あいみるのときはなかろう

穂祥 舞

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悩め、歌え

8月⑥

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「俺はたぶん、歌で食っていくほど才能も無いし好きでもなくて……ちょっと声がいいとか言われて勘違いしただけだ」

 三喜雄はこれまで誰にも話さなかった、ずっとくすぶっている思いを口にした。高崎は一瞬眉間に薄く皺を寄せ、困惑を見せたが、うーん、と首を傾げる。

「勘違いから始まって何かを成し遂げる人のほうが、古今東西圧倒的に多いんじゃないですかね」

 何でそう人生3回目発言なんだと、三喜雄は綺麗な顔に突っ込みたくなる。すると高崎は、精緻に作られた人形のような完璧な形の唇から、毒を塗った矢を次々と吹き出した。

「それで? 教育大受けるのやめるんですか? もう引き返せない場所まで来てるのに? まさかそのことに気づかないふりしてます? それとも、いやいや先輩そんなことないですよぉって言ってほしいんですか?」
「……っ、おまえなぁ……」

 あ然とした三喜雄は滅多刺しにされ言葉を失った。いちいち思い当たる気がして、悔しくて泣きそうである。どっと疲れを覚えて、椅子に腰を落として項垂れた。情けなかったが高崎の言う通りで、今更方向転換すれば、受けるダメージも大きいに違いなかった。
 ひとつ溜め息をつくと、すぐそばに高崎が来た気配がした。彼はいつも足音をあまり立てないので、いつもちょっと驚かされる。
 顔を上げると、高崎の仄かに青く色づいた人差し指と親指に、数センチの茶色い楕円のものが挟まれていた。

「はい、口開けて」

 自分を見下ろす黒い瞳の感情が窺えずにどきりとしたが、何故か三喜雄はその命令に抗えなかった。長い睫毛を見つめながら、言われるまま口をゆっくり開けると、中に茶色い物体を押し込まれた。それは舌の上でゆっくり溶け、最近ご無沙汰していた濃厚な甘味を、脳内にびりびりと伝えてきた。

「今日はもう帰って、食べたいもの食べてゆっくり寝てください……『さくら横ちょう』は次回やりましょう」

 チョコレートの中にはアーモンドが入っていた。さっき音楽室に高崎が来た時に、三喜雄が彼に渡したものだった。噛むとぽりっと音がして、懐かしさを伴う香ばしい匂いが鼻に抜ける。
 チョコレートの糖分は、三喜雄を幾分ほっとさせた。

「失礼します、片山先輩……隣片づけましたよ」

 カバーをかけたキーボードを後輩2人が運んできたので、三喜雄はアーモンドチョコを飲み下す。

「お疲れさま、教卓の横の机に置いとけばいいよ」
「はい、鍵渡します、すみません」

 時計は19時15分前を指していた。三喜雄は後輩たちが、自分と高崎に好奇心混じりの視線を向けてくるのを感じつつ、鍵を預かり彼らを見送る。お先です、と言いながら、4人はばらばらと足音を立てて階段を降りて行った。ジュース代くらい握らせてやればよかったと思った。

「こっちも片づけますね」

 高崎はピアノの鍵盤を拭き始める。三喜雄も窓を順番に閉めた。外はまだ明るいが、グラウンドも静かになっていた。夏休み期間中の部活の上限時間は19時だ。サッカー部の連中も、もう着替えているのだろう。
 音楽室の鍵を閉め、階下に降りると、ようやく日が暮れてきたのがわかった。高崎は三喜雄を見上げて言う。

「片山先輩、声ってほんとに、神が人間に個々に与えたものですよね」

 三喜雄は何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

「……ああ、そうかもしれない」
「世の中のそう沢山でない人がね、声をそのまま持ち腐れさせないで、他人のために使う使命を与えられてると思うんです」
「そうなのかな」

 ぼんやり答える三喜雄に、高崎は大真面目に言った。

「あなたがそうなんですよ、片山さん」

 三喜雄は思わず渡り廊下で立ち止まる。紫色を帯び始めた空を背にした高崎は、静かな慈悲のようなものを、その顔に浮かべている。
 迷える自分に預言を与えに来た天使か、あるいは愚かな自分をそそのかして面白がる悪魔か。どちらにせよ三喜雄は、この華奢で儚げな姿をしたふてぶてしい下級生に振り回されていると、ようやく気づいたのだった。
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