水たまりうつる君

小谷野 天

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水たまりにうつる君

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 ~海が会いにきてくれた~

 第1章

 まだ、新しい靴に慣れていない新入社員達が、社内を挨拶に廻っている。
 女性職員達のひそひそした声と、ぎこちない自己紹介。
 いつもと違う空気の中、まるで自分には関係ないというように、松岡芽衣《まつおかめい》は、淡々と仕事をしていた。

 3年前、自分も新入社員として4月1日を迎えた。
 履きなれない靴と、窮屈なスーツで、1日は長いようで、あっという間に過ぎていった。
 毎日、初めて聞く言葉も、内線か外線かわからない電話も必死で受話器をとり、早く仕事を覚えようしている自分がいた。
 
 いつの間にか、同期達とは大きな差ができて、会社の花型部門である開発メンバーからは外された。
 元々、誰かの前での自分の意見を言うのが苦手だった芽衣とっては、会議や打ち合わせが多い部所のメンバーから外れた事に、正直ホッとしていた。

 ここ数年は、感染症の流行もあり、芽衣が担当する管楽器部門は、売上も他の楽器と比べて落ち込み、社内でも少し冷めた部所となっていた。
 少しずつ人手が減っていったが、抱える仕事の量は、それ程増えるわけではなく、毎日、なんとなく楽しくやっていた。

 そんな芽衣の所へ、課長が新人を連れて来る。
「松岡くん、彼、管楽器の担当なんで、いろいろ教えてあげなさい。頼んだよ。」
 芽衣は課長に、わかりました、と頭をさげる。
 スラっとしたキレイな面立の青年は、芽衣によろしくお願いします、と頭を下げる。

 どおりで昨日、隣りの席の先輩が移動したわけだ。 
 修理メンテナンス担当の私に新人をつけるなんて、課長もずいぶんと大きな賭けに出たもんだ。どういうつもりで、自分なんかに、わざわざ新人をつけたんだろうか。
 今まで人に教える事などなかった芽衣は、正直どうしていいか困惑していた。

「津村周平と言います。よろしくお願いします。」 
「松岡と言います。よろしくお願いします。」
 芽衣は津村のキラキラとした笑顔から、視線を逸らすように
「席は、ここかな。これから、いろいろ案内しますから、荷物をそこに置いて待っててください。ちょっと、これをやってからにするからね。申し訳ないけど。」
 そう言って、芽衣は急いで電話を掛けた。

「今日の2時ですね。わかりました。」 
  
 イケメンで賢そうで、誰にでも愛想のいい津村を連れて社内の案内をしていると、女子職員からコソコソとした話し声が聞こえてくる。

 なんで松岡さんなの?そんな声が聞こえた。

 会社にとって期待外れの芽衣が、期待に胸を膨らませている新人を連れて回るのは、本当に申し訳なく思った。
 ひと通り社内の説明を終えると、
「ごめんなさい。私なんかが担当で。」
 芽衣は津村に謝った。
「松岡さんは、まだフルートを続けているんですか?」
 津村が芽衣に質問した。
「ううん。」

 この人、なんでそんな事を知ってるんだろう。

「津村くんは、何か楽器はできるの?」
「ずっとピアノをやってたけど、高校に入ってからはトランペットを始めました。」
「そう、すごいね。私なんかにつかなくても、そのうち一人で仕事ができるようになると思うよ。わからない事があったら、他の先輩達に聞くといいから。」
「松岡さんは、どうしてこの会社に入ったんですか?」
「私ね、音楽しかやってこなかったから。津村くんは?」
「俺も似たようなものかな。」

 芽衣には3つ上に優秀な兄がいた。5つ上にはもっと優秀な姉がいた。3人の中で、格段に出来損ないだった芽衣は、特待生だった兄や姉の通う私立の進学校ではなく、公立の高校に入学した。
 両親はずいぶん嫌味を言ったが、仲の良かった友人達と離れるのが嫌だったし、兄や姉とは同じ学校に行かない事は、ずっと前から決めていた。

 入学式から帰る途中、急かす母に文句を言いながら、グランドでサッカーをしている男子を、ずっと目で追っていた。

 風の中を流れるようにボールを追いかける彼に、芽衣は一瞬で恋に落ちた。彼のそばを通った風は、芽衣の肩を通り抜ける。
 まだ冷たい春の空気が、芽衣の心に小さな竜巻を作るように、あっという間に彼の渦に吸い込まれていった。
 彼にボールが回ると、まるで彼だけの道が用意されているようにゴールが見えてくる。
 彼の笑顔も、真剣な眼差しも、芽衣には今までに見たことのない光景だった。
 何度も芽衣に早く帰ろうと急かした母は、とうとう先に帰ってしまった。

 芽衣は初めて見た彼の事で、頭がいっぱいになる。

 次の日からなんとか彼に近づくために、誰にも知られないように彼の情報を集めた。 

 1つ上の、彼の名前は廣岡弦。 

 サッカー部では一目置かれている存在で、人気が高く、他校の女子達も、彼を見るためにグランドに集まって来るらしい。

 芽衣は、そんな彼をなんとか近くで見ることはできないか考えた。 
 
 音楽の授業で、窓からグランドを見た時、
 ここだ、
 そう思った。

 サッカー部をはじめ、運動部のマネージャーは希望者が多く、人見知りの芽衣は、そんな女子達ともうまくやっていく自信がなかった。

 彼に近づくために、グランドがよく見える音楽室で練習をしている吹奏楽部に、芽衣は入部届けを出した。
 
 友人達は、中学と同じようにバドミントンをやると思っていた芽衣が、突然、吹奏楽部に入部すると聞いて、皆、驚いていた。

「ねえ、私は誰とダブルスを組んだらいいの?」
 中学生からの友人、原田あさ美は芽衣に言った。
「あさ美はシングルでもいけるでしょう。」
「それはそれだよ。せっかく2人でやってきたのに。」

「ねえ、あさ美ちょっときて。」
 昼休み、誰もいない音楽室に芽衣は向かった。

「ほら、あの人。ここからよく見えるでしょう。」
「あのサッカー部の人?」
 グランドには仲間と談笑している廣岡がいた。
「あの人、素敵でしょう。」
 芽衣が見ている事に気がついたのか、廣岡はチラッとこっちを見た。
「ヤバイ、ちょっと隠れて。」
 2人は窓から見えないようにしゃがんだ。
「何やってるんの?別に隠れる事ないのに。」
「恥ずかしいって。」
「もしかして、あの人を見るために吹奏楽部を選んだの?」
「そう。」
「女の友情より、男を取るのか。」
「そうじゃないけど。」
「芽衣、楽器できるの?」
「できない。」
「どうするの、ここの吹奏楽部は厳しいよ。」
「あの怖い先生に頼むの嫌だなぁ。」
「周りくどいことしないで、告白すればいいじゃん。」
「無理無理。」
「芽衣なら大丈夫だよ。さっきもうちのクラスの男子が、芽衣がなんの部活に入るのか、賭けしてた。」
「なにそれ。」
「芽衣は気がついてないけど、けっこう人気だよ。」
「そんなの知らない。」
「ねぇ、マネージャーにでもなったら?」
「ダメ。マネージャーは人気があるし、私は気が利かないもん。」
「あっそ。」
「私、ここから、ずっと見てたいの。」
「あの人、きっと彼女いるよ。」
「それでもいい。」

 吹奏楽部の顧問は、芽衣の入部をなかなか認めなかった。
 元自衛官で、音楽部担当だった顧問の橋田は、厳しい指導で有名だった。

 初心者なんか困ると、橋田は芽衣の入部希望をあっさり断った。 
 公立高校と言っても、橋田が来てからは県大会でも金賞をとるほどの実力があり、初心者の指導をしている暇はないと、橋田は芽衣に言った。
 それでも、なんとか入部させてほしいと食い下がらない芽衣を、橋田は渋々、入部テストを受けさせる事に決めた。
 楽譜も見ることのできない子なら、自分の実力を知って諦めたらいい、橋田はそう思っていた。

 入部テストの日、芽衣が演奏したフルートに橋田は舌を巻いた。
 サッカー部の練習がよく見える窓口に座るフルートの席をとるために、芽衣は必死で練習し、楽譜通りに演奏ができるようになった。

 橋田に入部を認められたその日から、芽衣はグランドで走る彼の姿を見るために、今度は、よそ見をしても間違えないよう、家でフルートの猛練習を行った。
 そのうち、楽譜を見なくてもスラスラ演奏できるようになった芽衣は、今度は指揮を見なくても、テンポも強弱も間違える事なく、演奏できるようになった。 

 芽衣が誰よりも早くきて、誰より遅くまで練習してたのは、フルートが好きだったわけではなく、サッカー部の練習を見るためだけだった。
 
 顧問の橋田は、芽衣が練習熱心だと勘違いしたのか、芽衣を様々なコンクールに出場させた。
 
 出来損ないだった娘は、いつの間にか、たくさんの賞をもらうようになり、芽衣の意外な才能に、両親はすっかり有頂天になった。

 高校3年の秋、橋田の勧めるままに音大の推薦入学の話しを進め、翌年の春、芽衣は東京の音大に入学した。
 心の中では、廣岡が東京の大学に通っていると聞いて、もしかしたらまた彼に会えるかもしれない、そんな期待をしていた。

 音大に入学しても、元々たいして音楽は好きでもなかったので、芽衣は必要な単位だけを取り、なんとなく大学生活を送っていた。
 フルートは熱心にやらず、教員免許に必須であるピアノの練習の方が、多くの時間を費やした。

 結局、廣岡と会う事なんかなかった。

 大学4年の時、地元にいる同級生から、廣岡が母校で、体育の教師として戻ってきたという事を聞いた。
 サッカー部の顧問となって、またグランドを走っていると知って、芽衣は彼に会いたい一心で、福井県の教員採用試験を受けた。

 結果は不合格となり、大手楽器メーカーに就職した。
 地元に戻れば、廣岡に会えるかもないとも思ったが、教員採用試験に落ちて、両親に嫌味を言われる毎日は、嫌だった。

 教員採用試験2回目となった去年は、一時試験は合格したが、二次試験の面接で不合格となり、結局、両親に嫌味を言われた。
 
 なかなか廣岡と会う事をは叶なわず、芽衣はため息ばかりが増えた。 
 なんの希望のないまま、今は与えられた仕事をこなし、ただ淡々と毎日を送っているだけ。   

「俺、松岡さんのフルート、好きだったのにな。」
「えっ?」
「まったく覚えてないんだ。」
「なんの事?」

 津村と芽衣が話しをしていると、新人歓迎会をやるから、今日の夜は空いてるかと、数人の女子が聞きにきた。
 津村は芽衣に聞く。
「松岡さんも、行きますよね?」
 芽衣が答える隙もなく、女子達が津村を連れて行った。

 高身長で整った容姿の津村は、どこへ行っても注目の的だった。誰にでも穏やかな優しい笑顔。
 
 電話をかけようとした芽衣の所に、弦楽器担当の2つ年上の佐和がくる。
「芽衣、今日歓迎会行くんでしょ? そのあと二人で飲みに行こうよ。」
 会社で、数少ない友人の佐和が、芽衣を誘う。
「それなら、あのママの所がいい。」
「またぁ~。芽衣、あの店のどこが気に入ったの? 若い子が入る店じゃない、ただのスナックだよ。カラオケはうるさいし、客は年配の人ばっかりだし。」
「私は落ち着く所なの。ママはキレイだし。」
「もう、わかったよ。ママにそう言っておくから。ねえ、さっき連れ違った子が噂の新人くん? とうとう芽衣も、指導する立場になったか。」
「困ってるの。指導なんかできないし、これって課長のパワハラなのかもしれない。」
 佐和は笑った。
「芽衣、今ね、あんた全女子職員を敵に回してるよ。しかしまた、課長は大きな賭けに出たね。芽衣にあの新人をつけるとはね。」
「私についた彼は気の毒。」
 芽衣と佐和は顔を合わせて、笑った。
「彼、相当優秀らしいよ。本当は、指導なんかつけなくて、開発の方でバリバリやらせるつもりだったみたい。」
 佐和はそう言って、またあとで、と仕事に戻った。

 佐和とすれ違いで戻ってきた津村に
「津村くん、楽器の修理やメンテナンス担当なの。営業や開発とは違って、けして華やかな仕事ではないから。」
「知ってます。」
「無理な事を言われる事も、それでも頼まなきゃいけない事もあるの。営業や開発の方だけ、担当させてもらってもいいのよ。」
「俺が、ここを希望したんです。」
 津村はニッコリと笑った。
「本当、奇特な人ね。」
「そう言われたのは初めてです。」
 津村は芽衣をまっすぐに見つめている。
 少しずつ、近くに寄ってくる津村と、なるべく距離を保つために、芽衣はなんとか、修理メンテナンスなど、自分には合わないと言わせるつもりだった。
「津村くんと話すと、なんでも吸収されちゃうわ。」
「よく言われます。」
「修理部門はね、春休み中にメンテナンスを頼む学校も多いから学校が始まるこの一週間は本当に忙しくて……。これから、高校に行くんだけど、一緒にくる?」 
 芽衣は、そう津村に言った。
「もちろん、俺は松岡さんと一緒に行きます。」
 津村は、倉庫へ向かおうとする芽衣の後をついて歩いてきた。

 歓迎会では、津村を囲んで女子職員達が質問責めにしている。芽衣と佐和は皆が二次会に行くタイミングで、二人で抜け出した。

 二次会についた津村は、芽衣を探したが見当たらず、松岡さんは? と聞く暇もなく、また女子から囲まれてお酒を勧められた。

「あ~、疲れたね。津村はもっと疲れてるだろうね。女子達が、常に津村について離さないみたいだしさ。」
 佐和が芽衣に言う。
「モテモテだもんね。彼はピアノできるっていうから、佐和さんの弦楽器の方に行けば良かったのに。」

 芽衣と佐和の前に、ママが来る。
「お嬢さん達、何飲むの?」
「あっ、ママ。この前いれたボトルあったでしょ、それと、ビールも2つもらえる? ママも一緒に飲もうよ。」
 佐和が言うと、ママはわかったわ、とそそくさとビールを運んできた。カンパーイ! と、3人でグラスを鳴らすと、別の席にお客さん達が、カンパーイとやってくる。
「佐和ちゃん、わざわざ、うちに来なくても、あなた達なら、もっとオシャレな店がとか行けばいいじゃない。」
 ママが佐和に言う。
「この子がさ、ここがいいっていうんだよね。」 
 ママは芽衣を見て、
「芽衣ちゃんだったかしら? 嬉しい事言ってくれるけど、うちの何が良くて、そんな事を言うのよ。」
 ほろ酔いの芽衣は、そりゃ、ママが目的ですよ、と言ってママの手を触る。
「ほんとに、この子は。女の子じゃなかったら、怒ってるとこだわ。」
 ママは芽衣の頭を撫でた。
「今日は疲れた。あの新人のペースに巻き込まれた。」
「やっぱり、彼はできるやつ?」
「次はなんですか?これはなんですか?って、それにちょっと空いたら、質問責め。出来すぎる新人を私につけるなんて、やっぱり、これは課長のパワハラだよ。」
「芽衣、今まで好きなように仕事してきたんだから、これからは新人と一緒に成長していきなさい。」
 佐和はそう言うと、カラオケが始まり、芽衣は客に呼ばれ、一緒に歌った。
 佐和が、ほんと毎回これ、この子のスイッチがどこにあるのか、ぜんぜんわからないの、ママにそう言った。
「あの子、ずいぶん古い歌、知ってるよね。」
「音大にいた時に、実技試験でずいぶんと病んだらしいよ。スーパーでバイトしてた時、店で流れる歌謡曲に涙が出たんだって。ずっと誰かと歌いたくて仕方なかったらしいの。」
 佐和も手拍子を始め、芽衣と一緒に歌った。

 佐和の彼が車で迎えにきて、芽衣を家まで送ってくれた。
 やけに酔っている二人を見て、佐和の彼はおじさん達と言って笑った。
「芽衣に春が来たよ。」
 佐和はそう言った。
「芽衣ちゃん、彼氏でもできたの?」
「春なのにため息だよ、本当に。私の春はまだまだ。」
 芽衣はそう言って笑った。
「もう、あのおじさん達とは打ち解けてるのに、なんでかわいい若い子には、きっちり線を引くんだろうね。」
 芽衣と佐和は、車の中でも歌を歌う。
「おっさん達、さっきから昭和の歌ばっかり歌うなよ。」

 次の日、頭が痛む芽衣に、津村は昨日はどこへ行ったのかしつこかった。家に帰ったと言ったが、そんなに酒臭くて、家に帰ったはずがないと言うので、芽衣はこっそり、やっぱり酒臭いか、佐和に聞きに言った。
 佐和は笑って、津村にからかわれたんだよと言うと、
「さっき、津村が私の所にもきて、昨日は芽衣とどこに行ったのかしつこく聞いてきてさ、今度は自分も連れて行ってほしいってずいぶん粘られた。」
「それで教えたの?」
「教えないよ。あの店は、あんたのオアシスだもん。それにさ、幻滅するじゃん、キレイな先輩がスナックでおじさん達と盛り上がってると聞いたらさ。適当に言っておいたから、安心して。それにしても、津村はあんたに惚れてるかもね。わざわざ、芽衣のいる楽器のメンテナンスを希望したっていう話しは、本当らしいよ。女の子達があんたの事、やっかんでんだから。芽衣もさ、いつまでも、高校の思い出なんか引きずってないで、もう新しい出会いに進んでもいいんじゃない?」
 佐和はそう言った。
「あの彼を超える人は、もういないの。私はずっと一人でもいい。」
「あー、そうかい。ほらほら、迎えに来たみたいよ、噂の彼。」

「昨日、預かった楽器の修理、頼んでおきました。」
「ありがとう。いつできるって言ってた?」
「来週の木曜日です。」
「そしたら、学校にはその旨を伝えておくから。これから、また学校を回るから、昨日と同じ様な感じだから。それと、やっぱりなんでもない。」
「本当は、相川先輩と飲んでいたんでしょ? 今度は自分も誘ってください。」
 津村はそう言って笑った。
 
 ある日、大学の吹奏楽部から急ぎのメンテナンスを頼まれたの芽衣は、現場に一人で向かった。津村は開発部の打ち合わせに呼ばれていたので、朝からいなかった。

 一人で多くの楽器のメンテナンスをするのも、もう慣れた。芽衣は次々にメンテナンスをこなし、最後のトロンボーンが終わった頃、朝から開始して時計は午後2時を回っていた。

「練習に間に合って良かった。無理を言ってすみません。とても、助かりました。」
 顧問の男性が芽衣にお礼を言う。
「ここの学生さん達は、とても大切に楽器を扱っているんですね。」
「そう思いました?」
「ええ。たくさん練習しているようですけど、みんな楽器がキレイです。」
「人がいても、楽器がないと音楽は成り立ちませんから、普段からうるさく言っているんですよ。」

 芽衣は大学を後にする。
 津村から電話がなった。

「松岡さん、今どこですか?」
「今、大学を出た所。」
「一緒に行けば、早く終わったのに。」
「津村くんは開発の方で忙しいでしょ?」
「まあ、そうだけど。お昼、まだでしたら、俺もまだだから、そっちに行きます。一緒に食べましょう。」
「私、お弁当なの。だから、戻ってから食べる。津村くんは先に食べてていいよ。」
「いえ、待ってますよ。昼から特に予定ないし。」
 津村は、戻るまで待ってますから、と言って電話を切った。 

 会社に着くと、芽衣は自分のロッカーからお弁当を出し、津村にわからないように食堂へ行った。
「芽衣!」
 佐和だった。
「津村にそのお弁当見られるの恥ずかしいの?」
「別に、一人で食べようと思っただけ。」
「嘘!芽衣のお弁当は、親父みたいだもん。あっ、来たよ。津村くん、こっち。」
「佐和さん、呼ばないでよ。」
 津村が二人の前にやってくる。
「松岡さん、一人で食べるのはずるいですよ。ずっと待ってたのに。」
「私も、休憩しようっと。三人で一緒に行こう。」
 休憩室についた三人。
 佐和は、コーヒーを飲み、津村は菓子パンを開ける。
「津村、待ってはわりにそれだけ? 芽衣におかずをもらうよいいよ。ねっ。」
 芽衣は、どうぞ、と津村の前でお弁当を開ける。
「松岡さん、これ一人で食べるの?」
「そう。」
「芽衣の弁当、だんだんデカくなっていってね、毎回ピクニックかと思ってたんだけど、よく見ると、一つ一つがでかいの。切り方のセンスなのかな、詰め方のセンスなのかな。」
「お弁当箱に合わせるとこれくらい大きくしないと、隙間が開くのよ。」
 佐和に理屈を言った芽衣だったが、すぐに佐和に反論された。
「だいたい、弁当箱がおっさんだもの。もっとかわいいやつにすればいいのに。」
「これが一番、洗いやすいし。」
 二人の会話を聞いていた津村が、松岡さん、これもらいますと、芽衣の卵焼きを食べる。
「うまい。今度俺のも作ってくださいよ。」
 津村は唐揚げに手を伸ばす。
「津村くん、いつも女の子達からお昼誘われてるでしょ。」 
 芽衣は津村にそう言った。
「そうなの、津村?」
「たまたまそういう時に、芽衣さんが見てるんですよ。毎日じゃないですよ。たまにです。」
 芽衣は、佐和に、ウソウソと、手を横に振った。
「松岡さん、メンテナンスの依頼が入ったら、絶対、俺も連れて行ってください。」
「はい、はい。津村くんが席にいたらお願いするから。」
 芽衣のあっさりした態度に、
「佐和さん、いつになったら俺も飲みに連れてってくれるんですか?」
 津村は佐和に詰め寄った。
「えっ、歓迎会の事、まだ覚えたの?」
「松岡さんと佐和さん、二人だけで、抜けたじゃないですか。」
 津村のひるまない態度に、
「芽衣、今年の新人さんは、ずいぶん変わった子が入ってきたみたいよ。ちゃんと指導しなさい。」
 佐和が芽衣に言った。

 遅い昼食を食べ終えた芽衣と津村は、修理を終えた楽器を届けるのに、芽衣の運転で依頼先を回っていた。
「いつも一人でやってたんですか?」
「ううん。去年は、津村くんの隣りの席の片岡さんと一緒だったよ。片岡さんは今年から、営業の方に回ったから。」
「そうなんですか。芽衣さんはずっとメンテナンス担当なんですか?」
「去年から、この仕事。前は開発の方にいたけど、私には難しかった。」
「メンテナンスの方は、力仕事も多いから女の人は大変でしょ?」
「佐和さんがよく言うでしょ。私はおっさんだって。」
「確かに。あの弁当は男の弁当ですよ。」
「やだ、またお弁当の話し。私、小さいお弁当におかずを詰めるのが苦手で、あのサイズになったのよ。小さいとお腹空くし。」
「高校の時から?」
「高校の時は、親が作ってくれてたから。」
「明日から俺の分もお願いできますか?」
「ダメ。」
「なんでですか?」
「お弁当箱、一つしかないもの。」
「なんだ、そういうことですか。それなら一緒に買いに行きましょうよ。」
「津村くんがお弁当募集すれば、毎日食べきれないだけ集まると思うけどな。」
「そうですかね。」
「そうよ。」

 津村は芽衣と一緒にいて、会話が止まる事なくあふれてきた。
 高校の時から好きだった憧れの芽衣は、自分の気持ちに気づいてはいない。
 いつも誘うとはぐらかされるが、そんなもどかしい毎日も、津村にはとても心地よかった。

 第2章

 津村が入社してから半年。
 津村は芽衣が教えなくて、何でも1人でできるようになっていた。最近は、修理やメンテナンスだけでなく、営業や商品開発の方で呼ばれる事が多くなり、芽衣との距離がだんだんと開いていった。津村は芽衣との隣りで話しをする一緒の時間が待ち遠しくて、毎朝早く出勤し、芽衣が来るのを待っていたけれど、感染症の対応が変わってから、中止してた演奏会が再開し、楽器のメンテナンスや修理の依頼が一気に増えた。
 芽衣は外回りに忙しいようで、会社で会う事も減り、1人で多くの依頼をこなしていた。津村は課長に、自分は修理メンテナンス部門をやりたいと伝えてはいたが、それは、松岡くんだけで大丈夫だからと断られ、商品開発や営業を、主にやるように言われていた。

 まだ蒸し暑い夏の終わり。芽衣は、今年も教員採用試験を受けるために、地元の福井に帰っていた。

 海が見える町で育った芽衣は、海はいつも自分の近くにいるものだと思っていたけど、東京にきた頃、芽衣の知っている海は、本当は会いに行かないと見れない景色なんだと、初めて気付いた。
 海の匂いも海の風も、白い波もキラキラと光る波も、東京のどこに行けば会えるのか。

 今年で、3回目の教員採用試験。毎年、不合格になる度に、自分には教員になるセンスも、初恋の彼に会うチャンスもないんだと思った。
 せめて、ピアノがプロ級だったら、地元で音楽教室の講師になれるのに、姉のお供で習ったピアノも、芽衣は3ヶ月でやめてしまった。姉も兄も、恥じない仕事に就き、父や母の自慢の子供達。せっかく音大に入った末娘は、連続して教員採用試験を落ちているなんて、芽衣は家族からも愛想をつかされているように感じていた。
 もう諦めて、今の仕事を頑張ったら? と、母が言う。

 津村は仕事を休んだ芽衣を心配して、佐和の所に来ていた。
「松岡さんは何でお休みなんですか?」
「ああ、芽衣は地元で教員採用試験を受けているよ。」
「松岡さんの地元って、福井ですか? 東京の教員採用試験じゃダメなんですかね?」
「芽衣が高校時代に好きだった先輩が、母校で先生をしてるらしくってね、それで、毎年地元の教員採用試験を受けてるの。高校の先輩なんか、もうとっくに彼女がいるかも、結婚してるかもしれないのにさ、諦めが悪いのよ、あの子。たしか、サッカー部の先輩って言ってたかな。それより津村、いきなり主任になるなんてすごいじゃない。来週の人事で発表になるって聞いたよ。楽器の事も詳しいし、君はセンスがいいからね。今度は、芽衣にいろいろと教えてやりなさいよ。」
 佐和は津村の背中をポンと叩いた。
 
「あの、お願いがあります。」
「何?」
「俺が昇進したら、佐和さんと松岡さんがよく行くお店で、昇進祝いしてくれませんか? 歓迎会の時から、ずっと言ってるのに。」
「えっ、あの店で? 昇進祝いならもっといい店紹介するから。」
「いえ、あの店がいいんです。あの店なら、松岡さんの気持ちを聞き出せるんじゃないかと思って。」
「確かにね、芽衣はあんまり、本当の事話さないしね。だけどさ、あの店での芽衣を見て、びっくりするんじゃない?」
「俺はどうしてもあの店がいいんです。」 
 佐和は少し考えてから、
「わかった。私も本当は、芽衣に辞められたら淋しくなるしさ、ここには残ってもらいたいの。津村の気持ちひとつにかかってるんだから、精一杯協力させてもらうからね。」

