21 / 47
多忙な夏
7月⑥
しおりを挟む
高崎の指が確認するように楽譜を繰る。
「そっか、片山さん音程がいいから聴いてて安心なんだ……合唱祭もバスとバリトンを祖母が褒めてて、後ろで歌ってる子がいい声飛ばしてるからだろうって」
高崎は祖父母と合唱祭を観に来てくれていた。娘2人を音楽家に育て上げた人からそんな言葉を賜るなんて、至極光栄である。
三喜雄はここ最近、高崎と音楽室でサシで向かい合っていること自体が、異様に楽しい。彼はおそらくかなり良いピアニストで、本当にできることなら、コンクールの伴奏を依頼したかった。
明後日、コンクールの公式ピアニストと15分間の合わせがある。藤巻がついて来てくれるとは言え、ピアニストに指示を出さなくてはいけないのは三喜雄だ。楽譜を確認して、「さくら横ちょう」の中間部は、休符で完全に音を消してもらうよう頼もうと思った。
「あ、お昼食べよう」
最後まで歌うと、三喜雄はいい時間になっていることに気づいた。夏休みに入り、グリークラブも美術部も、部活動の開始時間が13時半となる。2人は朝10時半に集合して、互いの部活が始まるまで、こうして練習を重ねていた。
高崎はクロスできちんと鍵盤を拭き、ピアノの蓋を閉める。
「片山先輩、歌い過ぎになるんじゃないですか? 喉潰さないようにしてくださいね」
さりげなく気遣ってくれる2年生に、三喜雄はじんときてしまう。
「うん、ありがと……こっちもつき合わせてほんとに悪いな、貴重な時間なのに」
「いえいえ、僕は気分転換を兼ねてますから」
高崎はこの夏休み、帯広に帰省しないと三喜雄に話していた。文化祭の展覧会とコンペティションは、全く違うものを描くので、時間にあまり余裕が無いという。
「コンビニ行く? 駅前のハンバーガー?」
三喜雄が鞄に楽譜を入れながら問うと、高崎はコンビニで、と答えた。
「暑いから駅まで往復したら体力消耗します」
「確かに」
誰か早めに来るかもしれないので、部屋の鍵は開けておく。三喜雄は華奢な下級生と連れ立って階段を降り、新校舎に渡ってから靴を履き替え、眩しい夏の陽射しの中に出た。
コンクールの公式ピアニストは気さくな女性で、藤巻のことをよく知るようだった。指定された時間に、予選が行われる会場のリハーサル室に入った三喜雄は、彼女と藤巻がいきなり盛り上がるのに面食らった。
「ご無沙汰しています藤巻さん、学生さんを指導してらっしゃるなんて初耳です」
「関谷さんがこっちに拠点を移したとは、私も知りませんでしたよ」
三喜雄はいつも感じるのだが、歌をやっている人は基本的に明るく気さくである。昨年、藤巻の知り合いの先生の発表会にお邪魔した時も、出演者たちが老若男女問わずやたらとフレンドリーで、やや戸惑った。きっと伴奏ピアニストも、それに巻き込まれざるを得ないのだ。
「さて、予選に中田喜直持って来るスーパーボーイに歌ってもらおうかな」
関谷の言葉に、三喜雄の脇に嫌な汗が滲みそうだった。藤巻はいやいや、と笑いながら、パイプ椅子に座る。
2曲続けて通すと、全体的にテンポが遅く感じた。緊張したら、息が続かなくなりそうだ。
それを伝えようとすると、藤巻が先に口を切った。
「三喜雄くんがピアノを聴き過ぎだ、ベッリーニはもっと前に行って」
「え? あ、はい」
初めてそんなことを言われ、三喜雄は混乱する。関谷は笑顔をこちらに向けた。
「片山くんがピアノに合わせながら歌うとほんの少しずつ遅れてくるの、私は片山くんに合わせるから、互いにずるずる、ってわかる?」
「はい、何となく」
「聴かないのはだめ、でもこの曲は片山くんのテンポをキープして私に教えて」
三喜雄は自分が、高崎のテンポに慣らされていることに気づく。それが心地良いのでそのテンポで歌いたいと、関谷に伝えなくてはいけない。しかも本番は、彼女に背中を向けて歌うので、アイコンタクトはできないのに。
