空欄のまま

小谷野 天

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1章

失くした記憶

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 こんにちは
 久しぶり
 この前、会社の健康診断で
 血糖値が高いと言われたんだ
 どういう生活をしたら
 数値が改善するのか教えてよ

 昼休み。
 高校の同級生、村岡朔也《むらおかさくや》からきたラインを、松下奈江《まつしたなえ》は、ぼんやり読んでいた。

 何よこれ、健康相談?

 奈江は飲みかけていたコーヒー牛乳を一気に吸い上げると、空になった紙パックを、叩きつけるようにゴミ箱に捨てた。
 久しぶりに連絡してきて、もしかして、村岡くん、私が離婚した事、知ってるのかな。
 村岡は奈江が住んでいる市役所の戸籍係にいた。
 3ヶ月前、転居届けを出しに行った時、村岡からしつこく声を掛けられ、仕方なく連絡先を教えた。仕事を真当していた村岡は何も聞かなかったけれど、私が離婚した事は、そのうち嫌でもわかるだろう。まっ、そんな事、気にしたって、今さらしょうがないけれど。
 奈江は携帯をカバンにしまうと、休憩室を出て仕事へ向かった。少し早めに、夕方の注射の準備をしていると、
「検査って何時から?」
 ひとつ下の後輩看護師、三浦唯《みうらゆい》が、奈江に聞いてきた。
「13時だったかな。」
 奈江がそう答えると、2人は一緒に壁に掛かる時計を見た。
「昼は?」
「さっき食べたよ。」
「どうせまた、コーヒー牛乳で終わりなんでしょう?」
 唯は笑って奈江のお腹を触った。
「アハハ、なかなか痩せないね。」
 奈江はポコっと出た下腹を強調するように見せると、唯の顔を見て笑った。
「典型的な胃下垂だね。コーヒー牛乳でだけでそこまで出るなら、ちゃんとご飯食べたら、漫画みたいになるんじゃない?」
 唯はそう言ってまた奈江のお腹を触った。
「そうかもね。それに私さ、内膜症があるみたいで、すごくお腹がパーンっと張って痛むんだよね。今週は特に絶不調。」
「何それ、子宮の事?」
「そう。」
「生理痛もひどいし、1人になったし、ここはもういらないかなって、最近考えてるの。」
 奈江は唯が触っている下腹を見て言った。
「奈江、ここは女の宝だよ。」
 唯がそう言うと心配そうに奈江の顔を見た。
「どこがよ。昔、誰かが言ったじゃない。生産性のない女性は価値がないってさ。結婚しない女には宝でもなんでもないの。」
 奈江は唯の心配を吹き飛ばすように、口に大きく開けて笑った。

 13時。
 患者を乗せた車椅子を押してレントゲン室の前に行くと、
「ちょっとさぁ、タイミングが悪いって!」
 苛ついた放射線部の技師長が、奈江と患者に向かって、きつく言い放った。奈江が確認するように腕時計を見ると、ちょうど13時を過ぎたばかりだった。これのどこが、タイミングが悪いのよ!奈江はそう思い、患者の乗った車椅子のグリップを持って、待ち合いの席まで後ずさりした。そこに並ぶ椅子に腰を掛けようとすると、よいしょ、と小さな声が出た。
「寒くないですか?」
 奈江は患者に声を掛ける。
「寒くないよ。あんたこそ、半袖で寒くないのかい?」
 少しして、レントゲン室の扉が開くと、中から高校生の女の子が、車椅子に乗って廊下に出てきた。母親らしき女性が、心配そうに技師長に顔を向ける。
「気を付けてね。」
 さっきまで苛ついていた技師長は、制服の女の子とその母親に優しく声を掛けている。
「10番!」
 技師長にそこに入るよう顎で指示された奈江は、閉められた重い扉を、足で押さえながらゆっくり車椅子を中に入れた。敷居の段差を車椅子のタイヤがガタンと乗り越える。
「早く、そこに寝かせて。」
 技師長は急かすように奈江に指示すると、ブツブツ何か言いながらその場を離れた。 
 検査を終え、エレベーターの到着を待っている時、
「なあ、わしら、嫌われ者同士だな。」
 車椅子に乗っている老人が、奈江にそう言った。
「えっ?」
 奈江は老人の顔を覗くと、
「あんたさ、顔が腐ってる。」
 そう言って小さく笑った。

