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3月 4

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 奏人が大崎駅から徒歩数分の小さなビルの3階に向かうと、エレベーターホールで二人の若い男性と遭遇した。彼らは同時に、奏人に明るい声でお疲れ様でした、と礼儀正しく挨拶する。

「お疲れ様、明日はゆっくり休んで」

 奏人の言葉に二人は順番に口を開く。

「奏人さんこそ誕生祭ご苦労様でした」
「ありがとうございます、これからカウンセリングですか?」
「ありがと、うん……大丈夫って言ってるんだけど」

 奏人の苦笑に彼らも小さく笑う。毎月最終土曜日、ディレット・マルティールのスタッフは、神崎綾乃と個人面談をすることになっている。スタッフたちはそれを、少々の面倒さを匂わせながらカウンセリングと呼ぶ。しかし基本的に礼儀正しく人の機微に敏感な彼らは、それが綾乃の愛情に他ならないことをちゃんと理解している。
 二人は憧れの先輩――ゴールドクラスの5人のスタッフ中売り上げは3番目ではあるものの、パトロヌスの多さと高評価指数で他の追随を許さない奏人と言葉を交わせた嬉しさを、表情いっぱいに示しながら去っていく。
 奏人は後輩の面倒見が良かった。自分がこの仕事を始めた頃は、誰に何を尋ねたらいいのかさえわからなかったので、後輩たちにはなるべく不安なく仕事に臨んでほしいと思う。それだけのことなのだが、奏人は若いスタッフに慕われていて、彼もそのことを自覚していた。
 事務所の扉を開けると、ほのかに香が匂った。奥の部屋から綾乃が顔を覗かせた。

「お疲れ様、何か飲む?」
「何があるの?」
「ハーブティがカモミールとベリーとレモンミント、デカフェ、ルイボスティー、今季最後のゆず茶、麦茶もあるわよ」

 面談なのでアルコールは出ない。カフェインも抜きの場合が多い。奏人はレモンミントを頼む。

「あら可愛い、帰国したばかりの頃のカナちゃんを思い出したわ」

 綾乃はいつもと違うテイストの格好をしている奏人に笑いかけた。ルーズなコットンのボトルネックセーターにワイドジーンズ、足元はスリッポンだった。上品な顔立ちの奏人だからこそ、真面目な学生のような雰囲気が出ている。

「いいでしょ、ふふふ」

 奏人は部屋に入ってソファに腰を落ち着けた。部屋の脇にある小さな台所で、お湯の沸く音がする。ここは綾乃の謁見の間だ。西澤は彼女をクイーン・エリザベスとたまにふざけて呼んだ。イギリスという国を完成させた偉大な女王にほんの少し容姿が似ているのもあるのだが、綾乃の経営者としての手腕を讃えての呼称だった。

「心境の変化かしら?」
「ううん、アキちゃんが選んでくれたんだ」

 綾乃はアキちゃん? とおうむ返しに言った。

「桂山さん」

 奏人の返事に綾乃はまあ! と高い声になった。綾乃は桂山暁斗が先週奏人を自宅に泊めて、昼過ぎまで面倒を見たことを、桂山本人と奏人の双方から聞いていた。覚悟はしていただろうが、奏人が西澤の死にショックを受けることはわかっていた。どうするかと思案していたのだが、奏人は自分で癒しを得られる場所に飛び込んで行ったらしい。翌日の仕事も無事にこなしたようだし、綾乃としてはひと安心だった。

「桂山さんの買い物の話が可笑しくて」

 西澤の通夜は荒天の中おこなわれ、傘をさしても濡れてしまった奏人の喪服と靴は、翌朝乾く気配が無かった。桂山の服は奏人にサイズが全く合わない。困った桂山は奏人に全てのサイズを訊いて、前夜も奏人が下着とトレーナーを買ったファストファッションの店に赴き、ある男性店員にメモを渡してこう言ったらしい。

「今あなたの着ている服を全部いただきたいんです、サイズはこれで」

 綾乃はハーブティを運びながら笑った。

「じゃあ大森のその店に行ったら奏人と同じ格好の店員さんがいるのね」
「そう、でもセーターは色違いだって」
「あの人結構センスいいのね、よく似合ってるわよ」

 ハーブティに口をつけながら、奏人がはにかんだような表情になる。こんな顔をするのは、随分久しぶりだと綾乃は思う。

「僕に合いそうな格好をしてると思ったんだって、誕生日のプレゼントにって渡してくれた」
「よかったじゃない、それにしても大胆な声かけをするのね、さすが優秀な営業マンだわ……そんなこといきなり言われたら店員さんがちょっと引きそうだけど」
「それがそうじゃないところがアキちゃんの人徳だよね、お店が暇そうで丁寧に対応してくれたなんて言ったけどね」