藤巻は三喜雄の困惑を予想していたようだった。
「だから呼吸するんだ、大げさにしなくても関谷さんはきみを見て弾いてくれるから」
もう一度最初から始めると、前奏のテンポが僅かに上がったことがわかった。肋骨の下を意識して、息を入れる。
あ、ぴったり来た。三喜雄は声の出だしにピアノの音がきちんと嵌まった快感に気をよくして、高崎と練習している時のように、伸び伸びと歌えた。
「さくら横ちょう」は一筋縄ではいかず、時間ギリギリまで確認しなくてはならなかったが、三喜雄のやりたいことは関谷に伝わったようである。
「ソロで歌い始めて1年3ヶ月? にしては堂々としてるね、声も音程も良いし本番楽しみ」
関谷に言われて、緊張が緩む。藤巻は予想していたほどダメ出ししてこなかった。
「ピアノを聴き過ぎるのは、普段グリーで歌ってるからでしょうね……まだまだ謙虚なんですよ」
「なるほど」
高校生なんて、先生方にすると微笑ましいお子様でしかないのだろう。三喜雄にすれば、最近ソロでは自信を喪失することばかりだったから、子ども扱いでいいくらいである。
三喜雄は久しぶりに、受験生という立場を忘れて歌うことができた気がした。深い海で溺れそうになりながら泳いでいたところで、足先が海底を捉えたような安心感があった。
「そっか、片山さん音程がいいから聴いてて安心なんだ……合唱祭もバスとバリトンを祖母が褒めてて、後ろで歌ってる子がいい声飛ばしてるからだろうって」
高崎は祖父母と合唱祭を観に来てくれていた。娘2人を音楽家に育て上げた人からそんな言葉を賜るなんて、至極光栄である。
三喜雄はここ最近、高崎と音楽室でサシで向かい合っていること自体が、異様に楽しい。彼はおそらくかなり良いピアニストで、本当にできることなら、コンクールの伴奏を依頼したかった。
明後日、コンクールの公式ピアニストと15分間の合わせがある。藤巻がついて来てくれるとは言え、ピアニストに指示を出さなくてはいけないのは三喜雄だ。楽譜を確認して、「さくら横ちょう」の中間部は、休符で完全に音を消してもらうよう頼もうと思った。
「あ、お昼食べよう」
最後まで歌うと、三喜雄はいい時間になっていることに気づいた。夏休みに入り、グリークラブも美術部も、部活動の開始時間が13時半となる。2人は朝10時半に集合して、互いの部活が始まるまで、こうして練習を重ねていた。
高崎はクロスできちんと鍵盤を拭き、ピアノの蓋を閉める。
「片山先輩、歌い過ぎになるんじゃないですか? 喉潰さないようにしてくださいね」
さりげなく気遣ってくれる2年生に、三喜雄はじんときてしまう。
「うん、ありがと……こっちもつき合わせてほんとに悪いな、貴重な時間なのに」
「いえいえ、僕は気分転換を兼ねてますから」
高崎はこの夏休み、帯広に帰省しないと三喜雄に話していた。文化祭の展覧会とコンペティションは、全く違うものを描くので、時間にあまり余裕が無いという。
「コンビニ行く? 駅前のハンバーガー?」
三喜雄が鞄に楽譜を入れながら問うと、高崎はコンビニで、と答えた。
「暑いから駅まで往復したら体力消耗します」
「確かに」
誰か早めに来るかもしれないので、部屋の鍵は開けておく。三喜雄は華奢な下級生と連れ立って階段を降り、新校舎に渡ってから靴を履き替え、眩しい夏の陽射しの中に出た。
コンクールの公式ピアニストは気さくな女性で、藤巻のことをよく知るようだった。指定された時間に、予選が行われる会場のリハーサル室に入った三喜雄は、彼女と藤巻がいきなり盛り上がるのに面食らった。
「ご無沙汰しています藤巻さん、学生さんを指導してらっしゃるなんて初耳です」
「関谷さんがこっちに拠点を移したとは、私も知りませんでしたよ」
