化身

火消茶腕

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化身

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「あれ?私どうしたんだっけ?」
 クラーは見知らぬ場所で目を覚ました。頭がひどく痛い。痛む場所を手で触ろうとして、自分が縛られていることに気づいた。

「うそ!」
 からだのあらゆる場所を動かしてみるが、せいぜい動かせるのは首だけだった。
 両方の手首、足首、肩、腰が帯状のもので拘束され、ベッドに寝かせられているようだった。


「なに、なに、なに、これ!やだ!なんなのよ!」
 精一杯頭を動かし、辺りの様子をうかがったが、やはり部屋に見覚えはない。窓一つなく、そばに机が一つおいてあるように見える。入口はここからは見ることはできない。
 人の気配は無いようだった。

「誰か~、誰かいませんか~!」
 大声を出し、助けを呼んだ。
「誰か助けて~」

 その声を聞きつけたのか、ドアが開く音がして男が部屋に入ってきた。
「目が覚めたんだね」
 
「あっ、あなた」

 自分の顔を覗きこむ男の顔にクラーは見覚えがあった。
「ゆうべの」
 酒場で隣りに座った男だった。そこで酒を酌み交わしたのを思い出したが、その後の記憶が無い。薬を盛られた?

「あ、あなたなの、私にこんなことしたの!何のつもり!早くほどいてよ!」
 クラーは怒りを露わにして叫んだが男はまるで聞いていないふうだった。
 そして「ああ、何て君は美しいんだ!」と男はつぶやいた。

 クラーは恐怖した。この男は正気なのか?
「な、なに?」
 男の顔を見つめると男は手を伸ばしてクラーの頬を撫で言った。
「君はまさしく聖アガタの化身だ」
 恍惚とした表情だ。

「聖アガタ?」
 クラーは訳が分からず聞いた。

「えっ、君は聖アガタを知らないのか?」男が落胆したようだった。「君は熱心なクリスチャンではないんだね」
 男の様子に危険を感じ、クラーは取り繕うように言った。
「昔の偉い聖女でしょ。名前は聞いたことあるわ」

 それを聞き、男はクラーをじっと見た後につぶやいた。
「やはり完全な姿でないから駄目なんだ。正式な姿にしてあげなければ」
 彼女には理由のわからない言葉を残し、男は部屋を出ていった。

「なに、やめて!何するつもりなの!お願い、助けてよ。何でも言うこと聞くから、縄をほどいて!」
 クラーは声を限りに幾度も叫んだ。しかし、何の反応もない。男はすぐに戻ってはこなかった。彼女はなんとか戒めを解こうともがいたが、全て徒労に終わった。

 クラーが叫び疲れ、すすり泣きを始めたころ、男が戻ってきた。手にはカバンを持っている。
 男はクラーに近づくとかばんの中から丸められた紙を取り出し、それを広げた。
「見て!これが聖アガタだよ」

 そこには肖像画が描かれたいた。
 ルネッサンス期の服装をした若い娘が両手でお盆を持ち、そこに何かが載っている。
「どう、君にそっくりだろう」

 クラーは男が近づけた絵を見た。確かに髪と目の色は自分と絵の中の女性は一緒だったが、そっくりというほど自分に似ているとは思わなかった。
「そんな、こんなに私はきれいじゃないわ」
 涙声でそう言うと男が否定した。

「何を言うんだい。見れば見るほどそっくりじゃないか」男は絵を見つめ返し言った。「やっぱり君は聖アガタの化身、生まれ変わりなんだよ」
 男は興奮して続けた。
「僕は子供の頃この絵を見てすごい衝撃に打たれてね。こんなきれいな人がこの世にいるんだって。でもこの女性が昔の人で、とっくに死んでいると知ってすごくがっかりしたんだ。けれど、すぐ思い直した。この人は聖女だから神が再びこの世に送り出すかもしれないって」

「それで、ずっと探してたんだ。そして君に会った。君を見つけた。運命なんだ。分かる?僕はね、子供の頃から、この絵を見た時から君をずっと崇拝していたんだ。だから」
 そう言うと男はかばんからハサミを取り出し、クラーの服を切り出した。たちまち、クラーの胸があらわになる。

「いや~っ!やめて!」
 クラーは力の限り暴れたが全くの無駄だった。
「思った通り美しい胸だ」
 男が言う。クラーは羞恥で顔が赤くなるのを感じた。

 上半身に続き下半身も晒されることを半ば覚悟しながらも、なおも抵抗を試みようとクラーは身構えた。しかし、意に反し男はそれ以上服をはごうとはしなかった。その代わりじっとクラーの顔を見つめた。

「やはり完全でなくてはね、少しかわいそうだけど。思い出していないようだから説明するけど、君はクリスチャンということで当時のローマの役人に拷問を受けてね。ひどい目にあったんだ。このお盆に載っている二つの塊は君の胸なんだよ」

 クラーは一瞬、意味が取れなかったが、すぐに理解し、絶叫した。
「いや、いや、いや、いや、いや~っ!!」
 この男は自分の胸を切るつもりなのだ。この肖像画の女と同じようになるように。完全と称して。
 
 案の定、男はカバンから今度はナイフを取り出した。
「多分、痛いとは思う。でも、聖女なら平気だよね?我慢できるよね」
 男がナイフを握り、クラーに近付いてきた。自分の胸を掴み、切り落とすつもりなのだ。クラーは恐怖のあまり目を閉じ懇願した。

「やめて、お願い!そんなことしないで!」

 クラーの叫びとともに、突然、男がうめき声を上げ昏倒した。見ると背後に鉄パイプを握った別の男が立っていた。

 その男は倒れた男にさらなる打撃を加え続けた。
 その様子はクラーには何か非現実的なもののようにしか見えず、ただその様子を黙って眺めた。

 鉄パイプの男は相手が動かないのを確かめると、パイプを手から離し、クラーの方へ近づいてきた。

「大丈夫?」
 危険な男を倒してくれた男がクラーを覗きこむ。
 クラーは緊張の糸が途切れ、大声で泣きだした。

「君はこんな格好でいてはいけない」
 男は自分の上着を掛け、クラーの体を隠した。
「ありがとう、ありがとう」
 クラーが涙ながらに言った。

 それから男はそばに落ちていた絵を拾い上げた。
「聖アガタか。なるほど、この男は君を聖アガタの化身だと思ったんだな」
 クラーは何度もうなずいた。
「愚かな男だ。あなたを見て聖アガタの生まれ変わりだと錯覚するなんて」
 
 そう言うと男は持っていた絵を捨て、内ポケットから薬瓶と注射器を取り出した。
 すぐに縄をほどいてくれるものと思っていたクラーは何事か理解できず黙っていた。
「これで苦痛は感じないからね。すぐに眠くなる。起きたら全て終わってるよ。君は聖ルチアの化身さ。聖アガタなんかじゃない」
 言いながらクラーの腕に薬を注入する。

「いや~っ、いや~っ!!」
 クラーは必死に叫び、注射させまいと暴れた。彼女は聖ルチアのことは知っていた。彼女にもお盆を掲げた姿の絵があることと、そしてそこには二個の眼球が描かれていることを。
 
 薄れ行く意識の中、クラーはその聖ルチアの姿がはっきりと見えていた。

終わり
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