 佐和は津村に、仕事が終わってから相談しようと、近くのカフェで待ち合わせた。
「津村さ、芽衣の事、最初から好きだったでしょ。」
 先に来ていた佐和が話し始める。
「松岡さんは高校ではマドンナだったんですよ。俺は高校1年の夏に福井に転校してきて、3年の松岡さんと同じ吹奏楽部に入ったんです。フルート吹いてる松岡さんが本当にきれいで、俺は一目惚れしたんですよ。グランドで練習をしてる運動部の連中も、みんな松岡さんに見惚れていましたけど、松岡さんは本当に親しい人にしか話さないって言うか、フルートしか頭にない人だって思ってました。普通には手の届かない人なんです。」
「芽衣は、それに気付いてないでしょ。」
「そうだと思います。けっこう鈍感な人です。」
「アハハ、高校の時からそうだったのね。で、津村は芽衣を追って、この会社に就職したの?」
「そうです。東京の大学に行ったと聞いて、自分も東京の別の大学に進学しました。どこかで会えたら、今度こそ松岡さんに告白するつもりでした。偶然、この会社に松岡さんが入って行くのを見掛けて、俺もここを受けました。やっと見つけた松岡さんは、高校の時に見ていた松岡さんより、なんとなく疲れているようで、もうフルートの事なんて忘れているようでしたけど。」
「それでも芽衣が好きなの?」
「俺は今の松岡さんの方が好きなんです。こうしてやっと会えたのに、このまま地元に帰ってしまわれたら困るんです。こっちは7年も追いかけてるんですよ。」
「わかったよ。津村も、芽衣も、高校の時のまんまなんだよね。何を必死で、追いかけてるのか知らないけど、もうそろそろ、夢から覚めてもいいんじゃない? お互いの嫌な所も見せあってさ。津村には、芽衣がお気に入りの店を特別に教えてあげるから、そこでちゃんと芽衣を捕まえなさいよ。」
「ありがとうございます!」
「うまくいったら、私の名前でボトル入れておいてよね。」 
 佐和はそう言って、来週の金曜に決行しようと津村に言った。

 教員採用試験を終えた芽衣は、試験会場の近くにある、グランドが見える道路を歩いていた。
 野球部、陸上部、サッカー部が練習をしている。
 あの頃と同じ光景に、芽衣はいるはずのない彼を探した。
 ゆっくり歩きながら帰る道は、海の匂いがする。
 いつまで、一度も話した事もない廣岡の事を思っているのか、芽衣は自分に飽きれていた。
 
 高校の頃、何度も彼に話しかけようとチャンスを狙ったが、人気者の彼にはキレイな彼女がいたし、彼の周りでは、いつもたくさん人達が楽しそうに話しをしていた。それでも、彼の笑顔を見る事で、芽衣の心は満たされ、彼が卒業した後は、行き場のなくなった気持ちを、フルートの練習にぶつけるようになった。
 
 芽衣が出勤した火曜日の朝、津村の昇進が決定した。
 芽衣はおめでとう、と津村に伝えた。
「これからは、私が教えてもらう事になるね。」 
 芽衣がそう言うと、なんでも相談してください、と津村が芽衣に胸を張った。
「昇進祝いしてくれますか?」
 津村が言った。
「津村くんなら、みんなが放っておかないって。ほら、来たよ。」
 女の子達に囲まれた津村から離れるように、芽衣は倉庫に向かった。
 芽衣が席に戻ると、
「佐和さんと、松岡さんでお祝いしてくれませんか?」
 津村は諦めなかった。真っすぐな津村の視線からそらすように、
「佐和さんに聞いておくから。」
 芽衣は津村に伝えた。

 昼休み、芽衣は佐和に相談した。佐和は、津村の思いをわかってあげなよと言ったが、芽衣は津村とは仕事の仲間以上の気持ちはないと言った。
「昇進祝いだからさ、津村が主役でしょ。芽衣も今まで彼を育ててきたんだし、彼の希望通り、3人で飲みに行こうよ。」
 佐和がそう言うと、
「そうだけど。でも、あの店だけは、絶対秘密だよ。酔った勢いで津村くんを連れて行かないでね!」 
 芽衣は言った。
 佐和はわかってるからと、笑っていたが、高校の時の初恋を追いかけてるあんた達は本当にどうかしてるよ、ポツリと言った。

 津村の昇進祝いの日、芽衣は急な楽器の修理が入り、夕方まで帰って来なかった。
 明後日の演奏会の日まで間に合わせたいという、客の願いを職人さんにお願いし、なんとか難しい修理を引き受けてくれた。
 本当なら断わるけど、あんたのたっての頼みならさ、そう言って引き受けてくれた職人さんは、芽衣と同じ福井の出身だった。

「たまには、帰ってるのかい?」
「この前、少し帰りました。」
「小さい頃は、何もない退屈な町だと思ったけど、海があるって、やっぱり特別なんだよな。俺はたまに、海が夢に出てくるのよ。こうして、海に行かなくても、向こうからちゃんとやってきてくれるんだよな。松岡さんも、そのうち海がちゃんと会いに来てくれるようになるから。」
 職人さんは芽衣にそう言った。

 会社から退社すると同時に見た携帯には、佐和からの着信が何度もあった。時計は21時を回っていた。
「ごめん、今、会社を出た所。」
「もう遅いからいつもの店にすぐ来れる?」
「わかった。すぐに行くから。津村くんには、悪い事しちゃったね。」
「仕方ないよ、仕事なんだし。それよりお腹空いたでしょ? ママに言って、なんか作ってもらうから。」
 佐和がそう言うと、芽衣のお腹がグーッとなった。
 店に入ると、ママがこっちと呼ぶと、そこにはパスタが用意されていた。
「それ食べてから、飲むこと。」
 ママが言う。
「佐和さんは?」
 芽衣がママに聞くと、
「佐和ちゃんは彼と帰ったよ。この人が代わりに話しをするそうよ。芽衣ちゃんも、ちゃんといい人がいるじゃない。」  
 そう言うママに、津村はお酒を勧めている。
「早く食べなよ。お腹空いてるでしょ。」
 と津村が言う。芽衣は、佐和にまんまとハメられたと思ったが、お腹が空いて、用意されたパスタを食べ始めると、美味しいとママを見つめた。
「津村くんは食べたの?」 
「俺はさっき、食べました。」
 津村は芽衣とママの顔を交互に見て、にっこり笑った。
「津村くんっていうの? 昇進祝いだっていうから、芽衣ちゃんよりだいぶ上だと思ってたんだけど、敬語使うって事は、もしかして芽衣ちゃんよりも年下なの?
 芽衣ちゃんはね、とっても難しい子よ。君にはその覚悟はある?」
 ママはそう言うと、別のお客さんから呼ばれて、ゆっくりしていって、とカウンターを離れた。
「津村くん、昇進おめでとう。今日はごめんね。」
 ビールを持った芽衣は、津村にカンパイをねだる。津村がカンパイをすると、いつもの常連達が一斉にカンパイ、と芽衣の所にくる。
 呆気にとられている津村を前に、常連達は、芽衣ちゃんが彼氏を連れてきた記念にと、カラオケが始まる。
「遅れたのは仕事なんですから、仕方ないですよ。それより、ここのお店って、いつから来てるんですか?」
 カラオケに拍子をしながら、芽衣は、ん? と聞き返す。
「いつから、ここにきてるんですか?」
「私が入社したの時に佐和さん連れて来てもらって、時々二人でここにきてるの。佐和さんの彼と三人で飲む事もあるよ。」
 カラオケが終わりまた始まると、馴染みのお客さんが、芽衣ちゃーん久しぶり! とマイクを使って声を掛ける。
「これって本当は、佐和さんと、二人で仕組んだ事でしょう?」
 芽衣が津村に聞く。
「そうですよ。どうしても松岡さんと話しがしたくて。この店に連れて行ってくださいってお願いしました。今日は焼酎のボトルを入れたんで、たくさん飲んでください。」
 津村はそう言って、芽衣にお酒を勧める。
 芽衣はボトルに、津村くん昇進おめでとうと書いた。
「ここの人達が歌っている曲って、なんだか心に染みてくるの。」
 芽衣はそう言うと、常連達とカラオケを歌い始める。自分には見せた事のない芽衣の楽しそうな笑顔。津村はそんな花の様な芽衣に、あらためて恋をした。

 すっかり酔った芽衣と津村はタクシーに乗ったが、芽衣はタクシーに乗るなり寝てしまった。津村は運転手に自分の家の住所を伝え、フラフラになった芽衣を支えて、自分の部屋までやってきた。
 ベッドに芽衣を連れて行くと、上着を脱がせ、背中を丸めて横になった芽衣を見つめた。
 ずっと好きだった芽衣が、こんなに近くにいる事で、一気に酔いが冷め、眠っている芽衣の横に体を並べた。
 綿あめの様に消えてしまいそうな芽衣に、津村は静かにキスをしようとした。
 フルートを吹いている芽衣も好きだったけれど、こうしている芽衣も好きだ。 

 顔を近づけた時、
 芽依の目が突然パッと開く。
 芽衣は津村を見た。気持ちが抑えられなくなった津村は、芽衣のワイシャツのボタンに手をかけた。
 芽衣は津村の手を掴んだ。
「ずっと好きだったんです。」
 津村は、再びボタンを外そうとした。
 芽衣は首をふる。
「松岡さん、ここまできて、それはないですよ。」
 津村は芽衣を強く抱きしめる。
 このまま自分の中で芽衣が溶けてしまってもかまわない、津村はそう思った。
 
「津村くん、お水もらっていい?」
 芽衣は起き上がって台所にむかう。
 津村がコップに水をついで渡すと、ありがとう、津村にお礼を言って、一気に水を飲んだ。
「津村くん、私、高校からフルートを始めたんだけど、別にフルートがやりたかったわけじゃなくて、大好きな人がグランドを走る様子を見ていたくって、そんな不純な理由でフルートを始めたの。その彼の事が今でもずっと好きなの。今日は本当にごめん。帰るね。」
 芽衣はそういうと、上着を着た。
「松岡さん、昔の彼の事は無理に忘れててほしいとは言わないから。」
 津村は芽衣の腕を掴んだ。
「ごめんなさい。」
 芽衣はそう言って部屋を出ていった。

 次の日、津村と目を合わせない芽衣。
 佐和は、
「何があったの?」
 そう聞いた。
「……。」
「芽衣、もうバレてるよ。」
「津村くんにひどい事した。」
「そうだよ。そのまま、帰ったんだって。」
「……。」
「津村、シュンってなってるよ。子犬みたいだった。」
「昨日、連絡がきたの。教員採用試験の合格。それに来月から、産休代替えで、福井の高校に行くことになって。やっと、教師になれるって嬉しいはずなのに、なんだろうね。」
「津村には言ったの?」
「言ってない。」
「ちゃんと言いなよ。これから、憧れの先輩に会えるかもしれないんでしょう?津村には、その気がないこと伝えないと。」
「そうだね。」
「芽衣、本当は津村が好きなの?」
 芽衣は首を振った。
「津村は7年もずっと、芽衣の事が好きだったみたいなのに。」
「何人も彼女がいたって、そう聞いたよ。」
「そりゃ、いるさ。あんなにかわいい顔してるんだもの。」
「だったら、高校生の時の事なんか、忘れてくれたら良かったのに。」
「芽衣が憧れてる先輩だって、もう忘れてくれって思っているかもしれないでしょう。」
「そっか。」
「迷うのはわかるけど、優柔不断は一番卑怯なんだよ。気がない事をきちんというか、好きな気持ちを伝えるか。っていうか、芽衣が思ってるその先輩って、本当は芽衣が見てたのに知ってて、楽しんでたのかもよ。」
「そんなぁ。」
「芽衣、本当に辞めるの?考え直したら?残念だよ。」
「ねえ、佐和さん。福井に帰る前にママに会わせて。ちゃんと話しがしたいの。」
「あの店に行ったら、誰よりも先に酔うくせに。それより津村が先だよ。あの子は子犬のように、ずっと芽衣の事を待ってるから。」

 会議室から課長と出てきた芽衣を、津村は待っていた。

「松岡さん、今日、少し話せませんか?」
「津村くん、私も話したい事があるから、少し時間ある?」
「いいですよ。じゃあ、店は俺が決めておきます。」
「店なんていいよ。夕方にでも、少し時間がほしい。」
「仕事の事なら、今でもいいです。俺はそうじゃなくて、その…。」
「何?」
「鈍感ですね、昨日の続きです。」
 芽衣はチラッと周りを見ると、津村を死角になる場所まで連れて行った。

「昨日はごめんなさい。もう、大嫌いになってくれてもいいから。」
 芽衣はそう言った。
「できませんよ。」 
 津村は笑った。
「あんなに酔っぱらって、ごめんなさい。もう、幻滅して、最悪な人だって思い出にしてくれてたほうがいいよ。」
「俺の話しは、芽衣さんの酔っぱらいの事じゃないです。俺の家から突然、帰った事を怒っているんですよ。」
「だって、一緒に寝るわけにいかないでしょう。」
 真剣な芽衣の事を、津村は少しからかった。
「芽衣さん、男の人と一緒に寝るのって、もしかして初めてでしたか?」
 芽衣は真っ赤になって、うつむいた。
「芽衣さん?」
「何。」
 恥ずかしくて、津村は見ることができない。
「今日はピアノがある所に行きましょうよ。」
「えっ、」
「ちゃんと話しをしましょうよ。」
 芽衣が津村の方を見た。
「津村くん、ピアノ弾けるんだったよね。」 
「弾けますよ。芽衣さんも弾けるでしょう?」
「私は少しだけ。」
「さっき、課長と何を話してたんですか?」
「少し、仕事の話しをしてもいい?」
「いいですよ。16時には打ち合わせがあるから、急いでください。」
 津村は芽衣の背中を押した。
 温かい津村の手に、芽衣は少し驚いた。
「どうかしました?」
「ううん。別に。」