三喜雄はいつも感じるのだが、歌をやっている人は基本的に明るく気さくである。昨年、藤巻の知り合いの先生の発表会にお邪魔した時も、出演者たちが老若男女問わずやたらとフレンドリーで、やや戸惑った。きっと伴奏ピアニストも、それに巻き込まれざるを得ないのだ。
「さて、予選に中田喜直持って来るスーパーボーイに歌ってもらおうかな」
関谷の言葉に、三喜雄の脇に嫌な汗が滲みそうだった。藤巻はいやいや、と笑いながら、パイプ椅子に座る。
2曲続けて通すと、全体的にテンポが遅く感じた。緊張したら、息が続かなくなりそうだ。
それを伝えようとすると、藤巻が先に口を切った。
「三喜雄くんがピアノを聴き過ぎだ、ベッリーニはもっと前に行って」
「え? あ、はい」
初めてそんなことを言われ、三喜雄は混乱する。関谷は笑顔をこちらに向けた。
「片山くんがピアノに合わせながら歌うとほんの少しずつ遅れてくるの、私は片山くんに合わせるから、互いにずるずる、ってわかる?」
「はい、何となく」
「聴かないのはだめ、でもこの曲は片山くんのテンポをキープして私に教えて」
三喜雄は自分が、高崎のテンポに慣らされていることに気づく。それが心地良いのでそのテンポで歌いたいと、関谷に伝えなくてはいけない。しかも本番は、彼女に背中を向けて歌うので、アイコンタクトはできないのに。
藤巻は三喜雄の困惑を予想していたようだった。
「だから呼吸するんだ、大げさにしなくても関谷さんはきみを見て弾いてくれるから」
もう一度最初から始めると、前奏のテンポが僅かに上がったことがわかった。肋骨の下を意識して、息を入れる。
あ、ぴったり来た。三喜雄は声の出だしにピアノの音がきちんと嵌まった快感に気をよくして、高崎と練習している時のように、伸び伸びと歌えた。
「さくら横ちょう」は一筋縄ではいかず、時間ギリギリまで確認しなくてはならなかったが、三喜雄のやりたいことは関谷に伝わったようである。
「ソロで歌い始めて1年3ヶ月? にしては堂々としてるね、声も音程も良いし本番楽しみ」
関谷に言われて、緊張が緩む。藤巻は予想していたほどダメ出ししてこなかった。
「ピアノを聴き過ぎるのは、普段グリーで歌ってるからでしょうね……まだまだ謙虚なんですよ」
「なるほど」
高校生なんて、先生方にすると微笑ましいお子様でしかないのだろう。三喜雄にすれば、最近ソロでは自信を喪失することばかりだったから、子ども扱いでいいくらいである。
三喜雄は久しぶりに、受験生という立場を忘れて歌うことができた気がした。深い海で溺れそうになりながら泳いでいたところで、足先が海底を捉えたような安心感があった。
2
あなたにおすすめの小説
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
煙草屋さんと小説家
男鹿七海
キャラ文芸
※プラトニックな関係のBL要素を含む日常ものです。
商店街の片隅にある小さな煙草屋を営む霧弥。日々の暮らしは静かで穏やかだが、幼馴染であり売れっ子作家の龍二が店を訪れるたびに、心の奥はざわめく。幼馴染としてでも、客としてでもない――その存在は、言葉にできないほど特別だ。
ある日、龍二の周囲に仕事仲間の女性が現れ、霧弥は初めて嫉妬を自覚する。自分の感情を否定しようとしても、触れた手の温もりや視線の距離が、心を正直にさせる。日常の中で少しずつ近づく二人の距離は、言葉ではなく、ささやかな仕草や沈黙に宿る。
そして夜――霧弥の小さな煙草屋で、龍二は初めて自分の想いを口にし、霧弥は返事として告白する。互いの手の温もりと目の奥の真剣さが、これまで言葉にできなかった気持ちを伝える瞬間。静かな日常の向こうに、確かな愛が芽吹く。
小さな煙草屋に灯る、柔らかく温かな恋の物語。
少女格闘伝説
坂崎文明
青春
不遇な時を過す天才女子プロレスラー神沢勇の前に、アイドル歌手にして、秋月流柔術の使い手、秋月玲奈が現われる。
