29 / 47
悩め、歌え
8月⑧
しおりを挟む
若い弟子の唐突な問いに、藤巻は目を見開いて、ゆっくり眼鏡を外した。
「好きだからやってるんじゃないのか?」
「その……最近よくわからなくなってます」
こんな話をするつもりではなかったので、失敗したと思ったが、藤巻は三喜雄に微笑を向けた。
「これだけ追い込まれたらそうならないほうがおかしい、三喜雄くんの反応は普通だよ」
師の言葉は三喜雄をあまり安心させてくれない。かと言って、どんな答えが欲しいのかもわからなかった。
「歌が好きなのかどうかもわからないのに、歌い続ける意味がわかりません」
声が掠れた。藤巻は三喜雄の目をじっと見て、やはり口許を緩める。
「本当に自分が歌が好きかどうかなんて、歌に嵌ってるほとんどの人がわからなくなってると思うなぁ……僕は入院してしばらく歌えなくなった時に、やっぱり歌が好きだと気づいたんだけどね」
藤巻のグラスの中で、氷が微かな音を立てた。いつも元気な師に歌うことができない時があったなんて、想像できなかった。
「人は愚かな生き物だから、失くさないとわからないんだね」
言われて三喜雄は思わず俯いた。例えば何らかの理由で声が出なくなったら、と考えると、確かに恐ろしい。
「あと、今気が狂いそうになるほど練習する経験は、絶対に10年20年後のきみを支える」
「……俺は体育会系じゃないです」
精一杯の抵抗だった。運動部に入ったわけじゃない。しかし藤巻はすぐに答える。
「歌手は身体中を使って声を出すアスリートなんだよ……今から大学を卒業するまでに身体をつくることができれば、今歌う時に気を取られてる大半のことから解放されるだろう、その時初めてきみは自分の歌が歌える」
三喜雄は返す言葉を持たず、グラスに口をつけた。高崎の言った通り、もう引き返せないところに来てしまっている気がする。藤巻は慰める口調になった。
「三喜雄くんにはかなり高度なことを求めてるからきついと思う、でもきみは若いし何よりも声が魅力的だ、まだちょっと細いけど体格にも恵まれてるし……磨かないともったいないと、少なくとも僕は思ってる」
コーヒーを飲み干すと、良い時間になった。師は玄関まで見送ってくれ、言った。
「三喜雄くんは歌が嫌いになってしまいそうな自分が怖いのかな」
あ、と思わず声が出た。そうなのかもしれない。藤巻は続ける。
「大丈夫、音楽の神様は粘着質だから、一度自分の許に来た人間をちょっとやそっとじゃ手放さないんだよ、普段は冷たく当たるくせに」
今日初めて、三喜雄の中から笑いが湧いた。なるほどな。藤巻に頭を下げてから、言った。
「今日の午後にコンクールのステージオーダーと伴奏者との合わせの時間が出ます」
「わかった、すぐ連絡ください」
「バイトの後になると思いますけど」
三喜雄は自転車のキーとチェーンを外した。スケジュールが整ったら、明日は自主練を休もうと考える。お菓子を買って、好きな曲を聴いて過ごそう。それはあくまでも、前向きな思いだった。
「好きだからやってるんじゃないのか?」
「その……最近よくわからなくなってます」
こんな話をするつもりではなかったので、失敗したと思ったが、藤巻は三喜雄に微笑を向けた。
「これだけ追い込まれたらそうならないほうがおかしい、三喜雄くんの反応は普通だよ」
師の言葉は三喜雄をあまり安心させてくれない。かと言って、どんな答えが欲しいのかもわからなかった。
「歌が好きなのかどうかもわからないのに、歌い続ける意味がわかりません」
声が掠れた。藤巻は三喜雄の目をじっと見て、やはり口許を緩める。
「本当に自分が歌が好きかどうかなんて、歌に嵌ってるほとんどの人がわからなくなってると思うなぁ……僕は入院してしばらく歌えなくなった時に、やっぱり歌が好きだと気づいたんだけどね」
藤巻のグラスの中で、氷が微かな音を立てた。いつも元気な師に歌うことができない時があったなんて、想像できなかった。
「人は愚かな生き物だから、失くさないとわからないんだね」
言われて三喜雄は思わず俯いた。例えば何らかの理由で声が出なくなったら、と考えると、確かに恐ろしい。
「あと、今気が狂いそうになるほど練習する経験は、絶対に10年20年後のきみを支える」