 5年間の結婚生活は、3ヶ月前に終わりを迎えた。
 子供がいない夫婦の夫は、わりと簡単に別れを切り出した。
 むこうが浮気をしていた事は知っていたけれど、体の関係はないと言い張れば、それは不倫にはならないと、元旦那は開き直った。
 これから夫婦としてやってく自信がない。そう言う理由に置き換えられたら、無理に引き留めるわけにはいかないよ。気持ちがなくなっているのは、こっちをだって同じなのに、こういうのって、先に言ったもん勝ちなのかな。言われた方は、まるで蟻地獄に足を踏み入れた様に、底なしの地面から這い上がる事ができないでいる。
 どこで知り合ったのか知らないけれど、野生動物の様に、本能のまま体を求め合って浮気された方が、理性が働いた恋愛をされるよりも、まだ諦めがつく。
 結局自分は、誰も満足させる事のできない、欠落した人間なんだろう。元々結婚生活なんて、こんな人間にむいていなかったの。1人で生きていく事が当たり前だと思っていれば、そこに生えている雑草の様に、男だの女だのこだわらず、黙って踏みつけられて、枯れていくのを待って暮らしていけたのに。
 もっともらしい理由なんか並べなくても、別の女の方が相性がいいと言えば、仕方のない事だとすんなり受け止めてやったよ。とってつけたような言い訳を言ったばっかりに、出会った頃からの記憶の全てが、黒く塗り替えられていった。
 
 私が失った時間は、どこから取り戻せば、キレイに元に戻るのだろう。

 この町に戻ってきてすぐに、中学の頃の同級生と再会した。懐かしさと運命を感じ、すぐにその人と同棲の様な生活を始めた。なんの疑いも持たなかった付き合って4年目の冬。その彼から突然別れを告げられた。
 誰も信じられず、仕事に没頭していた1年後、別れた夫と知り合い、すがるような気持ちで彼を好きになった。
 言い訳なんかするつもりはない。全部自分が決めた事だから。
 
 22時。
 残業を終え、家に帰る途中のコンビニで、奈江はカップラーメンとビールを買った。
 顔が腐ってるのは、この生活のせいか。
 昼間に老人に言われた事を思い出し、奈江は小さくため息をついた。
 離婚してから、好きな物を好きな時間に食べる生活をしていると、料理もせず、適当な時間に味の濃いものばかりを選んで過ごす様になった。どうせ守るものなんてないんだし、健康なんか考えなくてもいい。これからは標準的な生き方をしなくてもいいんだと開き直ると、不規則な看護師という仕事を選んだ事の方が、案外好都合だった。
 どんどん生活が荒んでいく様でも、休みの日には何かに取り憑かれた様に掃除をしているせいか、部屋の中は誰もいないかのように、さっぱりとしていた。
 いくらゴミを出したって、またすぐに捨てるものが溢れてくる。わかっているのに、またゴミを増やすような生活ばかりを繰り返す。
 奈江はレジの前にあった、桜餅をひとつ手にとってカゴに入れると、村岡からラインがきていた事を思い出した。
「お客さん、お金入れて。」
「あっ、すみません。」
 奈江は店員の声にハッとし、口の空いた現金投入口に1万円を入れた。
「ボタン押さないと終わらないよ。」
「ごめんなさい、そうだった。」
 奈江はレシートとジャラジャラとお釣りを手で掴むと、レジを後にしようとした。
「ちょっと、お札は?」
 店員が奈江を呼び止める。
「ヤダ、すみません。」
 奈江は慌ててお札を握り、店員に向かって頭を下げた。
「大丈夫?」
 店員は奈江の顔を覗いた。
「ごめんなさい、千円札だと思ってて。」
「お酒買ってるけど、まさか未成年じゃないでしょう?」
 その店の店長だと思われる中年の男性は、奈江をからかうようにそう言った。
「ヤダ、どう見ても、おばさんじゃないですか。そういえば、最近そんな動画がありましたよね?」
 店員は笑って、
「お客さん、高校生かと思ったよ。こんな時間に考え事をしてるなんて、テストの点数でも悪かったのかなって。」
 店員はまた奈江をからかった。
「ありがとう、店員さん。私もう32です。お酒は正々堂々と飲めますから。」
 奈江は笑って頭を下げた。
「こんな時間から、あんまり飲み過ぎるんじゃないよ。」

 店を出てから携帯を取り出し、歩きながら村岡のラインを読み返していた。
「好きな物、好きなだけ食べたら?」
 奈江がそう送信すると、すぐに既読がついて、
「それでも看護師かよ。」
 村岡から返信がきた。
 そうだよ、どうせ私は腐っているんだから。わざわざそんな事、言わせないで。
「市役所の保健師さんにでも聞いたら?坂本先輩って、そこにいるんでしょう?」
 奈江はそう返した。
「松下なら、おもしろい答えが聞けると期待したのに。」
 バカなの、本当に。そう思いながら村岡から返信を読んでいると、奈江の電話がなった。
「松下、まだ起きてるのか?」
 相手は村岡だった。
「起きてるけど。」
 奈江は腕時計を見る。時計の針は22時半を回っていた。
「もう寝るのか?」
「これから帰ってご飯。」
「ひどい生活してるんだな。」
「どういたしまして。」
「松下は1人になったんだろう?」
「だから何?」
「そんな性格だから、男が逃げるんだよ。」
「それはどうも。」
「冗談だよ、ごめん。」
「もう切るね。」
「あっ、待って。明日、空いてるか?」
「空いてない。」
「仕事か?」
「まあ、いろいろ。」
「遅くてもいいからさ、松下と少し話ししたくて。」
「健康相談なら、私は受けないよ。」
「そうじゃなくて、あのさ、」
「ごめん、今は誰とも話したくないの。おやすみ。」
 奈江はそう言って電話を切った。

