上 下
3 / 12

第2話

しおりを挟む
 北海道の短い夏が終わり、秋の気配がただよい始めた。
 もうあと少しで雪が降ろうかという頃のことだった。

「よう、ポチ!」

 アイヌの同級生である落合正二が朝からからかわれている。
 正二は同級生から「ポチ」というあだ名をつけられているのだが、自身の名前をもじって「ポチ」と呼ばれているのではない。
 犬のように扱われているだけだ。

「また始まった。」

 いじめに積極的に加わらない同級生達はそう思っているのだが、誰も止めようとはしない。
 からかわれている正二も、「ポチ」と呼ばれることを受け入れてしまったのか、逆らおうともしない。
 時にはさみしい笑顔を浮かべて、同級生からのいじめを受け流そうとしていたこともあった。
 しかし、そういう態度が差別を助長してしまっているのもいなめなかった。
 彼自身の気の弱さもあるだろうが、家族のことを考えているのだろう。

 学校の教師も、役人も、地元の有力者も、全てが和人。
 当然ながら、この町で生きていくにはそのような者たちを敵に回すわけにはいかない。
 敵に回してしまったら最後、親が仕事や立場を失いかねない。
 生きていくために、ただ生きていくために差別を甘んじて受け入れるしかない。
 差別することも、それに黙って耐えることも、全てが当たり前のこととなってしまった。いつの間にか。

 そのさなか、兵吉が登校し教室に入ってきた。
 正二がからかわれている声が聞こえていたのであろう、怒りに満ちた表情をして、挨拶あいさつもせず黙って立っている。
 まるで、もうすぐ起爆きばくしそうな爆弾のように。

 教室内の雰囲気から、兵吉に対してもからかいの言葉がぶつけられてしまうような気がして、咄嗟とっさに「やめろ!」と尊は叫ぼうとした。
 しかし時すでに遅く、ひとりの生徒が兵吉をからかった。

「あ、イヌだ!」

 それを聞いていた尊は、自身の血液が一気に凍り付くような感覚に襲われた。
「あ、イヌだ。」という言葉は、アイヌをからかうのによく使われる言葉であり、これまでに何度もぶつけられた。
 ただの差別ではない、アイヌを人間扱いしない、犬と同じ程度の存在としか見ていない、そんな言葉だ。
 アイヌを対等の存在とみなしていない何よりの証拠。

「もう一度言ってみろ。」

 低い声ですごむ兵吉の目を見たとき、尊は言い知れぬ恐怖をおぼえた。
 しかし、からかった生徒から謝罪の言葉が返ってくることはなく、惨劇さんげきのきっかけをつくるのに充分な言葉が返ってきた。

「あ、イヌだ、イヌ、イヌ!」

 次の瞬間、兵吉は相手の顔面を力いっぱい殴りつけた。
 途端とたんに、殴られた生徒はその場に倒れこんだ。
 普段ならここで終わるのが常であったのだが、今日の兵吉の目からは尋常じんじょうならざる殺気が放たれており、いつもの彼とは明らかに違っていた。

 すでにぐったりとしている生徒の襟首えりくびをつかんで引き起こすと、後頭部をわしづかみにして、生徒のひたいを思い切り机の上に打ち付けた。

「ゴギッ!!」という表現のしようのないにぶい音がして、床に鮮血が飛び散った。

 ほとんど気を失っている生徒を兵吉は何度も机の上に叩きつけた。
 血を流している生徒は人形のようにぐったりとして、されるがままであった。

「兵吉、もうやめるんだ!」

 尊は力の限り兵吉の腰にしがみついた。
 目は涙でうるんでいた。
 それをきっかけとして、他の生徒も止めに入り、やっとのことで兵吉を引き離すことができた。

「尊、どうして止めるんだ!」

「それ以上やったら、死んでしまうぞ!」

 涙ぐみながら言う尊を前にして、兵吉も少しだが落ち着きを取り戻していた。
 そして兵吉は尊へ問いかけた。その声は興奮に満ちたものではなく、静かに自分の思いを訴えかけるものであった。

「お前はくやしくないのか。俺たちが何をしたっていうんだ。まともに人間扱いされず、毎日のようにバカにされ。このままだったら、それがずっと続くんだぞ。」

「だからといって…」

「お前はいつもそうだ。」

 それまで暴れていたことが嘘のように落ち着き払った兵吉が、真剣な眼差まなざしを尊へ向けていた。

「お前は半分は和人だからな。我関われかんせずを決め込んでいれば、いつかはあっち側へ行けるとでも思っているのか。それで死んだ父親に顔向けできるのか。」

「…」

「俺の親が言ってたよ。お前の母さんは立派だって。」

「!」

 兵吉の言葉のひとつひとつが尊の胸に突き刺さり、何も言い返すことはできなかった。
 尊の母は、和人でもアイヌでもない一人の人間を純粋に好きになり、周囲の差別や偏見へんけんねのけてその思いをげた。
 母の勇気を常に間近で見てはいた、見てはいたのだが、どうしても尊自身は母と同じ勇気を持つことができなかった。
 差別からも、それに立ち向かった母の勇気からも目をそらし続けてきた自分の生き方が、無性に情けなく感じられた。

 多分、三つの生き方があったのだろう。
 立ち向かうか、あきらめて受け入れるか、そして逃げるか。
 それぞれが置かれた立場で選ばざるを得ない道が。

 そこへ教師たちが駆け込んできた。

「兵吉、貴様、ついにやりやがったな!」

「いつかこうなると思ってたんだ!」

 押さえつけようとする教師たちに向かって兵吉は言うのであった。

「理由は聞かないんですか。」

 しかし、教師たちはそんな彼の問いかけに応ずる気など毛頭もうとうなかった。
 教師たちの目は憎悪ぞうおに満ちていた。

「お前が全部悪いに決まってるだろう、それ以外に何があるっていうんだ。」

「さっさと来るんだ、ただで済むと思うなよ。」

 もはや、教師と生徒ではなかった。
 まるで、犯罪者とそれを連行する警察官のようであった。

 教師たちに腕をつかまれ連れていかれる兵吉は尊を見つめていた。
 抵抗するでもなく、諦めきったような、それでいて何かを訴えかけるような、そんな目を尊へ向けていた。

 尊もそんな兵吉を見ていた。
 もう手の届かない、どこか遠くへ連れていかれてしまうような、そんな気がしていた。


しおりを挟む

処理中です...