「……俺は体育会系じゃないです」
精一杯の抵抗だった。運動部に入ったわけじゃない。しかし藤巻はすぐに答える。
「歌手は身体中を使って声を出すアスリートなんだよ……今から大学を卒業するまでに身体をつくることができれば、今歌う時に気を取られてる大半のことから解放されるだろう、その時初めてきみは自分の歌が歌える」
三喜雄は返す言葉を持たず、グラスに口をつけた。高崎の言った通り、もう引き返せないところに来てしまっている気がする。藤巻は慰める口調になった。
「三喜雄くんにはかなり高度なことを求めてるからきついと思う、でもきみは若いし何よりも声が魅力的だ、まだちょっと細いけど体格にも恵まれてるし……磨かないともったいないと、少なくとも僕は思ってる」
コーヒーを飲み干すと、良い時間になった。師は玄関まで見送ってくれ、言った。
「三喜雄くんは歌が嫌いになってしまいそうな自分が怖いのかな」
あ、と思わず声が出た。そうなのかもしれない。藤巻は続ける。
「大丈夫、音楽の神様は粘着質だから、一度自分の許に来た人間をちょっとやそっとじゃ手放さないんだよ、普段は冷たく当たるくせに」
今日初めて、三喜雄の中から笑いが湧いた。なるほどな。藤巻に頭を下げてから、言った。
「今日の午後にコンクールのステージオーダーと伴奏者との合わせの時間が出ます」
「わかった、すぐ連絡ください」
「バイトの後になると思いますけど」
三喜雄は自転車のキーとチェーンを外した。スケジュールが整ったら、明日は自主練を休もうと考える。お菓子を買って、好きな曲を聴いて過ごそう。それはあくまでも、前向きな思いだった。
2
あなたにおすすめの小説
沢田くんはおしゃべり
ゆづ
青春
第13回ドリーム大賞奨励賞受賞✨ありがとうございました!!
【あらすじ】
空気を読む力が高まりすぎて、他人の心の声が聞こえるようになってしまった普通の女の子、佐藤景子。
友達から地味だのモブだの心の中で言いたい放題言われているのに言い返せない悔しさの日々の中、景子の唯一の癒しは隣の席の男子、沢田空の心の声だった。
【佐藤さん、マジ天使】(心の声)
無口でほとんどしゃべらない沢田くんの心の声が、まさかの愛と笑いを巻き起こす!
めちゃコミ女性向け漫画原作賞の優秀作品にノミネートされました✨
エブリスタでコメディートレンドランキング年間1位(ただし完結作品に限るッ!)
エブリスタ→https://estar.jp/novels/25774848
少女格闘伝説
坂崎文明
青春
不遇な時を過す天才女子プロレスラー神沢勇の前に、アイドル歌手にして、秋月流柔術の使い手、秋月玲奈が現われる。
人狼戦記~少女格闘伝説外伝~
https://www.alphapolis.co.jp/novel/771049446/455173336
内弟子物語 ー捨てきれない夢、武術の究極「活殺自在」を求める5名の青春群像ー
藤堂慎人
青春
夢を捨てた人生に意味はないと考え、空手に魅力を感じた青年たちが純粋に若い時を駆け巡る青春群像。個性豊かな登場人物が織りなす毎日を綴る。試合を意識した空手ではなく、武術の究極と言われる活殺自在の境地を目指す過程をそれぞれの視点から描く。若いゆえの悩みを抱えつつも、自身が信じたことについて突き進む様子をユニークなエピソードごと紹介。
謎の過去を持つ師、藤堂真人のところに集まった高山誠、御岳信平、龍田真悟、松池進、堀田賢が武術と癒しという両極を学ぶ中で気付き、成長していく。
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
初恋♡リベンジャーズ
遊馬友仁
青春
【第五部開始】
高校一年生の春休み直前、クラスメートの紅野アザミに告白し、華々しい玉砕を遂げた黒田竜司は、憂鬱な気持ちのまま、新学期を迎えていた。そんな竜司のクラスに、SNSなどでカリスマ的人気を誇る白草四葉が転入してきた。
眉目秀麗、容姿端麗、美の化身を具現化したような四葉は、性格も明るく、休み時間のたびに、竜司と親友の壮馬に気さくに話しかけてくるのだが――――――。
転入早々、竜司に絡みだす、彼女の真の目的とは!?
