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5月 3

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 暁斗が目覚めると、また白い天井が視界に入った。会社の医務室でないのは分かったが、自分が何処にいるのか全くわからない。腕から細いチューブが伸びている。点滴を施されていた。アルコールの微かな匂い。

「あ、気がつきましたか? 病院です」

 覗きこんで来たのは、若い看護師だった。

「熱が高いのと少し脱水症状を起こしていたので点滴してます、あと30分ほど我慢してくださいね」
「あ……どうしてここに……」

 暁斗はかすれた声で尋ねた。声が出たことに驚く。さっき奏人からの電話に、何も答えられなかったのに。……奏人が助けてくれたのか。暁斗が首を動かしたので、看護師はすぐに答えてくれた。

「お連れ様が救急車を呼んだんですよ、外で待ってらっしゃいます」

 おぼろげな記憶。フローリングの冷たさに凍えそうになっていると、チャイムが鳴り、玄関の扉を叩く音がした。どうやってドアが開いたのかよくわからないが、そこには、奏人に似た天使が光を浴びて立っていたのだ。そうか、と暁斗は熱に浮かされたまま思った。俺は死ぬのだ、死神は自分が一番好きだった人の姿をして訪れると聞いたことがある。
 暁斗は小さく息をついた。看護師は部屋を出て行き、すぐに「お連れ様」を伴って戻ってきた。奏人は暁斗の顔を見て、ほっとしたように表情を緩めた。続いて若い医師が入ってきて、やはりちらりと笑顔になった。

「目が覚めて良かったです、最後まで点滴は受けてくださいね」

 暁斗はすみません、と医師の言葉に応じた。

「桂山さんはお一人なんですよね、朝までいますか? さっきほとんど意識が無かったので少し心配なんですが」
「僕が一緒にいます」

 奏人はすぐに答えた。医師はそれなら、と言った。

「救急でできる処置はここまでなんです、明日かかりつけのお医者様に改めて診てもらってください……それまでに万が一急変したら迷わず救急車を呼んでくださいね」

 暁斗は小さくはい、と答えた。

「ちょっと熱が高いですが麻疹に間違いないと思います、うつりますから出勤なんかしちゃ駄目ですよ」

 医師は暁斗の脈を取ってから、看護師と出て行った。奏人はベッドの横に背筋を伸ばして座っている。

「……ごめんなさい、迷惑かけました」

 暁斗はきまり悪さを感じて、奏人と目を合わせずに言った。

「びっくりしました、電話に出てくれたと思ったらいきなり衝撃音がしたから」
「……身体が動かなくなって」
「タクシー呼んでもらいましょうね、朝までいるので安心して休んでください」

 奏人は当然のように言う。暁斗は彼が新幹線に乗ったとばかり思っていたので、どうなっているのかまだ今ひとつわかっていなかった。口を開きかける暁斗を押し留めるように、奏人が布団をかけ直す。部屋の時計はもうすぐ日付けが変わることを示していた。



 暁斗は奏人に導かれるまま、病院からタクシーに乗りマンションに戻った。少しましになったとは言え、身体が思うように動かない。奏人はそんな暁斗を支えて寝室に連れて行き、着替えさせて、枕元に水を用意する。その手際の良さが心地良くて、なすがままになってしまう。

「じゃあ僕はあっちで横になっていますから」

 奏人は寝室の明かりを落とし、ドアを開けたまま出て行った。リビングのほうで少し物音がしたあと、明かりが消えたのが分かった。
 辛い夜になった。頓服とんぷくだけ貰って帰って来たものの、朝食以来何も口にしていないので飲むことも難しく、身体の熱と喉の痛みが苦しくて身じろぎする。そしてたまに襲ってくる発作のような咳き込み。
 何度目かの長い咳に、奏人が寝室にやってきた。

「だめだ、うつるから……あっちへ行って」

 暁斗は息を切らして言ったが、奏人は意に介さずベッドに上がり、背中をさすってくれた。咳が治まると、少しずつ水をコップから口に流し込む。情けなさと安心感が同時に胸に湧き、暁斗は何も言えなかった。

「熱が高いですね、ちょっと冷やしましょうか」

 奏人は部屋を出て、明かりをつけたキッチンで物音を立てていた。戻ってきたとき手にしていたのは、タオルと氷嚢ひょうのうだった。

「すみません、勝手に冷蔵庫開けました」

 額にタオルと冷たいものが乗せられる。心地良くてため息が出た。少し暁斗が落ち着きを取り戻したのを見て、次は上半身を起こし丁寧に首や背中の汗を拭き始める。世話をかけていることへの申し訳なさを、言葉で伝える気力も無かったが、何とか口を開く。

「奏人さん、だいぶましになったから……もういい、休んで……」

 言い終わる前に、暁斗は奏人に抱きしめられた。温かい身体に優しい腕。

「僕のことは気にしないで、辛いのはあなたなんだから」

 暁斗は思わずあ、と小さく声を洩らした。心地良さのあまり、身体の力が抜ける。こんな慈しみ深い抱擁を受けたのはいつ以来だろう。子どもの頃か……悪ふざけをして脚に大怪我をして病院に運ばれた時、大好きだった祖父が死んだ時、仲の良い友達とつまらないことで喧嘩になり、どうしても自分から謝れなかった時……母がこんな風に抱きしめてくれた。涙がじわりと視界を霞ませるのを感じた。

「辛かったんですね、こんなになるまで我慢して……」

 耳に流れ込んでくる奏人の声は少し遠かったが、すぐそばから発されたものであることはよくわかった。奏人はそっと腕を解いて、暁斗の頰にひと筋流れたものを指でぬぐった。

「大丈夫、そばにいます」

 暁斗はそっとベッドに横たえられ、作り直した氷嚢を額に乗せられて、ようやく少し眠りに落ちた。奏人の手が自分の手を優しく包んでいることが、素直に嬉しい。彼が何者で、自分を何と思っているのかなど、もうどうでも良かった。少なくとも今ここにいる彼は、自分だけのものだった。



