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12月
3-②
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ある寒い朝、晃嗣が始業前に給湯室で飲み物を用意していると、総務と人事の総元締めである西山統括部長が通りかかった。面構えに似合わず気安いこの人が割と好きな晃嗣は、おはようございます、と自分から声をかけた。
「おはよう、人事課みんなの分を一人で用意してるのかい?」
「いえ、早めに来る人の分だけです」
「今朝は寒いから来るなり茶が出たら嬉しいだろう、営業経験者はやっぱり気が利くね」
西山部長は晃嗣が元営業マンだと知っているので、たまにこんな言い方をする。
「そうそう、昨日の会議で話が出たからちょうどいい」
西山が話を続けるので、晃嗣はコンロの上のやかんを気にしつつ、彼の顔を見た。
「人事課のことなんだけど、瀬古さんをカバーする課長補がもう1人いたほうがいいという話になってね」
晃嗣ははあ、とやや間の抜けた相槌を打った。それを見て、西山は微苦笑した。
「柴田くんが候補に上がってる」
「え……?」
晃嗣はこれも間抜けな声を発した。この会社に転職した時から、出世はもう自分には関係の無い、別世界の出来事と見做しているからだ。
株式会社エリカワは、新卒や第二新卒は熱心に教育するが、中途採用に求めるのは現場の戦力としてのスキルで、管理職にあまり登用しない傾向がある。もし晃嗣が西山の言う通りに役職付きになったとしたら、ちょっと薹の立った課長補だなと周りに思われるだろう。
「……えっと、部長、有り難いお話ではあるのですが、別に私なんかでなくても……優秀な若い人もいますし」
正直気まずかった。ちょうど湯が沸いてきたので、晃嗣はコンロの火を止めて、並べたマグカップに順番に湯を注ぐ。
西山はやや楽しげに言った。
「きみは聡いから、たぶん自分は管理職の対象外だと判断していたんだろうな……事実この会社は中途の人材の扱いが下手だから、改善していきたいというのもある」
言葉は悪いが、晃嗣に実験台になれということなのだろうか。
晃嗣は返す言葉が見つからないまま、マグカップからティーバッグを引いていく。西山は盆を出してきた。
「一人じゃ往復しなきゃならんだろう」
西山は2枚の盆にマグカップを並べていく。晃嗣は驚いてあたふたする。
「部長、私がやります、あの……」
「気にするな、たまには人事課に顔を出してプレッシャーをかけておこう」
西山が課の部屋に始業前から顔を出して、そこにいた10人ほどの社員が一斉に緊張したのは言うまでもない。恐縮しながら、西山から緑茶の入ったマグカップを受け取る人々は、晃嗣の目にはなかなか面白く映った。
西山がマスク越しでもわかるほど上機嫌でその場を去り、若い社員がびっくりしたと感想を述べる中、晃嗣はスマートフォンを鞄からそっと出した。LINEを立ち上げ、朔とのトークルームを開く。朝の挨拶を返して、小一時間経っていた。
「西山部長に会って、人事の課長補への昇進の可能性を仄めかされました。真に受けていいものか、朝から悩まされます」
こんな話をしてどうするんだと思いつつ、晃嗣は送信マークをタップした。それからようやく晃嗣は、西山の話を喜んでいる自分に気づく。
朔からの返信は早かった。驚く猫のスタンプがやってきて、それはおめでとうございます! という吹き出しが続く。
「個人的に西山部長がどんな人か存じ上げませんが、真に受けていいと思いますよ」
「そうかな」
「そうです」
何となく胸の内がすっきりした晃嗣は、ありがとうのスタンプを探した。すると朔が先にメッセージを送ってくる。
「今直行中なんですが、会社に戻るので、お昼を東京駅のどこかで食べませんか?」
晃嗣は突然のランチの誘いに固まった。昼休みに外食など、ほとんどしたことがない。目立ってしまわないだろうか。……いや、俺が昼休みに出て行っても、誰も気にはするまい。だが。
晃嗣は始業時間が来てしまったことに焦り、了解、と返事をしてしまった。こちらの始業に気遣ったのだろう、昼に連絡しますと朔は書いてきて、やり取りは止まった。
今日は食べに出るのかと誰かに訊かれたら、どう答えたらいいのだろう。晃嗣は、初めて恋人と旅行に行くのを親にごまかす若い子のように、一生懸命言葉を探し始めた。西山から聞かされた話に動揺していたことは、否めなかった。でなければ、そんなことに時間を費やさなかっただろう。
「おはよう、人事課みんなの分を一人で用意してるのかい?」
「いえ、早めに来る人の分だけです」
「今朝は寒いから来るなり茶が出たら嬉しいだろう、営業経験者はやっぱり気が利くね」
西山部長は晃嗣が元営業マンだと知っているので、たまにこんな言い方をする。
「そうそう、昨日の会議で話が出たからちょうどいい」
西山が話を続けるので、晃嗣はコンロの上のやかんを気にしつつ、彼の顔を見た。
「人事課のことなんだけど、瀬古さんをカバーする課長補がもう1人いたほうがいいという話になってね」
晃嗣ははあ、とやや間の抜けた相槌を打った。それを見て、西山は微苦笑した。
「柴田くんが候補に上がってる」
「え……?」
晃嗣はこれも間抜けな声を発した。この会社に転職した時から、出世はもう自分には関係の無い、別世界の出来事と見做しているからだ。
株式会社エリカワは、新卒や第二新卒は熱心に教育するが、中途採用に求めるのは現場の戦力としてのスキルで、管理職にあまり登用しない傾向がある。もし晃嗣が西山の言う通りに役職付きになったとしたら、ちょっと薹の立った課長補だなと周りに思われるだろう。
「……えっと、部長、有り難いお話ではあるのですが、別に私なんかでなくても……優秀な若い人もいますし」
正直気まずかった。ちょうど湯が沸いてきたので、晃嗣はコンロの火を止めて、並べたマグカップに順番に湯を注ぐ。
西山はやや楽しげに言った。
「きみは聡いから、たぶん自分は管理職の対象外だと判断していたんだろうな……事実この会社は中途の人材の扱いが下手だから、改善していきたいというのもある」
言葉は悪いが、晃嗣に実験台になれということなのだろうか。
晃嗣は返す言葉が見つからないまま、マグカップからティーバッグを引いていく。西山は盆を出してきた。
「一人じゃ往復しなきゃならんだろう」
西山は2枚の盆にマグカップを並べていく。晃嗣は驚いてあたふたする。
「部長、私がやります、あの……」
「気にするな、たまには人事課に顔を出してプレッシャーをかけておこう」
西山が課の部屋に始業前から顔を出して、そこにいた10人ほどの社員が一斉に緊張したのは言うまでもない。恐縮しながら、西山から緑茶の入ったマグカップを受け取る人々は、晃嗣の目にはなかなか面白く映った。
西山がマスク越しでもわかるほど上機嫌でその場を去り、若い社員がびっくりしたと感想を述べる中、晃嗣はスマートフォンを鞄からそっと出した。LINEを立ち上げ、朔とのトークルームを開く。朝の挨拶を返して、小一時間経っていた。
「西山部長に会って、人事の課長補への昇進の可能性を仄めかされました。真に受けていいものか、朝から悩まされます」
こんな話をしてどうするんだと思いつつ、晃嗣は送信マークをタップした。それからようやく晃嗣は、西山の話を喜んでいる自分に気づく。
朔からの返信は早かった。驚く猫のスタンプがやってきて、それはおめでとうございます! という吹き出しが続く。
「個人的に西山部長がどんな人か存じ上げませんが、真に受けていいと思いますよ」
「そうかな」
「そうです」
何となく胸の内がすっきりした晃嗣は、ありがとうのスタンプを探した。すると朔が先にメッセージを送ってくる。
「今直行中なんですが、会社に戻るので、お昼を東京駅のどこかで食べませんか?」
晃嗣は突然のランチの誘いに固まった。昼休みに外食など、ほとんどしたことがない。目立ってしまわないだろうか。……いや、俺が昼休みに出て行っても、誰も気にはするまい。だが。
晃嗣は始業時間が来てしまったことに焦り、了解、と返事をしてしまった。こちらの始業に気遣ったのだろう、昼に連絡しますと朔は書いてきて、やり取りは止まった。
今日は食べに出るのかと誰かに訊かれたら、どう答えたらいいのだろう。晃嗣は、初めて恋人と旅行に行くのを親にごまかす若い子のように、一生懸命言葉を探し始めた。西山から聞かされた話に動揺していたことは、否めなかった。でなければ、そんなことに時間を費やさなかっただろう。
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