔には少し色が戻っていたが、品川に着いて京浜東北線に乗り換えるまで、ほとんど口をきかなかった。打ちひしがれた様子の喪服の青年に、ちらちら視線を送る乗客がいる。暁斗は彼を泊めるつもりで連れてきたが、まず風呂を沸かして、と考え始めてすぐに困った。まともに貸せる着替えさえ無い。だいたい、サイズが全く違う。
「服を調達しなきゃいけないなぁ」
「何とかします、気にしないで……ほんとにごめんなさい」
奏人は伏し目がちのまま言った。彼がどこに住んでいるのか暁斗は知らないが、自宅に帰ると言わない辺り、一人になりたくないのだろう。気持ちは分からなくもない。
大森駅で大勢の人に紛れて降りると、まだ駅直結のショッピングビルが開いていた。奏人は入り口で足を止めた。
「着るものを買ってきます、待っていただいていいですか?」
「……大丈夫?」
暁斗は心配だったが、奏人は黙って頷いた。彼がファストな衣料品店で買い物をする間に、暁斗は地下の食料品売り場を物色した。冷蔵庫はほとんど空っぽだ。
1階から上の店舗の閉店を告げるアナウンスを聴きながら、値引きシールが貼られた惣菜数点とレトルトのごはん、明日の朝のパンや牛乳などをかごに入れる。
1階の入り口で合流し、互いの傘の中に縮こまりながら暁斗の自宅に向かった。雨は弱まる様子が無く、強い風が髪をなぶる。マンションまでひどく長い時間歩いたような気がした。
「すぐに風呂を沸かすから……ごはんはそのあとでいいね?」
ホールに入り、珍しげに辺りを見る奏人に言った。畳んだ傘から水を滴らせながら、エレベーターに足早に乗りこむ。暁斗の部屋は5階の隅だった。玄関の扉を開けると、中もひんやりしていた。靴の中にまで雨が入り気持ち悪かったので、まず洗面所に行きタオルを出した。コートを脱ぐ奏人に一枚手渡す。
「寒いな、ちょっと待って、暖房……」
暁斗は電気のスイッチを入れ、コートを椅子の背に掛けてからダイニングを横切る。奏人が静かについて来る気配がする。
リビングでエアコンのリモコンを探そうとしたが、その場で背中から羽交い締めにされた。思わずえっ、と声が出る。自分の胸の前で奏人の手が震えているのを見て、暁斗は後ろを振り向こうとした。そこから聞こえてきたのは、子どものようにしゃくり上げる声だった。
「奏人さん……」
暁斗は何と言葉をかけたらいいのかわからず、途方に暮れてしまった。自分の背中にくっついて泣き続ける奏人の手に触れていいのか迷いながら、そのまましばらく時間が過ぎていった。
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