 芽衣は津村が学年時代バイトしていたというバーに来ていた。
 
「周平、この人って、もしかして同じ吹奏楽部の?」
「そうだよ。」
 津村がそう言うと、マスターはなるほど、と芽衣を見て頷いた。
「マスター、今日さ、ゆっくり飲みたいから、話しも酒もあんまりくどくしないでよ。」
 津村がそう言うと、
「わかった、わかった。周平、ピアノ、弾いてやれよ。」
「そうだね。芽衣さん、こっち。」
 津村は、芽衣の手を取りピアノに向かおうとした。
「ピアノ、弾けるでしょ? 芽衣さんは右手を弾いて。俺が左手を弾くから。」
 芽衣は立ち上がった津村の手を掴んだ。

「津村くん、先に私から話しがあるの。」
 津村はもう一度、席に座った。
「どんな話し?」
「さっき、仕事の話しをしたじゃない?私、今月で辞めるの。」
「なんとなく、予感はしてました。」
「教員採用試験に通ってね。4月から正式採用になるんだけど、来月から産休に入る先生がいるみたいで、教育委員会から代替要員で呼ばれたの。会社に、今月末で辞めるって話しをした。」
「やっと、教師になれるんですね。おめでとうございます。正直、俺はめちゃめちゃ淋しいけど。」 

 津村は立ち上がると、一人でピアノの前に行った。数人の客が、弾いてほしい曲をリクエストしている。

「津村くん、人気なんですね。」
 芽衣はマスターにそう言った。
「いいやつですよ。周平はいろんなものをたくさん捨ててきたんですから、幸せにしてやってくださいよ。」
 マスターはそう言った。
 芽衣がうつむくと、マスターが次のお酒を出した。
「これ、どうぞ。海みたいでしょ?」
「本当だ。海みたいです。」
 芽衣はひと口飲むと、酸っぱい、とマスターに言った。
「せっかく会えたのに、また周平の前からいなくなるんですか?」
「……。」
「仕方ないですよね。あなたの生き方なんですから。」
「津村くんと仕事してて、本当に楽しかったです。」
「それならこっちで、先生になれば良かったのに。」
「福井にはね、いろんな思い出があるんです。忘れられない人も。」
「周平もあなたも、大切なものはそこにあるのに、なんで遠くばかりを見てしまうんだろうな。」

 ピアノを弾き終えた津村が芽衣の隣りに座る。
「あのスナック、本当に好きなんですね。昨日の芽衣さん、別人でしたもん。」
「それは、酔っぱらいだから?」
「楽しそうで、あんな風に笑うんだなって、初めて知りました。どうしてあの人達とは近いのに、俺とはこんなに距離があるんですか?」
 津村は嬉しいそうに芽衣を見ていた。 
「周平、そう見せつけなくても、わかったから。今日は早く帰れよ。お前、少し酔ってるぞ。」
 マスターは津村にこれを飲んだら帰れと言って、水を出す。
 一気に飲み干した津村に、マスターはまた早く帰れと、玄関まで送った。

 玄関にはタクシーが待っていて、タクシーに乗るなり、津村は眠ってしまった。

 芽衣は津村を何度も起したが、とうとう自宅に着いたので、酔っている津村を支えて、なんとか自分の部屋まで、連れてきた。
 もたれ掛かる津村をベッドに寝かせ、
「津村くん?」
 津村の頬をつねった。 

 寝ている津村に布団を掛け、机に向かい作業をしているうちに、芽衣はそのまま眠ってしまった。
  
 2時13分。
 津村は目が覚め、机に伏せて眠る芽衣を起こした。
 芽衣を抱きかかえベッドに入る。

「目をつぶって。」 
 そう言った津村は芽衣を抱きしめ、キスしようとした。
 芽衣は目をつぶらなかった。
「わざと寝てたの?」
 津村は笑って、芽衣の隣りに体を並べると、そういう時は名前で呼んでくださいと言った。
「津村くん、朝になったら、そのまま帰って。」
「年下の俺は頼りないですか?」
「そうじゃないの。」
「芽衣さんが追いかけてるその人に彼女がいたら、どうするんですか?」
「そうだね。その時は、一人でいるかな。」
「そんなに想われて、その人は幸せですね。」 
「ごめんなさい。」
「もう少し、一緒にいてもいいですか。芽衣のさんが眠ったら帰りますから。」 
 津村はそう言って、芽衣の隣りにぴったりと体をつけた。
「私が眠らなかったら、ずっとここにいるの?」
「います。」
「もう、本当に大嫌いになってくれたほうがいい。」
 芽衣が背中を向けようとする。
「キスしていいですか?」
「ダメ。」
「わかってます。それなら朝まで、こんなに感じですよ。」
 津村は芽衣を抱きしめた。

  芽衣は仕方なく目を閉じた。
 津村にここから出て言ってもらうには、寝た振りでもして切り抜けるか。
 芽衣は津村の腕の中で眠ったふりをした。

 津村が自分を包む空気が、とても温かい。
 本当に眠りに落ちていきそうになった時、津村の唇が芽衣の口にに重なる。
 すぐに唇を離した津村は、そのまま部屋を出ていった。

 芽衣は目を開ける。

 はぁ、やられた。 
 そりゃ、こんなに近くで寝てたら、事故だって起きる。
 津村の作戦勝ちなのか。

 福井に行くまでの間、あい変わらず津村は朝早く来て芽衣を待っていた。
「毎日、ここに泊まってるの?昨日も遅かったのに、ずいぶん早く来るんだね。」
「芽衣さんだって、ずいぶん早く来ますね。」
「私は人より仕事が遅いから、これくらいにこないと。」
「高校生の時も、いつも早く音楽室に来てましたよね。」
「昔の事、よく覚えてるね。」
「芽衣さんが見てたのは、廣岡さんって言う人でしょう?」
「どうして知ってるの?」
「向こうの友達が言ってました。その人は芽衣さんの事、気づいてたみたいですよ。」
 芽衣は両手で顔を覆った。
「やっぱり、迷惑だっただろうね。」  
「会って聞けばいいでしょう?ずっと見てましたけど、覚えてますか?って。」
「津村くん、とっても意地悪だね。」
「迷惑だったって言われたら、すぐに電話くださいね。」

 第3章

 芽衣が赴任した高校は、兄と姉が通っていた進学校だった。
 音楽の授業は息抜きをしている様な生徒が多く、何を聞いても反応がなかった。授業を妨げる生徒はいなかったが、あからさまに参考書を拡げて、他の勉強をしている生徒もいる。
 芽衣は注意することなく、淡々と授業を進めていた。
 自分の高校時代は、もっといろんな事に笑ったり、怒ったりしてたのに。
 兄や姉も、こんな高校生活だったのかな。
 一人で音楽室にいると、たまに空き時間に教師がやってきては、東京の生活や彼氏について、よく話しを聞かれたが、芽衣はいつもはぐらかした。
 
 放課後、音楽室から見えるグランドでは、あの頃のように運動部が練習をしていた。
 ここの教室からは、サッカー部の練習はずいぶん遠い。
 人が少ないグランドは、とても淋しそうに感じる。

 芽衣は、吹奏楽部の副顧問になった。
 吹奏楽部の顧問の五十嵐は、社会を教えている教師だったが、自身も私設の吹奏楽団に入るくらい音楽が好きだった。
 結果を望む橋田と違い、音楽の楽しさを丁寧に教えていた。 
 
 芽衣は管楽器の指導を担当していたが、単調な芽衣の指導に、本当に音大を出ているのかと敵意を向いてきた女子生徒がいた。
 彼女が自分に向けた敵意よりも、生徒達が楽器を乱暴扱う事が許せなかった。
「小さな傷がつくだけでも、少しずつ音が悪くなるよ。」
「そんな細かい事を言われても、どうせ自分の物じゃないし。」
 
 ある日、倉庫に眠るフルートを取り出し、久しぶりにグランドに向かいフルートを演奏した。
 手入れのされていないフルートは、あまりキレイな音はならなかったので、家に持ち帰り、丁寧にメンテナンスをした。
 
 津村からの電話がなった。
 こっちに来てからも、津村は時々連絡をくれた。

「何してたの?」
「学校のフルート、きれいにしてたところ。」
「吹奏楽部、担当になったって言ってたもんね。」
「私はお手伝いみたいなもんだから。ここは進学校だから、部活動にはあまり熱心じゃないの。だから、楽器も可哀想よ。津村くんはどうしてる? 佐和さんは?」
「俺は、開発より営業中心になったかな。佐和さんは弦楽器の方にいたんだけど、今は管楽器もやってるよ。芽衣のせいで、急に忙しくなったって、怒ってるから。」
「会いたいな、佐和さんに。」
「憧れの人には、会えたの?」
「ううん。」
「実家から通ってるんでしょ?」
「今はね。4月からは、中学校の採用になったから、実家から遠くて、教員住宅に入る事になったの。」
「そう。中学なら給食あって良かったじゃん。」
「お昼の事、心配してくれたの?」
「おかわりの列に一緒に並ぶんじゃない?」
 津村と笑って話しをしていた芽衣は、
「津村くん。」
 急に声を落とした。
「何?」
「こうして連絡をくれると嬉しくなって、ごめんね。」
「なんで謝るの?」
「こっちではね、こんな事あったなとか、こんな時困ったな、とかあんまり話す事なくってね。音楽室って、けっこう孤独だよ。会社にいた時、津村くんと話すのが楽しかった。」
「俺は毎日、寝不足でしたよ。」
「やっぱり、無理してたんでしょう?」
「そうですよ。芽衣さんに会うのに、無理してました。」
「明日、早いの?帰りも遅いんでしょう?疲れてるのにごめんなさい。」
「また電話するから、たくさん話そうよ。」
「ありがとう、津村くん。もう寝るね。おやすみ。」
「おやすみ。」

 優しい津村の声と、磨いていたフルートの光りが芽衣を包む。

 次の日。
 きれいになったフルートを持って芽衣は音楽室にいた。グランドに向かって吹いていると、例の女子生徒が音楽室に入ってきた。
「先生、音楽なんてやって、何になるんですか? プロになるならまだしも、音大出て、こんな田舎の学校で教えるくらいしかできないなら、そうやって弾けたってなんの役にも立たないじゃないですか。」
「そうね。私は勉強してこなかったけど、ちゃんと勉強して、将来の事を考えたら、別の道もあったかもしれないね。早瀬さんは、吹奏楽やってても、楽しくないの?」
「別に、楽しいとか、そんな感情なんかない。中学の時、内申点上げるために、親が勧めて仕方なく吹奏楽に入ったけど、家に帰っても、勉強しろって言われるばっかりだし、今はただの時間潰しにやってるだけ。」
「それなら時間潰しにいつでもここへきなよ。」
「変な先生。フルートはさすがだって思ったけど。」
「キレイに磨くとね、いい音がなるよ。楽器はみんなの孤独なの。楽器に触れる人も孤独だし。」
「みんなで演奏したら、孤独じゃないじゃん。」
「孤独だよ。誰かに渡す事ができないんだから。楽器はね、手にした人にしか、頼る事ができないよ。本当は別の音を出してほしくても、誰にもそれを伝える事ができない。」

 職員室に戻ると、英語担当の年配の先生から、
「松岡先生、明日の夕方空いてますか?」
 そう言われた。
「空いてますけど。」
「実はね、管内の先生達でやってる組合の集まりがあるんだけど、みんな忙しくてね。松岡先生、植村先生と一緒に行ってくれない?」
「いいですけど、私、組合には入ってませんよ。」
「いいの、いいの。ハイハイって話しを聞いてきて。その後に親睦会もあるみたいだし、せっかくだから、顔を繋げてきたらいい。」 

 芽衣は家庭科担当の植村美佳と、組合の集まりに出掛けた。植村は芽衣にこう言った。
「松岡先生、5教科以外の私達って、肩身狭く感じない?」
「やっぱり、受験がメインになりますからね。」
「私の家庭科は比較的女子が多いからそうでもないけど、音楽の時は、堂々と、受験勉強してる男子も多いでしょ。産休に入る先生が言ってましたもん。」
「そうですね。貴重な時間に、歌なんて歌いたくないのが本音でしょうけど、単位は落とすわけにはいかないですし。」
「松岡先生、寛大ね。あっ、そうそう。あの席に座ってる先生、東校の廣岡先生。イケメンでしょう。確か松岡先生、東校だったよね。東校のサッカー部、あの先生のお陰で強くなったんだよ廣岡先生に挨拶にいきましょう。」

 芽衣は、植村と一緒に廣岡に挨拶に行く。
 遠くてわからなかったけど、彼は紛れもなく、芽衣がずっと追いかけていたサッカー部の先輩だった。
 
「廣岡先生、今度、新しく入った松岡先生。彼女、東校出身だっていうけど、覚えてます?」
 芽衣は、真っすぐに廣岡の顔を見る事ができず、植村の後ろで挨拶をした。

「あっ、吹奏楽部の松岡さん。今、江陵で先生やってたの? 植村先生、松岡さんは俺達のマドンナだったんですよ。フルート吹いてて、俺等、グランドからいつも練習を見てたんです。松岡さんに見惚れて、転んだり、ボールぶつかったり、そりゃ大変でしたよ。」
「あら、廣岡先生、松岡先生の事、知ってたの?」

 親睦会が始まり、芽衣の隣りに廣岡が座った。廣岡は他校の先生からも、こちらに座ってほしいと呼ばれていたが、芽衣の隣りを離れなかった。ずっと憧れてた初恋の相手の隣りに座り、津村からのラインが来る度に、芽衣はなぜか胸が痛んだ。