 翌朝目覚めると、カーテンから眩しい光が射し込んできていた。頭の中がぼんやりし、まだ身体が重かったが、全身が鉛になったような重さはましになっていた。昨夜より楽に息ができる。
 開けたままのドアの向こうから、キッチンを使う物音がする。昨夜奏人が泊まり込んで世話をしてくれたことを思い出し、ベッドから降りようとしたが、上手く身体に力が入らなかった。

「あ、おはようございます……気分どうですか? ちょうど良かった、おかゆ食べて薬飲みましょう」

 寝室を訪れた奏人はてきぱきとカーテンを開け、暁斗の上半身を起こし座らせる。湯気の立つかゆを茶碗によそって、寝室まで持ってきた。

「桂山さんを病院まで送って出勤します、病院は近くにありますか?」
「駅に向かって歩いて3分ほどのところに……」
「一人で歩くのがきつそうなら家まで一緒に戻りますから」

 奏人は段取りをしながら、れんげに粥をすくう。吹いて冷まして、暁斗に差し出した。暁斗は素直に口を開けて、米の甘みと薄い塩味を味わう。喉が痛くて飲み込みにくかったが、痛みは昨日より随分ましに思える。

「ごめん、世話かけます」

 茶碗がほぼ空いたころ、暁斗は気恥ずかしくなってきて、奏人に言った。彼は2、3度瞬きをして、さらりと返した。

「桂山さんは僕に助けを求めたんだから、当たり前のことをしているだけです」

 そして粥を全て口にした暁斗を見て、満足げな顔になった。間を置かず薬を持ってくる。暁斗は彼が朝も食べずに働いていることが気になり、思わず声をかけた。

「台所にあるもの何でも食べていいから……」
「既に少し牛乳をいただいちゃったんですけど……ありがとうございます、遠慮なくいただきます」

 そう言いながらも、奏人は湯を沸かし、熱いタオルで暁斗の身体を拭き始めた。奏人がこういうことが上手なのはよく知っているので安心して任せられたが、自分の全身に広がっている発疹は、視覚的に嫌悪感を催させた。

「これ……気持ち悪いよね、申し訳ない」

 暁斗が思わず言うと、奏人が小さく笑った。

「中世の人たちが悪魔ばらいをしたくなる気持ちがちょっとわかりますね」
「悪魔祓い……」
「そうですよ、昔は発疹が出る病気は死に繋がりましたから」

 奏人は言ったが、暁斗の背中や胸に無数の小さな赤い点が散らばっていても、別に何でもない様子である。至れり尽くせりで、彼は頭まで拭いてくれた。最後に自分で顔を拭くと、さっぱりして気力が戻ってくるようだった。
 奏人はタオルと暁斗の脱いだパジャマを洗濯かごに持ち去り、体温計を暁斗に手渡して、横になって待っているよう言った。病院の開院に合わせて出かけるつもりなのだろう。台所でまた湯が沸く音がする。朝食を取る準備のようだった。
 熱は37度8分まで下がっていた。昨夜もう死ぬのだと思った自分の弱気に笑えた。とはいえまだ倦怠けんたい感は半端なく、小さく咳こむと頭に響く。

「お待たせしました、病院へ行きましょう、保険証ありますね? 立てますか?」

 奏人は身支度をして、寝室にやってきた。夜のトップスタッフではなく、一人の若いサラリーマンとして。暁斗は奇妙な感覚に捕らわれていた。来ることができない筈の奏人が家にやってきて、一晩看護をしてくれた。そして今から、この家から出勤する。まだ夢を見ているのではないのか。ベッドから慎重に立ち上がり、ゆっくり寝室を出ると、昨夜と打って変わったようにそこは明るかった。

「おにぎりとゆで卵を作っておきました、お昼に食べて……少しでも口にしてお薬ちゃんと飲んでくださいよ」

 キッチンのテーブルの上に、ラップをかけたおにぎりが2つと、卵が載った皿があった。暁斗は奏人の手際の良さにほとほと感心した。

「あなたは何でもできるんだね」
「大げさだなぁ、あ……今夜も来ていいですか?」

 暁斗が思わずえっ、と言うと、奏人は暁斗を見上げながら続けた。

「元々今夜会う予定だったんだし……あなたがキャンセルの連絡をくれてからその時間を埋めてないんです」
「……だめだ、本当にうつる」

 奏人の言葉に無上の喜びを感じた暁斗だったが、自分を戒めた。

「家に帰っても心配で眠れないからそばにいさせて」

 奏人は言って、暁斗に抱きついてきた。その身体のぬくもりが、あっという間に愛おしさに変わる。戒めがくじけるのは早かった。我慢出来ずに、その華奢な背中に腕を回した。奏人のこの優しさは何処から来るものなのか。自分を特別だと思うからこその振る舞いなのだろうか……。

「ここの鍵をください、あなたが寝ていても入れるように……食べたいものがあったら買ってくるから夜までにLINEして」

 奏人の言葉に逆らえる筈もなかった。腕を解いた暁斗は、部屋のスペアキーをキーケースから外し、奏人のてのひらに乗せた。彼は欲しかったおもちゃを手に入れた子どものように、満面の笑みを浮かべた。こんな顔を見せてくれるのなら、彼が欲しいものは何でも与えてやりたいと、暁斗は愚かなことを熱に浮かされた頭で考えていた。
 もう少しで、会社に欠勤の連絡をするのを忘れるところだった。

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