 引っ越したばかりの小さなアパートの鍵を開けると、電気も付けず台所へ向かった。流しの上にある蛍光灯の紐を引っ張ると、ぼんやりした灯りの中で、買ってきたビールを立ったまま飲んだ。
 技師長のやつ、何様だよ!自分だけが特別な存在だとでも思っているのか!そうやって人を下に見てるあんたは、情けない背中をしてるって事に、さっさと気がつけよ!
 奈江はため息をついた。
 男なんてみんな同じか。都合のいい時だけ優しくして、面倒くさくなると、急に偉くなる。
 カバンから携帯を取り出して充電すると、その場で服を脱ぎ、お風呂場へ向かった。

 準夜勤が終り、朝方に眠りかけた金曜日。
 奈江の携帯がなった。
「もしもし、松下さん。」
「おはようございます。」
「ごめんなさい、今日は休みだったわよね。」
「あっ、いえ。」
 師長の声のトーンで、奈江はまたかと思った。
「松下さん。悪いけど、今日の休みを来週にしてくれないかな?どうしても、日勤のメンバーが足りなくて。それに今日に限って、助手さん達がみんな休みを取ったのよ。」
 今さら休みがほしいと抵抗しても、家庭のない私が
断る理由がない事を、師長は知っている。ついこの間までは、妊娠するタイミングをお節介なほどに言ってきたのに、私が独身に戻った事を知ると、自由に動かせる兵隊増えて、一番喜んでいるは、この人なのかもしれないと思う。
 女はマウントを取るよりも、不幸マウントをつけて笑っているほうが、本当は好きで好きでたまらないんだ。
「そうですか。わかりました。急いでそちらへ向かいます。」
 奈江は勢いよくベッドから起き上がると、少しふらつきながら、洗面所へ向かった。
 鏡の中に映る自分の顔は、本当に腐って見える。
 まるで、暗い穴の中で、最後の時を待っている、失敗したミイラの様だ。奈江は頬を少し抓ると、痛みを感じるはずの頬は、自分のものではないような感覚を覚えた。あともう少しで、本当に朽ち果てるのか。

 なんとか始業に間に合い、記録を読んでいると、
「松下さん、入院がくるから頼んだわよ。じゃあ、私は会議に行ってくるから。」
 師長は奈江の肩をポンと叩き、そそくさと病棟を出て行った。
「ねえ、昨日は準夜じゃなかった?」
 唯がそう言った。
「そうだよ。」
 奈江は壁に掛かっている時計を見た。 
「今日の夜は深夜でしょう?」
「そうだよ。」
「ねぇ、このまま働いたら、明日あたり死ぬよ。」
 唯はそう言いながら、電話を取った。
「これから入院が上がってくるって。」

 23時。
 家に帰って2時間ばかり休息を取り、奈江は深夜勤に向かった。21時なんて時間に帰っても、シャワーを浴びる事さえも、億劫になる。日勤のまま残っていたほうが疲れなかったかも。奈江はなんとか気持ちを奮い立たせて、浴室へ向かった。
 シャワーを浴びて出てくると、携帯がなっている。髪の毛を乾かしながら、誰?と着信を覗く。
 なんだ、村岡くんか。
 奈江は着信を無視すると、音は一度切れたものの、また着信音がなり続けた。仕方なく電話に出ると、
「寝てたのか?」
 村岡はそう言った。
「これから仕事。」
「これから?」
「そうだよ。」
「松下は仕事と結婚したのか?」
「何よ、それ。」
「こんな時間なのに、横にならなくても生きていけるんだな。」
「私だって眠いよ。もう切るね。」
 おやすみ、と奈江が言い掛けると、
「待てよ、あのさ、」
 村岡は話し続けた。
「何?」
「大丈夫なのか、」
「だから、何?」
「明日、少し話せない?」
「無理だね。明日はゆっくり寝かせてよ。」
「そっか。それならさ、起きたらご飯でも食べに行こうよ。」
「行かない。」
「夕方くらいにはさすがに起きるだろう?」
「どうかな。」
「松下、どうしても話しがしたいんだよ。明日、また連絡するから。」
「勝手にすれば。私は絶対に電話に出ないからね。じゃあ、本当に切るから。おやすみ。」
 

 
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