 奏人は桂山のことを、不思議な人だと思う。10も上だと思えないような頼りなさそうな態度を見せるかと思えば、やけにどっしりと構えたり、大胆になったりする。だから奏人は少し戸惑う。
 ただ、夜に会っても昼に会っても変わらないのは、本当に優しいところと、好意を隠さないところだ。彼は奏人に非常に懐いてくれていて、それを利用してからかう時もある。それがこの間、だめだ、と厳しい声で言った。どうして言うことを聞かないのだと地団駄踏みそうになった奏人だったが、その真剣な表情に、負けた。大切な人だから大切に扱いたいなんて、結構詩人ではないか。少なくとも奏人は、今まで誰からもそんな台詞を吐かれたことはなかった。

「奏人、桂山さんのこと好きかしら?」

 綾乃は奏人の思索を妨げないように、そっと訊いた。ティーカップを皿に戻して、どの種類の好きなの、と奏人は問い返す。

「恋してるのかって話よ」

 わからない。奏人は恋をよく知らない。男の子のほうが好きという気持ちは、自分でも汚らわしいと思っていたし、高校生の時は仄かな思いを利用された。西澤へは憧れの気持ちのほうが強く、ヴォルフ――アメリカで知り合ったドイツからの留学生とは、お互いの思いを確かめ合ってすぐに引き裂かれたので、それは恋とも呼べないまま奏人の手から滑り落ちてしまった。

「恋ってどんなものなの?」

 ケルビーノのように問いかける奏人に、綾乃は私もよくわからないけど、と微笑する。綾乃は同性愛者ではないが、男性は怖いという気持ちが抜けない。彼女は中学生の頃、母親の再婚相手から複数回の暴行を受けていた。西澤や、奏人を含むベテランスタッフはそのことを知っている。ゲイに囲まれるこの仕事は、綾乃にとって居心地が良く、だからこそ経営者としての能力を発揮できたのかも知れなかった。

「うーん……どの本を読んでもちゃんと説明してくれてないから」

 だが綾乃は、あの朴訥ぼくとつとした営業課長を奏人がよく気にしていることが、客へのいつもの態度とは違うと思っている。奏人にも自覚があるはずなのに、ごまかそうとするのが少し可笑しい。

「西澤先生なら教えてくれたかなぁ」
「どうかしらね」

 奏人は西澤の名を口にして、胸に冷たい風が吹くのを感じたが、涙腺が決壊するような突き上げる悲しみは収まっていた。桂山の腕の中で3年分くらい泣いた時間は、彼には申し訳なかったが、奏人を随分落ち着かせた。
 西澤はもういない。これからは自分で考えて、答えを導き出さなくてはいけないのだ。そう思うとやはり切なかったが、出来ないと言って泣こうとは思わなかった。

「アキちゃんのことは確かに好きなんだ、本人にも言ったんだけど……」

 桂山は嬉しそうだった。犬と比べた時は少しムッとしたが。奏人は続けて綾乃に言いかけて、やめた。彼のほうから長いキスをしてくれたこと、遠慮がちな短い愛撫に感じてしまったこと。あの朝のことを思い出すと、気持ちよくして欲しいなどと口走った自分を恥じてしまう。しかし同時に、彼ならきっとこんな風にしてくれそうだという、自慰への欲求を伴う想像が止まらなくなる。性的に淡泊だという自覚のある奏人には、珍しいことだった。
 何となく遠い目になった奏人を見て、焦ることはないと綾乃は心の中で励ます。綾乃が一度だけ病院に西澤を見舞った時、彼は目を覚ましていて、綾乃に幾つかの言葉をくれた。そして、カナは最近いいお客さんと出会ったのかな、と問うので、もしかしたらと答えると、笑顔を見せた。彼は愛弟子のことをよく見ていた。
 特別な相談がない限り、奏人に限らず、ディレット・マルティールの月例の面談はいつもこんな調子だった。綾乃はこうして大切なスタッフたちが何を思い過ごしているのかを把握する。スタッフたちは、母親になることを諦めている彼女にとって一人一人が大切な息子のようなものだった。
 奏人は姉のような、あるいは母のような女性に挨拶をして事務所を出た。出がけに桂山が4月から奏人のパトロヌスになると聞かされ、馬鹿だなあ、と呟いた。そんな手続きをしなくたって、桂山さんが望むなら、ちょっとくらい食事にもプライベートなセックスにも応じてあげるのに。……スタッフとしてはNGだけど、桂山さんはまだゲイ初心者だから、いろいろ教えてあげたいし、自分の本当の姿に慣れて欲しいから。奏人は何となく楽しくなり、こっそり微笑した。

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