◯ンスタグラム、ユ◯チューブ、◯イッターなどを駆使して繰り広げられる、SNS世代の新感覚復讐系ラブコメディ、ここに開幕!
第二部からは、さらに登場人物たちも増え、コメディ要素が多めとなります(予定)
魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~
古道 庵
歴史・時代
「母を、自由を、そして名前すらも奪われた。それでも俺は――」
天正十年、第六天魔王・織田信長は本能寺と共に炎の中へと消えた――
信長とその嫡男・信忠がこの世を去り、残されたのはまだ三歳の童、三法師。
清須会議の場で、豊臣秀吉によって織田家の後継とされ、後に名を「秀信」と改められる。
母と引き裂かれ、笑顔の裏に冷たい眼を光らせる秀吉に怯えながらも、少年は岐阜城主として時代の奔流に投げ込まれていく。
自身の存在に疑問を抱き、葛藤に苦悶する日々。
友と呼べる存在との出会い。
己だけが見える、祖父・信長の亡霊。
名すらも奪われた絶望。
そして太閤秀吉の死去。
日ノ本が二つに割れる戦国の世の終焉。天下分け目の関ヶ原。
織田秀信は二十一歳という若さで、歴史の節目の大舞台に立つ。
関ヶ原の戦いの前日譚とも言える「岐阜城の戦い」
福島正則、池田照政(輝政)、井伊直政、本田忠勝、細川忠興、山内一豊、藤堂高虎、京極高知、黒田長政……名だたる猛将・名将の大軍勢を前に、織田秀信はたったの一国一城のみで相対する。
「魔王」の血を受け継ぐ青年は何を望み、何を得るのか。
血に、時代に、翻弄され続けた織田秀信の、静かなる戦いの物語。
※史実をベースにしておりますが、この物語は創作です。
※時代考証については正確ではないので齟齬が生じている部分も含みます。また、口調についても現代に寄せておりますのでご了承ください。
ズボラ上司の甘い罠
松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。
仕事はできる人なのに、あまりにももったいない!
かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。
やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか?
上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。
モテ男とデキ女の奥手な恋
松丹子
恋愛
来るもの拒まず去るもの追わずなモテ男、神崎政人。
学歴、仕事共に、エリート過ぎることに悩む同期、橘彩乃。
ただの同期として接していた二人は、ある日を境に接近していくが、互いに近づく勇気がないまま、関係をこじらせていく。
そんなじれじれな話です。
*学歴についての偏った見解が出てきますので、ご了承の上ご覧ください。(1/23追記)
*エセ関西弁とエセ博多弁が出てきます。
*拙著『神崎くんは残念なイケメン』の登場人物が出てきますが、単体で読めます。
ただし、こちらの方が後の話になるため、前著のネタバレを含みます。
*作品に出てくる団体は実在の団体と関係ありません。
関連作品(どれも政人が出ます。時系列順。カッコ内主役)
『期待外れな吉田さん、自由人な前田くん』(隼人友人、サリー)
『初恋旅行に出かけます』(山口ヒカル)
『物狂ほしや色と情』(名取葉子)
『さくやこの』(江原あきら)
『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい!』(阿久津)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる