あいみるのときはなかろう

穂祥 舞

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新学期

4月③

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「はいはい、下半身がついてきたよー」

 藤巻ふじまきの声に三喜雄は、意識を楽譜から腰の下に無理矢理戻す。上昇音型は、癖でつい胸で歌ってしまう。グリーでしばらくの間テノールパートを受け持っていた三喜雄は、比較的高音が出るバリトンである。それを自分の強みだと思っていたが、個人レッスンを受け始めて、認識の誤りだったことを思い知らされた。今でも調子に乗って高音部分を朗々と歌っていると、こうしてすぐに突っ込まれてしまう。
 当初はなぜいけないと、藤巻に対する反発があったが、録音してもらった自分の歌声を聞いて愕然とした。ある音域以上の声に全く響きが無いばかりか、きゃんきゃんと耳障りでメロディが台無しだったのだ。グリーで歌っている時にやたらと喉が疲れると思っていたのだから、当然だった。高音の発声方法に無理があったのである。現在それを直すべく、猛特訓中だ。
 藤巻は伴奏の手を止め、もう一度そのフレーズの最初に戻るよう指示する。

「楽譜を見て高い音が出てくるなと思ったら、身体が引きずられるね」

 三喜雄は否定しない。彼の言う通りだと自覚があった。

「上がってこないで踏ん張って、でも腹に力を入れるんじゃないことはわかるね?」

 藤巻陽一郎よういちろうは、ドイツリートと日本歌曲のアルバムを出し、一部のクラシックファンから「日本のフィッシャー・ディスカウ」と称されるバリトン歌手だ。三喜雄の父の高校時代の同級生で、そのよしみで指導をしてくれることになったが、本来ならど素人の高校生が教えを乞うことができるような人物ではない(と、習い始めてから知り、気軽に息子の指導を頼んだ父の暢気さを三喜雄は恨んだ)。今も現役で歌っているが、本人曰く、東京での生活に疲れたので、北海道に戻ってきて、後進の指導に少しずつシフトチェンジしているらしい。
 だが大したもので、藤巻の言うとおりに身体を使って歌うと、こんな楽ちんでいいのかと思っていても、レッスン室中を柔らかい響きで満たすことができる。調子が良い時は、藤巻のピアノの弦が自分の声を受けて残響をつくることもあった。
 何とか練習曲が最後まで通ると、はいお疲れ、と藤巻が言った。三喜雄は水筒の蓋を開けて、ひと口水を飲む。

「まだまだ実技試験に出せるレベルではないけど、もう少し安定してきたら、三喜雄くんの潜在能力を試験官にアピールできると思うな」

 藤巻は三喜雄を箸にも棒にもかからない歌い手のように扱うわりに、こうして何やら木に登らせようとする。だから三喜雄は自分の力がどんなレベルまで来ているのか、最近さっぱりわからなくなっていた。
 技術がついている自覚はある。多少楽譜も読めるようになっているし、部活動で歌うときに、楽に良い声が出るようになってきているからだ。2月に卒業した3年生たちが、伸びたなぁ、まだまだいけるぞと三喜雄に口々に言ってくれたのが嬉しかった。

「あと1年で、試験で歌う自由曲の候補を何曲くらい持てるかだな、あとは何でもいいから、ソロで舞台に上がる機会が要るね」

 音大や芸大を狙う高校生は、卒業するまでに1回は学生向けのコンクールに出場することが多いという。賞を狙うためではなく、場慣れすることが大きな目的だ。入試の実技試験では極度の緊張を強いられるので、一人で持ち時間を消化して自分の歌を厳しく評価される状況に耐えうるメンタルを獲得する必要があった。
 水筒を置いた三喜雄はイタリア歌曲集を開き、与えられている曲のページを見ながら、まずイタリア語の歌詞を読む。イタリア語は基本的にローマ字読みだが、常に明るく開いた母音で発声することが求められ、普段ぼそぼそ話す傾向のある三喜雄には、結構難しい。
 ふと三喜雄は、先週あのきれいな2年生が弾いていた静かな曲を思い出した。

「先生、フォーレって何語ですか?」

 いきなり問うた三喜雄に、藤巻はえ? と目をしばたかせた。

「フランス語だけど?」
「あ、やっぱりそうですよね」
「何? 歌ってみたい曲でも見つけた?」

 えっと、と三喜雄は、高崎が口にした曲の題名を思い出そうとする。

「短い、女の人の名前みたいな……」
「『リディア』かな?」

 藤巻が一発で当てたことに三喜雄は心から感心した。

「はい、それです」
「フランス語は難しいぞ、僕もあまり得意じゃない」

 言いながら藤巻は、楽譜がぱんぱんに詰まった書棚から、フォーレ歌曲集と書かれた冊子を引っぱり出した。三喜雄が今持っている歌曲集は、いろいろな作曲家の曲の詰め合わせだが、藤巻の出した本はフォーレの曲だけが載っているらしい。意味もなくそのことが、三喜雄にはかっこよく思えた。
 藤巻は楽譜を開き、何の迷いもなく最初の和音を鳴らした。ああ、確かにあの曲だ。師が優しい声でメロディを歌い始めると、歌詞の発音は不思議な感じがしたが、三喜雄が普段歌っている曲には無い、色気のようなものが感じられた。
 確かにあの時高崎は、この曲の微かに匂う色気を伴奏だけで表現していたと三喜雄は思う。それに、今弾き語りをしている藤巻よりも、高崎のタッチのほうが細やかで流れがあった。あいつ、どこであんなに弾きこんだんだろうか。三喜雄はあの2年生の存在そのものが、不思議でたまらなくなった。
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