「松岡さん、いつからこっちに?」
「先月です。産休代替えで。」
「いつまでの期限?」
「4月からは、中学に移ります。」
「そうなの。ところで、今、彼氏はいるの?」

 芽衣は、廣岡と目を合わせる事ができない。
「松岡さん、いつも目を合わせてくれなくて。玄関で会っても、俺の事避けてるのかなぁって思ってたけど。今でも、ぜんぜん、目を合わせくれないから、相当、俺、嫌われてるのかな。」
「そんな、そんなの事ないです。サッカーしてるの、いつも見てました。」
「なんだ、そうだったの? それを知ってたら、もっと早く話しができたのに。」

 芽衣が廣岡を見ると、あの頃と同じように、憧れていたままの彼がいた。
 今でもグランドを駆け抜けていく風のような廣岡の空気は、芽衣の止まっていた時間を動かしていく。

 津村からの電話が来た。
「松岡さんの彼氏から?」
「前の職場の人です。」
「出てあげたら?」
「大丈夫です。」

 芽衣はごめんなさいと言って、席を離れ外に出た。

 あとでラインする。

 津村に返信していると、
 外にいる芽衣を追いかけてきた廣岡は、芽衣の手を掴む。

「二人で抜けようよ。」
 そう言って歩き出した。芽衣は断ったが
「大丈夫、そろそろ二次会にみんな流れるから。」
 廣岡はどんどん歩いて行く。

 廣岡と芽衣は、賑やかなバーに入った。
 芽衣の隣りにぴったりと座った廣岡は、芽衣の肩に手を回す。
「ここね、東高出身のみんなが、よく集まる場所だよ。」

 廣岡の周りに人が集まってくる。
「この人覚えてる? 吹奏楽やってた、あの子。」
 そう言うとさらに人が集まり、芽衣は質問責めにあった。
「今、江陵で音楽の先生してるんだよ。」
 廣岡がそう言って紹介する。
 一人の男性が、
「いつもね、フルートのあの子を誰が落とすって、よく話しをしてたんですよ。廣岡は彼女がいたのに、いつも俺が落とすって言っては、別の女の子から告白されて、付き合っても結局長続きした事ないですから。」
 そう言った。
「松岡さん、高校の時、俺がサッカーの練習をしてるのをよく見てたでしょう?」
 廣岡はそう言った。
「早く告白してこないかなって思ってたよ。」

「それは、音楽室からたまたま見えたからじゃないの?」
 近くの人が廣岡にそう言った。
「フルートが上手な子が入って楽しみだって、橋田軍曹が言ってたから、サッカーなんか興味あるわけないじゃん。ね?」
 その人は芽衣にそう言った。
「廣岡、見てるの知ってたなら、ちゃんと告白してやれば良かったのに。」
「俺、自分から言うの嫌な性格だし。」
 廣岡は芽衣の方を向いた。
「それにさ、松岡さんって話し掛けにくかったよ。近くを通ってもすぐに消えるしさ。」
 芽衣は廣岡が近くにいるのが苦しくなり下を向いた。
「そういえば、野球部の松川が告白して振られたんだよな。」
「そんなの、知りません。」
「待ち伏せしてたのに、ごめんなさいって走って帰ったって聞いたよ。松川から、手紙をもらわなかった?」
「もらってないです。」
「あいつは手紙も受け取ってもらえなかったのか。松岡さんに告白するって、どんな神経してんだよ。」
 廣岡が笑うと、周りも笑った。
 高校の時の自分なんか、今すぐに消してしまいたい。
 自分は、廣岡に気づかれないように想いを寄せていたのに、私がサッカー部の練習をいつも見ていたのを皆は知っていたのか。
 廣岡を見ると、恥ずかしくて隠れていた事も、皆、知っていたのか。

 その場にいるのが辛くなった芽衣に
「廣岡、彼女、困ってるぞ。」
 離れた所に座る一人の男性がそう言った。
「上田、お前もこっちで、飲めよ。あっ、あいつ、キャプテンの上田。今、小学生のサッカーチームを作ってる。」
 
 上田は芽衣の向かいに座ると、芽衣のグラスを新しいものに取りかえた。
「松岡さん、週末、サッカー見に来ない? 子供達、一生懸命走ってるからさ。先生なんでしょ? 小さい子供達って、本当に純粋に強くなりたいって思ってるから、すごく真剣だよ。」
 
 上田は、芽衣に持ってきたお酒を勧めた。芽衣はお礼を言うと、淡いピンク色のお酒を見て、これは? と聞いた。
「飲んでみて。彼女が作ってくれたから。」
 芽衣が上田の指を指す女性を見ると、カウンターには同級生のあさ美が、グラスを拭いていた。

「あさ美!!」
 あさ美は驚いた芽衣に手を振ると、こっちおいでと、カウンターを指さした。
 芽衣は、席を立ち、カウンターにグラスを持って向かう。その後を上田と、廣岡が追いかけてくる。

「久しぶりだね。あさ美。ここのお店は、あさ美がやってるの?」
「そう、昼間は美容師の仕事してて、夜はここ。私、高校卒業して、専門学校行って美容師の資格取ってから、大阪で働いてたんだけど、男に逃げられてさ。未婚で4歳の息子がいるシングルだった。芽衣が帰ってきてるって噂は、聞いていたけど、連絡もできなくてごめんね。」
「あさ美の息子さん、見せて。」
 芽衣はあさ美のスマホを見て
「あさ美にそっくり、今度遊ぼうよ。」
 そう言った。

 上田が自分のスマホを出して、あさ美とあさ美の息子と上田の三人並んだ写真を見せる。
「えっ、あさ美! そうなの? おめでとう。」
 上田と、あさ美は目を合わせて微笑んでいる。
「彼がね、うちの息子が公園でサッカーボールで遊んでいた時に、声を掛けてくれたのがきっかけなの。今は、彼の実家に息子と一緒に住んでるの。ここは、彼のおじさんがやってた店で、いつの間にか元東校のたまり場になってしまったの。」
「あさ美のお母さん達は元気なの?」
「元気よ。シングル妊婦で帰ってきた時は、めちゃめちゃ怒られたけど、今は孫に夢中だよ。芽衣と冬子で、よく家お互いの家に泊まりに行ったよね。ダメな末っ子同士だもね。3人であんなに仲良しだったのに、だんだん芽衣と連絡が取れなくなってさ。冬子も心配してたんだよ。仕事大変だったの?」
「大変じゃないよ。私が遅いだけ。」
「大きな楽器メーカーにいたんでしょ? 芽衣が音大行ったのもびっくりしたけど、大きな会社に入ったのもびっくりしたんだよ。」
「大きいって言っても、私の仕事は修理の方だったから。」
「芽衣、ずっと、廣岡くんの事、好きだったじゃない。憧れの廣岡くんがこんなに近くにいるんだもの、素直になったら? わざわざ東京からこっちに来たのも、本当は廣岡くんの事、まだ忘れられなかったからでしょう?」
 芽衣は、お酒に口をつけた。
「酸っぱいね、これ。」
「素直になりなよ!」
「私とのダブルスを捨てて、追いかけた廣岡くんなんだから。」
「ダブルスって?」
 廣岡があさ美に聞いた。
「中学の時、バドミントンやってたんですよ。」
「へぇー、ずっと吹奏楽部じゃなかったんだ。」
「芽衣、廣岡さんを見るために、吹奏楽部に入ったんですよ。」
「そうだったの?」

「あさ美、明日早いからまたゆっくり話しに来るね。」
 芽衣はそう言って、今日は楽しかったと席を立った。
「芽衣、またおいで。」
「あさ美、ありがとう。上田さん、廣岡さん、それじゃあ。」

 店を出た芽衣が歩いていると、廣岡が追いかけてきた。
「送っていくよ。」
「いいです、いいです。歩いて帰れるから。」
「俺もここから近いからさ。松岡さん、東京楽しかった?」
 廣岡は芽衣の横を一緒に歩き始める。
「うーん。楽しく思ったのは、少し前かな。それまでは、ずっと福井に戻って来たかった。」
「俺も、そう。こう見えて、サッカーのクラブチームから誘いもあったんだよ。でも、全部断って、福井で教師になったんだ。」
「東高で、サッカー教えてるって聞いたけど。」
「そうだよ。上田が教えてる小学生とは違って、高校生はまた違う魅力がある。サッカーってどうしても、地元じゃそんなにメジャーじゃないっていうか、企業の人達は、野球人が多いってのもあると思うけど、そんな中でサッカーを本気でやってる子って、すごくおもしろいやつばっかりなんだよ。最近、さっきの連中が、サッカー部の事を拡げてくれて、私学の強豪校みたいに全国から金を掛けて生徒を集めなくても、こっちでもいい練習ができるようになったよ。」

 サッカーの事を夢中で話す廣岡は、高校の時と変わらずキラキラしている。
「廣岡さん、きっと、いい先生なんでしょうね。」
「松岡さん、あれだけ一生懸命フルートやってたのに、好きじゃなかったって、橋田軍曹は泣くよ。」
「橋田先生、そう呼ばれてるの? すごく厳しくて、すっごい怒られた。入部もなかなか認めてくれなくて。」
 芽衣は精一杯笑って話しをしていた。
 
「やっと笑ってくれた。」
 廣岡は芽衣の肩を抱く。そのまま芽衣の顔を上げ、キスをした。廣岡は芽衣の頭を撫でると、
「付き合ってもいいよ、俺の彼女になろうか。」
 そう言った。
 芽衣は首を振る。
「大人になると、なんだか困るね。」
 芽衣はそう言って笑った。
 夜の風に溶けていきそうな芽衣を、廣岡はもう一度抱きしめた。
 
 次の日。
 音楽室でピアノを弾いていた芽衣の所へ、早瀬がきた。
「そうやって、好きなようにピアノが弾けたら楽しいだろうね。」
「何か弾きたい曲とかあるの?」
 早瀬は携帯を見せ、芽衣に曲聞かせた。
「この曲なんだけど、先生知ってる?」
「わからないけど、いい曲ね。」
 芽衣はピアノで即興演奏してみる。
「こんな感じだよね。」
「先生、楽譜って書ける?」
「書けるけど、私の書くやつはあまりキレイにならないかも。そうだ、私の知り合いに頼んでみるね。早瀬さん、その曲のタイトル教えて。」
 芽衣は早瀬ともう一度、その曲を聞いた。

 昼休み。
 芽衣は佐和に電話をする。
「佐和さん。」
「芽衣、久しぶり。」
「お願いがあるの?」
「何?」
「ピアノの楽譜を作ってほしいだけど。」
「いいよ。芽衣、たまにはこっちにおいでよ。」
「そうだね。行ってもいいかな。」
「おいで。うちに泊まっていけばいいよ。あの店でまた飲もうよ。」
 
 金曜日の夕方、芽衣は急いで駅に向かった。改札を通ろうとして、誰が芽衣の手を掴んだ。
「廣岡さん……。」
 芽衣は驚いて廣岡を見た。
 次の人が後を邪魔にないように、芽衣は改札から離れる。
「行かない気になったの?」
 廣岡が言う。
「ううん。後ろの人のじゃまになるかと思って。」
 芽衣は廣岡にそう言うと、
「彼の所へに行くの?」
「ううん。友達の所に行くんです。」
 そう答えた。
「あの日の返事、まだもらってないんだけど。」
 
 廣岡は、芽衣のカバンに自分の連絡先が書いてある紙をいれた。 

 東京へ向かう新幹線の中で、芽衣は早瀬が教えてくれたあの曲を聞いていた。
 目を閉じると、高校の頃の思い出が蘇ってくる。
 
 東京駅では津村が待っていた。
「おつかれ様。」
 変わらない津村の笑顔に、芽衣は言葉が出なくなった。
「芽衣さんが来るから、駅に行けって佐和さんから言われて。」
 津村がそう言った。
「津村くん、少し、背伸びた?」
「何言ってんですか、そんな訳ないでしょ。今日はあのスナックには行きませんから。」
「どうして?」
「ピアノの楽譜を起こしたいんでしょう。」
「そう。」
「それなら、あのバーに行ってピアノを弾きます。」

 津村の運転する車から、窓に映るネオンを見て、雨降ったの? 芽衣は聞いた。
「少し前まで降ってたよ。」

 駐車場に着くと、芽衣は水たまりに映る自分の顔を覗き込んだ。
「何してるの?」
「東京の夜は明るいね。」
「そりゃそうだよ。たくさんの人が暮らしてるからね。」

 バーに入ると、津村はピアノの前に芽衣を座らせた。自分も隣りに座る。
「どんな曲?」
 芽衣は早瀬が聞かせた曲を周平に聞かせる。
「これ、ずいぶん昔の曲だよね。今の子がどうやってこの曲を知ったんだろうね。」
 津村は何度か曲を聞いて、ピアノを弾き始めた。
 真剣な津村を見ていると、マスターがこっちと芽衣をカウンターに呼んだ。

「はい、どうぞ。」
 マスターは芽衣に青いカクテルを出した。
「この前の?」
「そう。同じもの。どう、向こうは楽しい?」
「いろいろ、難しいです。」
 芽衣はグラスに口をつける。
「酸っぱい。」
 マスターは笑った。
「周平、あなたが来るって聞いて、嬉しそうに電話をしてきたよ。」
「……。」
 芽衣は笑ってごまかした。 
「津村くんのピアノは、いつも優しい音ですね。」
「ピアノの方が周平を好きだからね。」
「こんなに上手なのに、どうしてその道に進まなかったのかな。」
「周平が高校に入ってすぐ、ピアノの先生だった母親が病気をしたらしいんだ。周平が家でピアノを弾くと、母親が泣くみたいで、それからピアノは辞めたんだって。それでも、芽衣さんを近くで見るために吹奏楽部に入ろうとして、初めて触るトランペットだったけど、経験者だって嘘をついて入部したんらしいよ。」
「そうだったんだ。津村くんと私は、よく似てる。」
「そうかもね。」 
「マスターはピアノが弾けるの?」
「俺は弾けないよ。あれは妻のピアノ。15年前に病気で亡くなってね。」
「ごめんなさい、そんな事聞いて。」
「大丈夫だよ。妻はね、いつもここにいるんだよ。俺が会いに行かなくても、ここで俺に会いに来てくれる。」

「できたよ。」
 津村が芽衣を呼びに来た。
 ピアノの前に芽衣を座らせ、津村が曲を弾いていく。

「これってこんなに複雑な曲だったの?」
「楽譜が欲しいっていうのは、ピアノを何年くらいやってる人?」
「まだ、始めたばかり。」
「そっか、それならもう少し簡単な楽譜を作るよ。」
 津村は再びピアノを弾き始める。

 バーを出た2人。

 芽衣は佐和に電話しようと携帯を出すと、
「今日は俺の家に泊まってよ。佐和さんから何も聞いてない?」
「津村くんの家に行くわけには行かないよ。」
「佐和さんの彼、足を骨折したみたいだよ。」
「えっ、」
「だから、今日は俺に芽衣さんを迎えに行くようにって、連絡があった。」
「そっか。だけど、津村くんの家には行けない。近くの宿を探す。」
「芽衣さん、明日は何時に帰るの?」
「始発で帰るよ。6時。」
「じゃあ、それまで車の中で話しをしようよ。海が見える所に連れて行くよ。」
「津村くん、無理しなくてもいいよ。会社も忙しかったんでしょう?」
「そんな事、気にしなくてもいいから。」
 芽衣は少し考えていた。
「やっぱり、津村くんの家で休んでいい。」

 津村の家に着いた。

 津村がシャワーを浴びている間、芽衣は、津村の本棚にあったカクテルの作り方の本を読んでいた。
 浴室から出てきた津村は、本を読んでいる芽衣の肩が、とても小さくて消えてしまいそうで、背中から芽衣を抱いた。 
「何、津村くん。」 
「何も。」
 少しの間、音のない時間が流れる。

「ずっとここにいてくれたらいいのに。」
 津村は芽衣をまっすぐに見つめた。
「好きだった人には会えたの?」
「うん。」
 芽衣は小さくため息をついた。
「どうしたの、せっかく会えたんでしょう?」
「思い出って、手に負えなくなるね。」
「そう?」
「津村くんの中の私は、ずっと高校生のまま?」
「それはどうかな。」
「大人になれば、秘密もできるし、ずるさも覚える。」
「それはそれで、生きていく手段なんだから。」
「津村くんのピアノは、ずっと同じ音、あの日も今日も。」
「芽衣さんの好きな人は、あの頃と同じだった?違う人だった?」
「……。」
「津村くんが転校したのはなんでなの?高校に入って、すぐよね。」
「母親が難病になって、病院の近くに家族で引っ越す事になって。」
「津村くんのお母さん、ピアノの先生だったって。マスターが言ってた。」
「そう。俺にも姉ちゃんにもすっごく厳しかった。」
「お姉さんがいるんだ。」
「今、母さんと一緒にピアノ教室やってるよ。」
「お母さん、良くなったんだね。」
「指がひどく変形して、もうピアノは弾けないけど、姉ちゃんの教え方に口を出してくる。」
「そうなの?知らなくてごめんなさい。」
「ううん。それでも、元気になってくれて良かったから。病気になった時は、泣いてばかりいてね、痛みも強かったみたいだし。姉ちゃんはそんなのお構いなしだったけど、俺はピアノを家で弾くが嫌になって、練習を辞めた。
「津村くん、お母さん思いなんだね。」
「それから芽衣さんに近づくために、トランペットをやっていますって嘘をついて、吹奏楽部に入部した。」
「橋田先生によくバレなかったね。」
「すぐにバレたよ。」
「それで、どうなったの?」
 芽衣は津村の方を、向き直した。
「1週間でうまくなるからって、頼み込んだ。」
「津村くんは、なんでも器用にできるから、すぐに上達したんだろうね。」
「まあね。」
「芽衣さんと俺は似てる。」 
「じゃあ、津村くんは、すぐにおじさんになる日がくるのか。ママの手を触って怒られるよ。」 
「芽衣さん、そんな事までしてるの?」
 津村は笑って芽衣の手をにぎった。
  
 芽衣を見つめていた津村は、そっと顔を近づける。
「キスしてもいい?」
「ダメ。」
「芽衣さん、ダメしか言わないし。」
 芽衣は少し笑うと目を閉じた。
 津村の唇が芽衣の唇に重なる。

 ベッドに入った2人。
「明日早いし、もう寝ようか。おやすみ。」
 津村は目を閉じた。
「えっ、津村くん。」
 芽衣は津村のシャツを引き寄せた。
「芽衣さんの心に、まだ、あの人がいるよ。」
「誰もいないよ。何度も断ったから、怒ってるの?私、ひどい事したよね。」
 津村は芽衣を自分の胸に寄せた。
「ずっと好きだった。今もどうしようもないくらいに好きだよ。」
「私も津村くんが好き。」
 津村は芽衣にキスをする。唇を離すと、
「今度、俺から会いに行くから。芽衣さんの心の空っぽにして待ってて。」
 そう言って芽衣を抱きしめた。


 第4章

 津村は母校の廊下を歩いていた。

 昨日、久しぶりに帰った実家。

「周平、明日の試験何時から?」
 姉が言った。
「9時。」
「それなら一緒に、私とこの子を保育園まで乗せて行って。」
「いいよ。明日、何かあるの?」
「明日はお遊戯会があるの。帰りはお父さんを頼むから。」

 出戻りの姉は6歳の娘を連れて実家でピアノを教えている。

 いくつもの難病を抱えた母は、今は症状が落ち着き、家でなんとか自分の事は自分で行えるようになった。
 ピアノの講師はほとんど姉に任せていたが、時々自分が教えていた生徒が来ると、隣りでピアノの音を聞いてもいろいろと教えていた。
 以前はひどい関節の痛みと変形で、ピアノの音すら痛みを誘うのか、姉とよくケンカしていたけれど、最近は姉の教え方にも注文をつけている様で、間に挟まれた姉の娘が、二人を仲裁しているようだ。
 
 父はここ引っ越してから、会社までの通勤が2時間以上かかり、最近は会社の社宅を借りて住んでいた。 

 周平が高校生になってすぐ、母の病気が見つかり、原因がわからず入退院を繰り返したが、難病の指定を受けると共に、毎日通院して点滴をする治療が始まった。
 結婚していた姉は、娘を身ごもりながら、実家と家庭を往復し、病気の母を支えた。そのうち、旦那とは別れ、本当に家に出戻ってきた。

 せっかく第1志望の高校に入り、これからっていう時に、津村は隣り町の高校へ転校する事になった。
 下宿でもして、1人でこっちの高校通うと言う話しもしたが、母の治療費が家計を圧迫し、私立高校に通っていた津村に、公立の高校に変えてほしいと父は頼んだ。
 
 高校へ入ってすぐにサッカー部へ入部し、1年生ながら先輩とのレギュラー争いをしていた時期に、転校が決まった津村の事を、先輩は手を叩いて喜んだ。
 自分の好きなの事が続けられなかった悔しさと、バカバカしいプライド争いに、津村はもう二度とサッカーはやらないと心に決めた。

 いろんな思いを抱えて転校した初日。
 津村は音楽室に入っていく1人の女子生徒を見掛けた。

 ドアの向こうに消えていった彼女の事が気になり、その子の後を追うように音楽室のドアを開けると、フルートをケースから出している彼女と目が合った。

「こんにちは。」
 彼女はそう言うと、窓辺に向かいフルートを弾き始めた。

「あの、ここの吹奏楽部って、」
 津村が話し掛けても、彼女はそのままフルートを弾いていた。
 少ししてから、音楽室に顧問の先生か入ってくる。
「松岡さん、これ試験の要項。」
 顧問と彼女は何かを真剣に話していた。
 津村に気が付いた顧問は、入部希望か?と声を掛ける。
彼女はまたフルートを弾き始めた。

 市職員の採用試験を受けたあと、吹奏楽部の顧問だった橋田に連絡をとった。
 
「お久しぶりです。」
「津村か、本当に久しぶりだな。こっちへは仕事か?」
「まあ、そうです。」
「今のどこに勤めているんだ?」
「東京の楽器メーカーにいます。」
「大きな所にいるんだな。」
「少し前まで、松岡さんもいました。」
「あの、松岡か。廣岡先生から聞いて、こっちで教師をやってるのを知って、顔見せるように廣岡先生に頼んでた所だよ。」
「津村はピアノを続けているのか?」
「趣味程度です。」
「ここでよく弾いていたな。本当は、俺はトランペットじゃなくて、ピアノをやらせたかったのに。」
「ピアノはすでに他の人がいたじゃないですか。」
「そうだけど、おまえのトランペットは最初はひどかったぞ。」
「どうしても吹奏楽部に入りたくて、咄嗟についた嘘ですから。」
「松岡といい、お前といい、どうしてそうまで吹奏楽部に入りたがるのかわからんよ。純粋に音楽やりたい理由ではなくて、何か別の目的があるんだろうとは思ったけど、まあ、メキメキと力をつけていくもんだから、俺もそれをうまく利用したよ。」

 津村にはグランドを走るサッカー部の練習を見つめた。
「ここから、よく見えるんですね。」
「そうだろう。松岡くんはいつも窓ばっかり見てたよ。」
 
 あそこで生徒に声を掛けているのが、廣岡なんだろう。

「先生、今日はありがとうございました。」
「弾いていけばいいだろう。」
「いいえ。これから東京には戻ります。」
「そうか。今度ゆっくり弾きに来いよ。」
「はい。」 

 芽衣が会社からいなくなり、佐和が芽衣の仕事も担当するようになり、なんとなくみんなギクシャクして仕事をしていた。

 津村も上司とも意見が合わない事が多かったが、新人の自分には何も言うことができなかった。
 
 芽衣のいないこの場所に、俺はいる意味があるんだろうか。
 佐和は、別の会社を転職をする話しをしていた。

 ずっと好きだったものの隣りに座ると、思っているだけでは気持ちが収まらなくなる。
 
 芽衣は廣岡に同じような思いを向けているんだろうか。
 福井に就職したら、もう二度、芽衣から離れるつもりはない。津村は東京に戻った翌日、会社へ退職届けを提出した。

 芽衣は福井でいつもと同じ時間の流れの中にいた。
 早瀬は音楽室によくきている。

 津村が楽譜を起こした曲を、ピアノで弾いていた。芽衣は早瀬の邪魔をせず、ただ早瀬のピアノを聞きながら、隣りで仕事をしていた。

「先生、高校の時、好きな人いたの?」
 早瀬が聞く。
「いたよ。ずっと好きだったけど、話す事もなかった。早瀬さんはいるの?」
「好きな人なんかいないよ。このまま、高校生が終わってしまうのに、なんの思い出もないし。先生がうらやましいな。」
「私は、早瀬さんがうらやましいよ。」
 早瀬は最近よく笑う。
「ほんと、変な先生だね。」

 職員室に戻った芽衣の机に付箋が貼ってある。
 東高校の廣岡先生から電話がありました。折り返しの連絡お願いします、と。
 芽衣は、薄れていた記憶に呼び戻され、付箋を難度も見ていた。
「松岡先生、東校の廣岡先生から3番に電話です。」
「もしもし、松岡です。」
「松岡先生? 連絡来ないから、忘れてると思って。」
「すみません。」
「渡したいものをあるから、これから東校まで来れますか?」
「それは、私じゃなくてもいいものですか?」 
「松岡先生が取りに来てくださいよ。」
 芽衣は、廣岡の言葉を少し疑ったが、わかりました、そう答えた。 

 芽衣は東校へ向かった。
 玄関に着くと廣岡が、こっちこっちと芽衣を呼んだ。
 懐かしい東校の廊下を廣岡と歩いていると、先生の彼女? と生徒が話し掛けてくる。ここの卒業生、廣岡は生徒にそう答える。
 音楽室に来た廣岡は、
「橋田先生、連れてきましたよ。」
 そう言って、芽衣は橋田の前に連れていく。
 練習中だった吹奏楽部の生徒の目が一斉に芽衣に向けられた。
「松岡くん、よくきたね。フルート吹いてくれないか?」
 芽衣は、橋田先生からフルートと楽譜を渡された。
 
 演奏が終わると生徒が皆、拍手をしてくれる。
「この人は、ここから音大に進学したんだ。熱心にやれば、趣味も特技になるからな。」
 橋田先生は、もう少しいいだろうと言って、芽衣を生徒と同じ席に座らせ、一緒に練習するように言った。
「橋田先生、俺も部活に戻るんで、松岡さんは、後で迎えにきます。」
 廣岡はそう言って、音楽室を出ていった。
 吹奏楽部の練習が再開しても、芽衣は楽譜なしで、なんでもスラスラ演奏した。あの頃と同じように、グランドにいる廣岡を見ながら、芽衣の鼓動は速くなっていた。

 休憩に入ると、数人の生徒が、芽衣の事をいろいろ聞きに来た。
「廣岡先生と付き合ってるの?」
 女子生徒の質問に、芽衣は付き合ってないですよ、と答える。
 廣岡先生は人気者なんだね、と言うと、女子生徒達はそりゃあそうだよ、かっこいいし~、とみんな目を細めた。

「どうしたら、そうやって上手になれるの?」
「すごく練習しないとね。」
 芽衣はそう言った。

 練習が終わり、
「あの頃と変わらなんな。」
 橋田はそう言った。
「そうですか?」
「今もグランドばっかり見てる。新しい曲を渡しても、次の日には全部、暗記してくるんだもの、大したもんだわ。こっちは注意も出来なかったぞ。」
「何度も注意されましたよ。」
「教師はどうだ。江陵で、吹奏楽部の担当してるって聞いたぞ。あそこは進学がメインだから、部活動もあまり熱心じゃないだろう。」
「顧問の五十嵐先生は、本当に音楽が好きみたいですよ。それについてくる生徒もいますし。」
「そうか。音楽室で孤独に仕事してるのかと思ったけど、安心したよ。」
「時々、話しに来る生徒もいるんですよ。」
「そうか、良かったな。そうそう、あのトランペットの子、覚えてるか? 転校してきて、俺はピアノをやらせたかったんだけど、トランペットを希望してきた、津村だよ。頭も良くてなんでも器用にやる子だったけど、この前、ひょっこりここに来てさ。」
「えっ?」
「なんか、仕事の関係って言ってたけど、たまたま寄ったんだそうだ。楽器の仕事をしてるって聞いて、嬉しくなって、ずいぶん話し込んだわ。」
「そうですか。」
「同じところで働いていたって聞いたぞ。」
「少し前まで、一緒にいました。」
「あいつは嘘ついて入部したから、よく覚えてるんだよ。」
 津村はいつこっちに来たんだろう。なんで、会わないで東京に行ってしまったんだろう。

「松岡先生、行くよ。」
 廣岡が迎えにくる。音楽室を出て、玄関に向かう廣岡に、
「届けものは、どれですか?」
 芽衣は聞いた。
「ああ、ちょっと待ってて、職員にあるから。」
 職員室から出てきた廣岡は、
「これ、平木先生に渡して。」
 そう言って、封筒を芽衣に渡した。

「今日、この前の店で待ってるから。上田の嫁も会いたいって言ってたし。」
 芽衣はうつむいて、返事ができなかった。
「何時まででも、待ってるから。」
 廣岡が、玄関まで送ってる。
 芽衣は会釈をして職場へ戻っていく。
 
 廣岡の誘いよりも、津村が福井にきていた事が気になった。

 頼まれてた書類を渡し、音楽室に戻ると、知らない男の子が待っていた。
「美咲は今日、来てないんですか?」
「来てませんよ。あなたは早瀬さんのクラスの人?」
「あいつはA組で、俺はD組です。いつもここに来てるって聞いたから、会えると思ったんだけど。」
「今日はね、私も留守にしていたの。早瀬さん、もしかして帰っちゃったかもしれないね。」
「これ、美咲に渡してもらえますか?」
 男子生徒は、早瀬への手紙を芽衣に渡した。
「美咲、北海道の大学に行くらしいんです。」
「そうなの、それはずいぶん遠い所だね。」
「あいつは頭がいいから、いろんな所選べるけど、俺は無理だから。」
「あなたは志望校決まったの?」
「俺はまだ決まってません。今の時代、大学なんかみんな入るし、この学校に入ればなんとかなるって思ってたけど、美咲が行こうとしてる北海道は、俺には無理だし、だけど、このまま遠くに行ってしまったら、きっと後悔すると思って。」
 芽衣は男子生徒から手紙を預かると、早瀬さんに渡しておくから、と約束をした。
 職員室の引き出しに鍵を掛けてしまう。
 ふと、時計を見る。18時半が過ぎていた。

 家に着き、津村にラインをする。
「この前、福井に来てたの?」
 津村からすぐに返信がきた。
「何のことだろ?」
「橋田先生が津村くんと話したって言ってたよ。」
「仕事でそっちに行った時、東高に寄ったから。」
「せっかくこっちに、来てたのになんで連絡くれなかったの?」
「ごめん。その日は急いで東京に戻らなきゃならなくて。今度は必ず連絡するから。」
「用事って福井になんの用事があったの? 今、電話で話せない?」
「ごめん。あとから俺から電話するから、待ってて。」
 津村の素っ気ない態度に、芽衣は初めて不安になった。いつも近くにいた津村と、距離以上に離れている感じがした。

 あさ美から電話がなった。
「芽衣、廣岡くん、ずっと待ってるよ。」 

 津村の事を思うとこんなにも淋しくて苦しい。
 いつも自分の隣りですっと待っていた周平。
 彼のどこまでも深い優しさが当たり前のように感じて、たくさん傷つけた。

 廣岡に会ってきちんと断わろう。
 
 芽衣は店に向かった。

 あさ美の店に来た芽衣。
 廣岡は芽衣を見て、ホッとした顔を見せる。

「きっと来てくれると思ってた。」
「ごめんなさい。」
「いきなり謝るなよ。この前の返事は?」
 芽衣は首を振った。
 芽衣は言葉を探していたが、自分の中でまとまらない思いを、廣岡に話せすことができないでいた。
「もう少し早く会っていたら、なんの迷いもなく付き合ってたのかな。」
 芽衣は廣岡と目を合わせる事ができない。
 あさ美がこの前のお酒を芽衣に出した。
「今日は少し甘くしたから。それ飲んだら、廣岡くんの家に行けばいいじゃん。」
「あさ美、これ飲んだら帰る。」
「どうしたの、芽衣。」
 芽衣はあさ美のいるカウンターの前に一人で座る。

「芽衣、憧れの廣岡くんが近くにいるのに。せっかくこうして話せるようになったのに。」
「大切な人ができたの。」 
「えっ、好きな人?」
「そう。」
「どんな人?」
「同じ会社だった人、すごくピアノが上手でね。」
「私は音楽の事はわからないけど、芽衣はやっぱり、そういう人が好きなんだ。廣岡くんとの思い出は捨てるの?」
「……。」
「よくグランドにいる廣岡くんを見てたよね。」
「見てたね。ずっと、見てたのに、なんだろう。」
「そんなに見てたのに、区切りつけられるもんなんだ。その彼って、すごいね。」
「私とすごく似てるの。」
「そう。廣岡くんには、ちゃんと返事しなよ。」

 芽衣は、仲間と飲んでいた廣岡の前に向かう。

「廣岡さん、私、帰ります。」
「せっかく来たのに。」
 芽衣は廣岡をまっすぐに見つめていた。
「橋田先生に会えて、また音楽室で演奏ができて、楽しかったです。」
「いつでもおいでよ。」
「ううん。もう卒業したんだし、私は別の場所で好きな事を続けます。廣岡さん、ありがとう。ごめんなさい。」

 芽衣は店を出て、家まで歩いていた。
 22時を過ぎても、津村からの電話はなかった。

「芽衣ちゃーん。」
 廣岡が追いかけてくる。
「ちょっと、グランド、行こうか。」
「ううん。ごめんなさい。家に帰ります。」
 芽衣は廣岡にそう言った。
「あっ、電話鳴ってるよ。」
「えっ、」
 芽衣は携帯を見たが、着信はなかった。
「俺なら、そんな淋しい思いはさせないけどな。」
「こっちにくるって決めたのは、私の方ですから。」
「彼氏できたの?東京の人?」
「……。」
「芽衣ちゃん、キレイになったね。」
「廣岡さんは、ずっと素敵なままです。」
「だったら付き合おうよ。」
「それはできません…。」
「芽衣ちゃんを連れて歩いたら、みんな羨ましがると思ったのに。」
「そんな事ないです。」
「東京で、一度だけ芽衣ちゃんを見かけた事があったんだ。電車の中で、とても大事そうに楽器が入ってるケースを持って寝てて。それがとっても可愛くってさ。俺は彼女と一緒に電車に乗っていたんだけど、寝てる芽衣ちゃんの事で頭がいっぱいでさ。」
「私、覚えてないです。」
「だって、ぐっすり寝てたらね。あの時、声を掛けてたら、もっと違う出会い方もあったかな。」
 廣岡は芽衣に正面を向かせる。
「明日、休みでしょ? 俺も部活はテスト期間だから部活は休みだし。朝、送って行くから、今日は俺の家に泊まって行きなよ。」
「廣岡さん、私はお付き合いする事はできません。」
 うつむいた芽衣に、廣岡はキスしようとする。
 芽衣の携帯が鳴る。
 芽衣が出ようとしてカバンに手を伸ばしたら、廣岡は芽衣をきつく抱きしめた。
「お願い、廣岡さん。」
 芽衣はやっと電話に手が届くと、津村の声がする。
「もしもし起きてた?」
「うん。」
「さっきはごめん。芽衣さんに話したい事があって、今、福井に向かってる。」
 
 廣岡は芽衣はから携帯奪うと、通話を切った。 
「何するの!」
「俺、ほしいものが手に入らなかった事ってないんだ。諦めた事もないし。」
 廣岡は芽衣の手をきつく掴んだ。
 芽衣はその手を振りほどこうと、力を入れる。
「離して。」
 廣岡は芽衣の体を引き寄せると、無理やりキスをしようとした。
「私の好きな廣岡さんはもういない。」
「好きとか嫌いとかそんなめんどくさい事どうでもいいじゃん。お互い、求めてるならそういう関係になろうよ。」
「さようなら、廣岡さん。」
 芽衣は廣岡の手をゆっくりほどいた。眉間にシワを寄せた廣岡に向かって、頭を下げると、家まで走って帰った。

 午前3時。
 津村からの電話がなる。
「今着いた。家の前にいる。」
 芽衣は玄関に出ていき、津村を迎えた。
「あとで両親に紹介するから、まずは休んで。お兄ちゃんの服だけど、これどうぞ。」
「ありがとう。芽衣さん。寝ないで起きてたの?」
「津村くんもでしょう。」
 
 周平がお風呂に入っている間に、脱いだスーツをハンガーに掛けていた。職場から真っすぐにきたのかな? 芽衣はそう思っていた。
 お風呂上がりの津村にお茶を渡すと、津村は芽衣を抱きしめた。
「昨日はごめん。」
「ううん。私こそ、ごめん。」
「少し寝ようか。明日、話しをするから。」
「大丈夫。今、話して。」
 津村は芽衣のベッドに入り、おいで、と芽衣を呼んだ。
 いつもと変わりない津村の優しさに芽衣は少し安心した。

「芽衣さん、昨日どこにいたの?」
 津村の言葉に少し戸惑ったが、芽衣は津村の目を見た。
「好きだった先輩と会ってた。」
「そう。電話が急に切れたから。」
「ごめんなさい。」
「芽衣さん?先輩と、何を話したの。」
 芽衣は小さく呼吸を整えた。
「10年だよ。何もできないまま10年。その人がやっと近くに座ろうとしてるのに、それを断った。」
「ずっと好きだったんでしょう?」
「ずっと好きだったよ。」
 芽衣は起き上がり窓を見つめた。
「もうすぐ朝になる。」
「少し、明るくなってきたね。」
「周平くん。」
「ん?」
「周平くんが私と初めて会ったのは、いつ?」
「高1の夏。音楽室に入っていく芽衣さんを見て一目惚れ。」
「私、冷たかったでしょう。」
「そうだね、誰とも話そうとしなかった。」
「思い出だけが大きくなって、時々自分の思いと重なって、手に負えなくなって、そんな感じ。先輩が卒業して、音楽は自分を守る手段になった。なんにも楽しくないの。でも、やらなきゃっていつも追われてて。」
「芽衣さん。」
「何?」
「俺がしつこかったから、先輩の事、断ったの?」
「ううん。周平くんのピアノ聞いて、本当に好きなものがわかった。周平の話しは?」

 少し前から降り始めた雨の音が2人を優しく包んだ。
 周平は芽衣にキスをすると、触ると溶けていきそうな芽衣の体に触れた。

 朝になり、突然きた芽衣の彼氏に、芽衣の両親はびっくりしていた。
 東京から、夜通し車で来たことも驚いたが、出来損ないの娘が連れてきた申し分のない彼氏に、芽衣の母は、芽衣のどこが良かったかしら? と何度も周平に聞いた。
 周平は芽衣さんはモテるんですよ、そう言ったが、
「今まで、そんな話しをしたこともないし、とにかくわがままな子で、何もやっても中途半端な娘よ。」
 そう言って、芽衣を紹介した。
「せっかく入った音大でも、ほとんどコンクールに出なくて、お父さんと東京へ行けるって楽しみにしてたのに、東京に行ったのは、入学式と卒業式だけだもの。」
 芽衣の父は、
「せっかく来たんだから、ゆっくりしていきなさい。ちょっと出掛けてくるから。晩御飯は家で食べて行けるんだろう?」
「あの、お父さん、お母さん。突然ですが、芽衣さんと結婚させてください。」
 周平の話しに、皆が一瞬固まった。沈黙を破り、父が周平に言う。
「本当に、うちの娘でいいのかい?」
「はい。もちろんです。」
「東京の会社は辞めるのかい?」
「芽衣さんのいる町で働きたいと思って、先週、市の試験を受けました。会社とはモメましたけど、なんとか退職届を受け取ってもらいました。」
「芽衣には、君はもったいないよ。今からでも退職を撤回してもいいんだよ。」
「自分は会社の方針とも合わなくて、何度も上の者と対立しました。なかなか思いが伝わらなくて。」
「芽衣は、どうなんだ?」
 芽衣は周平に、本当の事? と聞いた。
 周平は優しく頷く。

 二人きりになった家で、芽衣は周平の肩に寄りかかった。
「こっちに来てくれるんだ。」
 周平は、芽衣を抱き寄せ
「もう淋しくなんかさせないから。」
 そう言った。
「昨日はごめん。周平くん、眠かったのに。」
「ううん。」
「今日、これからどこかへ出掛ける?」
「今日は芽衣さんの家にいたい。明日の昼には帰らないとダメだし、ゆっくり話しがしたい。ねえ、あのピアノ、弾いてもいい? 」
 周平はピアノを指さした。
「いいよ。もう、何年も調律なんかしてないけど。」

