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第7話

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「船長、もう魚はらないってどういうことですか。」

 船員を集めて説明を行う船長のかたわらには、ひとりの海軍兵士が立っていた。

「俺の船は海軍に徴用ちょうようされることとなった。こちらは我々の指揮を伊吹いぶき兵曹長へいそうちょうだ。」

 紹介された伊吹が前へ進み出た。

「我々は日本本土を敵の攻撃から守るため太平洋上にて哨戒しょうかい任務を行う。敵を発見次第、無電にて報告を行い、ただちに海軍がこれを捕捉ほそく殲滅せんめつする。不安もあろうが、今後は私の命令に従ってもらいたい。」

 正二をはじめ船員たちは言い知れぬ恐怖を覚えた。
 海軍が捕捉殲滅と言ったって、自分たちはどうなるんだ。
 足の遅い漁船が敵の軍艦から逃げ切ることができるのか…。

「船長、どういうことですか。ろくに武器も持っていないのに大丈夫なんですか。」

「俺はただの漁師だ。家族もいる。」

 伊吹兵曹長がその場を立ち去ると船員たちは船長にめ寄った。
 船長とて皆と同じ気持ちであったが、軍の命令とあれば従うほかなかった。

「仕方ないんだ。戦争が続いている限り、徴用ちょうようされなくても、いずれは赤紙が来て兵隊に行くことになるんだ。」

 正二たちは、すべての疑問や不満を押し殺して太平洋に船を進めるしかなかった。

 哨戒活動に出る前日、船長が正二をある場所へ連れて行った。
 釧路の米町よねまちというところにある遊郭ゆうかくである。

「船長、ちょっとまずいですよ。」

「お前も19歳だ、立派な大人だ。俺はお前と同じ年の頃にはここの常連だったぞ。それに明日をも知れん命だ。」

 戸惑とまどう正二を脇に置いて船長は何やら楼主ろうしゅと話をしている。

「正二、金は払っておいた。明日の朝に船に戻ってこい。」

「船長、困りますよ。船長!」

「それじゃあな。」

 船長は正二に背を向けて去っていった。
 彼もどこかで一杯いっぱいひっかけてから、馴染なじみの女のところにでも行くのであろう。

「さあさあ、こちらへ。」

 楼主にうながされるまま部屋へ案内された。
 というよりも、まるで警官に連行される犯罪者のような滑稽こっけいな姿であった。
 部屋で待っていると、女が入ってきた。

「まずはお酒でもいかがですか。」

 そう言われ、女の酌で酒を飲んだ。
 正二も漁船の仲間と暮らす中で酒の味は知っていた。
 しかし、女の方はさっぱりだ。

 それからのことはよく覚えてはいない。
 女を抱いたというより、女に身を任せたと言った方がよいのかもしれない。

「俺がアイヌだって分かっていたのか。」

 正二は唐突とうとつに女に尋ねた。

「もちろんですよ。」

「すまない。嫌な思いをさせてしまって。」

 正二の優しさだろう、そんな言葉が出てしまった。

 そして、全く違う生き方をしているのに、この女に不思議な親近感を覚えた。

「金に困ってここに来ているのか。」

 遊郭では決して聞いてはいけないことなのだろうが、こういう場に馴染みのない正二には素朴な疑問であった。

「ここの女はみなそうです。私も貧乏な農家の生まれで。」

 普通なら遊女というものは自分の素性など話さないのであろうが、女の方も正二に何か同じにおいを感じ取っていたのであろう。

 貧乏な家の女がはした金で遊郭に売られてしまうことは珍しくもない。
 珍しくもないのだが、人生や命というものが、自分のものでありながら自分ではどうにもできない、それがまかり通っている世の中に正二はいきどおりを覚えていた。

「お互いどうしてなんだろうな。普通の、ただただ普通の生き方をしたいだけなのに。」

「できますよ、きっと。いつの日か。」

 女の言葉を聞く正二の目からは涙がこぼれていた。

「…、必ずまた会いに来ます、客としてではなく。」

 この言葉にうそいつわりはなかった。彼の正直な気持であった。

「お待ちしておりますよ。」

 女の言葉の真意は分からない。
 しかし、正二にとってそんなことはどうでもよかった。

 常にしいたげられ、おのれの人生が思うようにならないふたりが見た、この場だけのはかない夢なのかもしれない。


 翌日、正二たちを乗せた船は太平洋の奥深くへ向け釧路を出港した。
 とは言っても、戦況はまだ日本が優勢であり、しかも海は広い。
 そうそう敵の船に出会うものでもなかった。

 どこで戦争が行われているのであろうか、そう思わせるような静かな船旅が何日も続いた。

「アメリカの艦隊はハワイの真珠湾しんじゅわんであらかた沈んだっていうし、もういないんじゃないのか。」

「日本の連合艦隊がこわくて逃げ回っているんだろ。」

 船員らは、そんなことを話しながら船上に立ち水平線を見張っていた。
 その時、双眼鏡をのぞいていた伊吹兵曹長が何かに気づいたようだ。
 伊吹兵曹長が指す方向に何やら船影が見える。

「船長、船影が見える方角へ進め。」

 双眼鏡を覗く伊吹兵曹長が何を話すのか、全員が緊張の面持おももちで耳を傾けている。

「間違いない、敵艦だ。船の形が日本のものではない。」

 敵と思われる船に近づくにつれ、正二たちにも船の形が見えてきた。
 大きな船を取り巻くように、小さな船がいくつかいるのが見える

「何だか平べったい船だな。」

空母くうぼっていう船だ。去年の暮れに択捉えとろふ単冠湾ひとかっぷわんで見たことがある。」

 そう話す船員の顔は真っ青であった。

「敵空母発見、すぐに無電を打つんだ!」

 伊吹兵曹長の命令を受け、ひとりの船員がモールス信号を打つため電信キーをたたき始めた。
 しかし、電信キーを叩き終えた瞬間、船のすぐそばに大きな水柱が立った。
 無電を傍受ぼうじゅされてしまったのであろう、敵艦が砲撃を開始したのだ。
 次々と水柱が立ち始めるとともに、上空を警戒していた敵の戦闘機までもがこちらに向かってくるのが見える。

 我々を狙っているであろう敵機に向かって伊吹兵曹長が機銃を撃つが、こんな豆鉄砲で戦闘機を撃ち落とせるはずもなく、逆に敵機が銃撃を浴びせてきた。

 バリバリバリ!!

 途端とたんに血しぶきが乱れ飛んだ。
 正二は伊吹兵曹長の方を見たのだが、頭が無くなっていた。
 胴体もズタズタになっており、ちぎれた手が機銃の把手はしゅを握ったまま残っている。
 さらに、他の船員も怪我を負い、船も浸水し始め、沈むのは時間の問題と思われた。
 そんな中、船長が必死に叫んだ。

「釧路へ無電を打つんだ!」

 ワレ キカンノミコミナシ テキセンニタイアタリヲカンコウス バンザイ
われ、帰還の見込みなし。敵船に体当たいあたりを敢行かんこうす。万歳ばんざい。)

 重傷を負った船員が最後の力を振り絞って電信キーを叩いた。
 そして、船長が正二をつかみ寄せ言った。

「こんなポンポン船ではもうどうにもならん。何か浮かぶ物を持って海に飛び込め。お前は子どもだから、運が良ければアメちゃんの船に助けてもらえる。死ぬのは大人だけでたくさんだ!」

 しかし、正二は迷いなく答えるのであった、笑顔まで浮かべて。

「それはできない。船長、あんたは人使いは荒かったが、俺をアイヌだってバカにしたことは一度もなかった。それに俺は日本人だ。」

 そう言って正二はもりを握った。
 敵艦にり込みを行う覚悟なのだろうが、巨大な鉄の軍艦に銛で立ち向かおうとする姿は、あまりにもかなしいものであった。
 いくつもの水柱が立ち昇る中、木の葉のような小さな漁船は敵艦めがけて突き進んだ。
 そして、それが正二たちの最期の姿となった。


「ごめんください。」

 正二や尊の担任であった鈴谷が訪ねたのは、正二の実家であった。
 そこには、正二の写真と粗末な供え物が置かれており、憔悴しょうすいしきった両親が鈴谷を招き入れた。

「正二君が戦死したと聞いて、おやみをと思って…」

「戦死公報が届いただけですよ。紙切れ一枚で終わり。あの子は海の底に沈んだままだっていうのに…」

 母の言葉からはくやしさがにじみ出ていた。

「国のために命をけて戦ったのに、あの子の人生は何だったんですか。軍人でもないのに国のために、日本のために死んだんですよ。今だって、顔を見せてくれた和人は鈴谷先生だけだ。息子は日本人として死んだんだ、せめて校長先生くらいは顔を出せばいいものを!」

 鈴谷には返す言葉がなかった。
 兵吉が町を追い出されこと、尊が陸軍へ志願したこと、正二が戦死したこと。
 その理由は彼ら自身と家族にあるのだろうか。
 いや違う。
 彼らを追い込んだのは間違いなく我々だ。
 そしてそのことに誰も目を向けようとしない。
 自分自身もそのことに気づきながらも、何もしようとはしてこなかった。
 
 子どもらでさえ勇気を持って戦っているというのに…。


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