人狼戦記~少女格闘伝説外伝~
https://www.alphapolis.co.jp/novel/771049446/455173336
あの日、幼稚園児を助けたけど、歳の差があり過ぎてその子が俺の運命の人になるなんて気付くはずがない。
NOV
恋愛
俺の名前は鎌田亮二、18歳の普通の高校3年生だ。
中学1年の夏休みに俺は小さい頃から片思いをしている幼馴染や友人達と遊園地に遊びに来ていた。
しかし俺の目の前で大きなぬいぐるみを持った女の子が泣いていたので俺は迷子だと思いその子に声をかける。そして流れで俺は女の子の手を引きながら案内所まで連れて行く事になった。
助けた女の子の名前は『カナちゃん』といって、とても可愛らしい女の子だ。
無事に両親にカナちゃんを引き合わす事ができた俺は安心して友人達の所へ戻ろうとしたが、別れ間際にカナちゃんが俺の太ももに抱き着いてきた。そしてカナちゃんは大切なぬいぐるみを俺にくれたんだ。
だから俺もお返しに小学生の頃からリュックにつけている小さなペンギンのぬいぐるみを外してカナちゃんに手渡した。
この時、お互いの名前を忘れないようにぬいぐるみの呼び名を『カナちゃん』『りょうくん』と呼ぶ約束をして別れるのだった。
この時の俺はカナちゃんとはたまたま出会い、そしてたまたま助けただけで、もう二度とカナちゃんと会う事は無いだろうと思っていたんだ。だから当然、カナちゃんの事を運命の人だなんて思うはずもない。それにカナちゃんの初恋の相手が俺でずっと想ってくれていたなんて考えたことも無かった……
7歳差の恋、共に大人へと成長していく二人に奇跡は起こるのか?
NOVがおおくりする『タイムリープ&純愛作品第三弾(三部作完結編)』今ここに感動のラブストーリーが始まる。
※この作品だけを読まれても普通に面白いです。
関連小説【初恋の先生と結婚する為に幼稚園児からやり直すことになった俺】
【幼馴染の彼に好きって伝える為、幼稚園児からやり直す私】
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
【完結】大量焼死体遺棄事件まとめサイト/裏サイド
まみ夜
ホラー
ここは、2008年2月09日朝に報道された、全国十ケ所総数六十体以上の「大量焼死体遺棄事件」のまとめサイトです。
事件の上澄みでしかない、ニュース報道とネット情報が序章であり終章。
一年以上も前に、偶然「写本」のネット検索から、オカルトな事件に巻き込まれた女性のブログ。
その家族が、彼女を探すことで、日常を踏み越える恐怖を、誰かに相談したかったブログまでが第一章。
そして、事件の、悪意の裏側が第二章です。
ホラーもミステリーと同じで、ラストがないと評価しづらいため、短編集でない長編はweb掲載には向かないジャンルです。
そのため、第一章にて、表向きのラストを用意しました。
第二章では、その裏側が明らかになり、予想を裏切れれば、とも思いますので、お付き合いください。
表紙イラストは、lllust ACより、乾大和様の「お嬢さん」を使用させていただいております。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー
i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆
最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡
バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。
数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる