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新学期
4月⑤
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「……di vegetabile, cara ed amabile, soave piu ……」
伴奏が3連符にぴったり寄り添ってくれるのがわかった。合わせてくれているのかと驚いたその時、開けっ放しの扉から堂内が入ってきたのが視界に入った。三喜雄が歌を止めると、彼はおおっ、と言いながらこちらへまっすぐやってくる。
「『オンブラ・マイ・フ』? そんなしっとりした歌なの? ソロのほうが絶対いいな」
1年生の頃、この曲を男声2部の楽譜で歌った。三喜雄もこの曲を藤巻から習った時、全然違うなと思ったのだが、今堂内は同じ感想を抱いたらしい。彼は見かけない生徒が伴奏をしていたことに気づき、三喜雄の陰から高崎の顔を確認する。
「お? どこのピアニスト?」
「美術部の2年生なんだ、こないだスカウトして振られたとこ」
「えーっ残念、何か今めっちゃ感じ良かったのに」
高崎は先輩方から褒められて、可愛らしい照れ笑いのようなものを顔に浮かべた。そして楽譜を閉じて三喜雄に手渡す。
「片山さんすごくいい声、今度最後まで演らせてください」
三喜雄は思わずえっ、と言ったが、高崎は2人の脇をすり抜けてぱたぱたと出て行ってしまった。堂内とともにぽかんと見送る。
「もしかしてあれがあれか、あいつを脅かしてるあの」
「指示語でしゃべるなよ、全然わからんわ」
堂内に突っ込みながら、三喜雄は歌曲集を大切なもののように抱きしめていた。いい声だと言われるのは、初めてではない。でなければ、ちょっと合唱を始めてみてすぐに、声楽を専攻しようなどと自惚れたりはしなかった。ただ最近、本当に自惚れでしかないのではと不安になることが多かっただけに、高崎の言葉がやけに沁みてしまった。
「……で、誰かを脅かすとか何とかって、あいつそんな不穏なことに巻き込まれてるのか?」
三喜雄は努めて冷静な口調で言ったが、堂内の言葉が意味不明なりに気になっていた。堂内は今度はきちんと説明してくれた。
「須々木だよ、国立の芸大1本で行くって言ってる美術部の部長」
文系特進B組の須々木は、絵はプロ並みで頭もいいと1年生の頃から噂になっている、比較的有名人だ。三喜雄は2つの特進クラスに誰がいるのか大体知っているが、須々木とは話したことがない。
堂内はA組、つまり理系の特進クラスである。特進クラスのメンバー同士は、選択科目が共通の授業も多いので、互いを良く見知っている。
「あいつ2Bの高崎っていうんだけど、そういや絵も上手だって2年が話してたな」
三喜雄が言うと、堂内がやっぱりそうだ、と頷いた。
「あの子が美術部で急成長して、秋の展覧会で須々木より上の賞を獲ったらしいんだ……それで須々木がカリカリしてるともっぱらの噂」
「何だ、案外小さいんだな須々木って」
つい思ったままを口にした三喜雄を、堂内は驚いたように見た。
「何おまえ、その大物感……歌とピアノの練習し過ぎて悟りでも開いたのか?」
「いや、そうかも……というか、俺美術のことはよくわからないけど、下級生にカリカリしてる暇なんかないじゃん、美術系だって実技試験あるんだろ?」
堂内が真面目な顔で、首を数度縦に振る様子が笑えた。
「俺今日からおまえのこと片山様って呼ぶわ」
「意味わかんねぇよ」
悟りを開いたというのは大げさだが、それは三喜雄の実感だった。もちろんグリークラブにも上手な部員は沢山いる。堂内は、三喜雄と一緒で高校生になってから音楽を始めたのに譜読みが早く、その魅力的な声は嫉妬に値する。だが、受験やさらにその先を見据えると、周囲をライバル視して気を揉んでいても仕方がないと思う。
藤巻も言った。闘う相手は自分。そしてその孤独な闘いは、歌う限り一生続くのだとも。
三喜雄は自分が、今日は随分客観的だと気づいて変な気分になった。いつもなら須々木が高崎に抱いている(らしい)感情と似たものに振り回され、勝手に焦っているのに。
ああそうか、と三喜雄は思い当たった。高崎とほんの数小節合わせたのが、やけに楽しかったのだ。それで気が大きくなっているらしい。恐るべし、天才2年生。
音楽室にわらわらと後輩が集まってきて、三喜雄はさっきのヘンデルの余韻に浸るのをやめた。しかし、あの華奢でおとなしそうな高崎が、上級生に嫉妬の矛先を向けられているようだという噂はちょっと心配だった。
伴奏が3連符にぴったり寄り添ってくれるのがわかった。合わせてくれているのかと驚いたその時、開けっ放しの扉から堂内が入ってきたのが視界に入った。三喜雄が歌を止めると、彼はおおっ、と言いながらこちらへまっすぐやってくる。
「『オンブラ・マイ・フ』? そんなしっとりした歌なの? ソロのほうが絶対いいな」
1年生の頃、この曲を男声2部の楽譜で歌った。三喜雄もこの曲を藤巻から習った時、全然違うなと思ったのだが、今堂内は同じ感想を抱いたらしい。彼は見かけない生徒が伴奏をしていたことに気づき、三喜雄の陰から高崎の顔を確認する。
「お? どこのピアニスト?」
「美術部の2年生なんだ、こないだスカウトして振られたとこ」
「えーっ残念、何か今めっちゃ感じ良かったのに」
高崎は先輩方から褒められて、可愛らしい照れ笑いのようなものを顔に浮かべた。そして楽譜を閉じて三喜雄に手渡す。
「片山さんすごくいい声、今度最後まで演らせてください」
三喜雄は思わずえっ、と言ったが、高崎は2人の脇をすり抜けてぱたぱたと出て行ってしまった。堂内とともにぽかんと見送る。
「もしかしてあれがあれか、あいつを脅かしてるあの」
「指示語でしゃべるなよ、全然わからんわ」
堂内に突っ込みながら、三喜雄は歌曲集を大切なもののように抱きしめていた。いい声だと言われるのは、初めてではない。でなければ、ちょっと合唱を始めてみてすぐに、声楽を専攻しようなどと自惚れたりはしなかった。ただ最近、本当に自惚れでしかないのではと不安になることが多かっただけに、高崎の言葉がやけに沁みてしまった。
「……で、誰かを脅かすとか何とかって、あいつそんな不穏なことに巻き込まれてるのか?」
三喜雄は努めて冷静な口調で言ったが、堂内の言葉が意味不明なりに気になっていた。堂内は今度はきちんと説明してくれた。
「須々木だよ、国立の芸大1本で行くって言ってる美術部の部長」
文系特進B組の須々木は、絵はプロ並みで頭もいいと1年生の頃から噂になっている、比較的有名人だ。三喜雄は2つの特進クラスに誰がいるのか大体知っているが、須々木とは話したことがない。
堂内はA組、つまり理系の特進クラスである。特進クラスのメンバー同士は、選択科目が共通の授業も多いので、互いを良く見知っている。
「あいつ2Bの高崎っていうんだけど、そういや絵も上手だって2年が話してたな」
三喜雄が言うと、堂内がやっぱりそうだ、と頷いた。
「あの子が美術部で急成長して、秋の展覧会で須々木より上の賞を獲ったらしいんだ……それで須々木がカリカリしてるともっぱらの噂」
「何だ、案外小さいんだな須々木って」
つい思ったままを口にした三喜雄を、堂内は驚いたように見た。
「何おまえ、その大物感……歌とピアノの練習し過ぎて悟りでも開いたのか?」
「いや、そうかも……というか、俺美術のことはよくわからないけど、下級生にカリカリしてる暇なんかないじゃん、美術系だって実技試験あるんだろ?」
堂内が真面目な顔で、首を数度縦に振る様子が笑えた。
「俺今日からおまえのこと片山様って呼ぶわ」
「意味わかんねぇよ」
悟りを開いたというのは大げさだが、それは三喜雄の実感だった。もちろんグリークラブにも上手な部員は沢山いる。堂内は、三喜雄と一緒で高校生になってから音楽を始めたのに譜読みが早く、その魅力的な声は嫉妬に値する。だが、受験やさらにその先を見据えると、周囲をライバル視して気を揉んでいても仕方がないと思う。
藤巻も言った。闘う相手は自分。そしてその孤独な闘いは、歌う限り一生続くのだとも。
三喜雄は自分が、今日は随分客観的だと気づいて変な気分になった。いつもなら須々木が高崎に抱いている(らしい)感情と似たものに振り回され、勝手に焦っているのに。
ああそうか、と三喜雄は思い当たった。高崎とほんの数小節合わせたのが、やけに楽しかったのだ。それで気が大きくなっているらしい。恐るべし、天才2年生。
音楽室にわらわらと後輩が集まってきて、三喜雄はさっきのヘンデルの余韻に浸るのをやめた。しかし、あの華奢でおとなしそうな高崎が、上級生に嫉妬の矛先を向けられているようだという噂はちょっと心配だった。
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