「あの楽譜に起こした曲、弾いてほしい。」 
 芽衣と周平は、久しぶりに二人の時間を過ごしていた。

「そうそう、これ、佐和さんから。佐和さん、会社辞めたんだ。もともとピアノの調律師やりたいって言ってて、別の楽器メーカーに就職したんだ。」
「えっ、そうなの。」
「佐和さんは仕事ができるから、調律以外の仕事もなんでもやってるらしいよ。これ、結婚式の招待状。2月だよ、二人で行こうよ。」
「よかったね、佐和さん。」
「佐和さんの彼氏が、芽衣さんは顔は可愛いけど、中身はおっさんだって言ってよ。」
「あのスナックで飲んだ後に、よく迎えに来てくれたから。佐和さんと一緒に飲んで、騒いで楽しかったな。」
「芽衣さんがよく知ってる、職人さんも、芽衣さんが来なくなって、淋しがってたよ。」
「海の話しをよくする人ね。何度も無理を言って助けてもらった職人さんなの。みんな、懐かしいな。」
「会社辞めた事、後悔してる?」
「初めの頃はずっと後悔してたけど、こっちでもいろんな事があるの。短い学生の間に、たくさん思い出が作れるでしょ。それは、私達が学生だった頃も、何にも変わらないんだなあって。私はそれを見るが事できる仕事をしてるから。」
「こんなキレイな先生いたら、毎日楽しいだろうね。」
「周平くんはこっちに来ること、後悔してない? ご両親は反対してるんじゃないの?」
「俺は遅かれ早かれ今の会社は辞めたよ。次の就職先に、芽衣さんのいる福井を選んだだけ。」

 ピアノに映る2人。
「いつも思うの。この黒い所に映る自分を見ると、水たまりを覗いてるみたいって。」

「周平くん。」
「何?」
「この前、この人の曲で、私も頼みたい曲があるんだけど。」
「聞かせて。」
 芽衣は携帯で曲を流すと、周平は、ピアノを弾き始めた。
「芽衣さんも一緒にやろうよ。大学で、やってきたでしょ?」
 芽衣は周平の隣りに座る。

 2人で、ピアノを弾いている所に、芽衣の両親が帰ってくる。
「二人でずっとそこにいたの?」
 芽衣はそう、と母に言った。
「周平さん、本当にこの子で後悔しないの?」
「ピアノ弾こうといったのは、俺の方ですから。」
 芽衣の母は、不思議な2人ね、そう言って芽衣を、キッチンに呼んだ。
「ほら、晩御飯作るから、手伝って。何もできないで嫁に行ったら、向こうのご両親に私が笑われるんだから。」
 芽衣は、今日は何? と買い物袋を覗き込む。
「いつもは、さっさと2階に上がって、食べないで寝ても覚めてもしまうのよ。家事なんか、ほとんどしない子なの。」
 芽衣の母が言う。
「芽衣さん、お弁当作るの上手ですよ。」
 周平が芽衣の母に言うと
「もしかして、周平さん見たの? 芽衣のお弁当。切り方が大きいって言うか、本当に恥ずかしいよの。」
「母さんは、いつも芽衣が自分に一番似てるって言ってるくせに、会うとケンカばっかりなんだよ。周平くん、こっちで先に一杯やってよう。」
 両親と、こうして食卓を囲むのは久しぶりだった。
 その中に周平がこうして入る光景に、芽衣は胸がいっぱいになった。
 食事が終わり、芽衣の部屋に戻った。芽衣は周平に、疲れたでしょ? そう聞いた。
「どうして?」
「うちの親、よく喋るから。」
「ううん。楽しかったよ。芽衣、窓開けていい?」
 周平は、窓を開けて大きく息を吸った。
「ここからでも少し海の匂いがするね。」
「そう?」
「風が海の匂いしてる。」
 芽衣は周平の後ろ姿見ながら、フルートを磨いていた。
「フルートを触ってる芽衣は、俺が好きな高校生のままだね。」
「一応、今は先生なんだけど。」
「そうだったね。」
 周平は、芽衣のフルートを吹いてみる。なかなか音を出すことが難しいと言われるフルートも、周平はキレイな音を出してみせた。
「すごいね、周平。」
「ずっと芽衣を見てたからね。」
「楽器って、すごく孤独なの。いつも誰かを待ってる。楽器に触れた人も、すごく孤独なの。」
 芽衣の目が赤いので、眠い? と周平は聞いた。
 芽衣は眠くなったと言って、フルートと丁寧にケースにしまった。
「お疲れ様、おやすみ。」

 おいで、周平は芽衣をベッドに呼ぶ。
 今にも眠ってしまいそうな芽衣を、周平は腕に包んだ。
 芽衣の鼓動が速くなっているのがわかる。
「周平くん、明日、東京に帰るんだよね。」
「そうだよ。また少しの間、芽衣さんに会えないよ。」
 淋しそうな顔をした芽衣に、周平は長いキスをした。
 

 第5章

「早瀬さん、これ。」
 芽衣は早瀬に、この前、預かっていた手紙を渡した。
「これ、誰から?」
「山川くんって言ったかな? この前、ここにきて、早瀬さんいるかって。」
「早瀬さん、北海道の大学に行くの?」
「あいつ、そんな事まで知ってたのか。」
「ずいぶん遠くに行くんだね。」
「親から離れてたいっていうものあるけど、北海道で自然とか生命とかそんな勉強をしたいの。」
「私はまだ行った事がないけど、広いんだろうな、北海道。」
「先生、山川はなんて?」
「手紙、読んで見たら?」
 早瀬は先生の前で読めるわけないじゃん、恥ずかしい、そう笑顔を見せた。
「早瀬さん、この前の人の別の曲、楽譜にしたよ。これ、早瀬さんにあげるから。」
「本当! 先生ありがとう。」
「ずいぶん古い曲だねって言ってたよ。」
「今はネットでいつでもいろんな曲が聴けるでしょう。」
 早瀬は楽譜を見ると、
「先生の彼氏って、しゅうへいって言うの?」
「えっ、なんで?」
「ほら、ここ。」
 芽衣は楽譜の下に小さく書かれた周平のサインを見つける。
「本当だ。」
「この前の楽譜もこの字があって、もしかして先生の彼氏かなって思ってた。どんな人?」
「ピアノがとても上手な人だよ。」
「いいなぁ。私も、北海道に行ったら、素敵な彼氏ができるかな?」
「ほら、その手紙。」
 芽衣は早瀬の持っている手紙を指さした。
「なんにもないと思ってたけど、思い出が少しできた。」
「幼馴染なの?」
「そう、幼稚園の時からの腐れ縁。あいつチビで並ぶといつも私の隣りだったの。今じゃ、デカくて想像できないけどさ。」
 早瀬が芽衣にそう言うと、音楽室のドアが少し開いた。
「早瀬さん、私はもう帰るから、ここでピアノ、弾くといいよ。音楽室の鍵は、これだから。閉めたら職員室に返しておいて。」   
 
 第5章

 周平と芽衣は、佐和の結婚式に来ていた。

「キレイだね、佐和さん。」
 ウエディングドレス姿の佐和に見惚れていた芽衣に、
「芽衣ちゃんも、佐和も今日はおっさんじゃないね。」
 佐和の彼が、笑わせた。 
「佐和さん、旦那さん、結婚おめでとうございます。」
 涙ぐむ芽衣を見た佐和は、
「ありがとう。今度は、芽衣の番だよ。」
 そう言って、芽衣と周平を見た。 
 二人は照れて笑った。
「ふたりとも、高校の頃から少しは時間が動いたの?」
 佐和の言葉に、
「時間が進みました。」
 津村がそう答える。

「芽衣、ブーケ、しっかり受け取ってよ。」
 佐和は芽衣にそう言った。

 結婚式の会場の玄関は、もう一つの会場で開かれていた披露宴のお客さん達とごった返していた。
 本来重なる事のない、2つの結婚式が、時間が押して重なってしまったんだろう。

 周平は、芽衣の手をしっかり握ると、人の中を避けるように、玄関に向かった。

「芽衣ちゃん!」
 ふと、誰に呼ばれて振り向くと、廣岡が芽衣を呼んでいる。
「廣岡さん。」
 芽衣は、驚いて廣岡を見た。
「芽衣ちゃんの彼? こんにちは、廣岡と言います。」
 廣岡は、周平にそう言った。人が行き交うロビーの中で、廣岡は真っすぐに周平を見つめている。
「廣岡、早く来いよ、二次会行くぞ!」
 仲間に呼ばれた廣岡は
「おー、今行く。」
 そう答える。
「大学の時の先輩の結婚式だったんだ。」
「廣岡くーん、早く!」
 今度は、女の子達からも呼ばれている。
「わかった、すぐ行く!」
「芽衣ちゃんも結婚式だったの?」
 廣岡は、芽衣が持つブーケを見た。
「そう。同じ職場だった人の。」
「それで二人で来たってわけ。」
「芽衣ちゃん、俺とここで会えたのは、運命だと思われない?」
 廣岡はそう言って、周平を見た。
「芽衣ちゃんの選んだ彼は、こういう人か。隣りに芽衣ちゃんがいると、自慢したくなるだろう?」
 廣岡はそう言った。
 人とぶつかりそうになった芽衣を、周平はそっと自分の方に寄せた。

「廣岡、早く!」

 芽衣は廣岡の目を見て、みんな待ってますよ、それじゃあ、そう言って周平と玄関に向かった。

「佐和さんがあのスナックで待っててって言うから、着替えて行こうよ。」
 芽衣は周平にそういった。
「いつもと違う芽衣、もう少し見たいのに。」
 周平は、アップしている芽衣の髪に触った。
「この頭が少し痛くなってきて。」
「せっかくなんだし、もう少し我慢したら?」
「途中で、わからなくなっても、置いていかないでよ。」
 周平は、わかったよ、そう答えた。
 二人がスナックに着くと、ママと常連達が、一斉におめでとうと拍手をした。
「ありがとうございます。」
 芽衣はみんなに挨拶をする。
「ママ、前に周平が入れてくれたボトルあります?」
「ありますよ。だけど、芽衣ちゃん、今日は飲み過ぎたらダメ。あとから佐和ちゃん達が顔を出すって言ってたから、それまではちゃんとしててよ。こんなに、キレイにしてるんだから、彼はヒヤヒヤしてるはずよ。」

 ママが周平と芽衣のお酒を作っている間に、常連さん達のカラオケが始まる。
「今日は、芽衣ちゃんの結婚をお祝いして、この曲を歌います。隣りの彼に芽衣ちゃんを奪われて本当に悔しい!」
 常連さんの話しに皆が笑った。
 ママと芽衣達がカンパイをすると、皆がカンパイとグラスを持って集まってくる。圧倒される周平に、常連達は、幸せにしてやれよ、と次々に言った。すっかり、店に溶け込んでいる芽衣の横で、気後れしている周平に
「芽衣ちゃんのどこが好きなの?」
 ママはそう言った。
「こういうところです。ずっと見ててもいい。」
「キレイな子なのに、残念じゃない?」
「残念ですね。みんなにも、こうして笑ってあげたらいいのに。」
「芽衣ちゃんがそんな事したら、みんな自分に気があるって勘違いするでしょう。」
「そうですね。」
「あなたにだけ、こうやって素を見せたらいいのよ。福井に行ったらさ、時々、パンクさせてやりなさい。」
 ママはそう言って、常連に呼ばれ席を立つ。

「芽衣、佐和さんが来るまで潰れないでよ。」

 周平は芽衣にそう言うと、スナックの扉が開いて、佐和と彼が入ってきた。
 常連達は再び、おめでとうと拍手をした。
「ここの人達は、いつもめでたいんだな。芽衣ちゃん、どうした? すっかりおじさんになってるよ。」
 佐和の彼が、芽衣をからかう。
「今日は、本当におめでとうございます。」
 芽衣が改めて二人に挨拶する。
「ブーケ、取れなかったらどうしようかと思って心配したよ。」
 佐和が芽衣に言う。
「津村、ずっと好きだった芽衣の彼氏になれて、私に感謝してもらわないと。」
「そうですね、本当に。」
「芽衣に振られたって言ってきた時は、子犬みたいで、かわいかったよ。」 
「新人くんの事、いつも子犬みたいな子って佐和が言ってたよ。」
 佐和の彼がそう言うと、佐和は笑った。
「佐和さん、おめでとう。佐和さん、すごくキレイ。旦那さんは幸せだね。」
 芽衣は佐和に抱きついた。佐和の彼は、
「おいおい、芽衣ちゃんは相手が違うでしょ。佐和は俺のもの。」
「だいぶ、酔ってるから。この子。」
 佐和はそう言って芽衣を抱きしめた。
「津村、ちゃんと捕まえてなさいよ。」

 佐和達が店を出た時、周平と芽衣も店を出た。
 周平に少しより掛かる芽衣を支えて、二人はいつものバーにきた。
 いつもと違う格好の二人を見たマスターは驚いて、
「今日は、どうした?」
 と周平に聞いた。
「友人の結婚式だったんですよ。今日の芽衣、キレイでしょ?」
 いつもよりおしゃべりな芽衣をマスターに紹介する。
「頭が痛いから、早くこれを取りたいんです。」
 芽衣は、髪の飾りを指さした。
 マスターの出した、いつもの海の色をしたお酒を、芽衣は無邪気に飲んだ。
 髪の飾りをひとつ取った芽衣に、二人はあ~あ、と笑った。
「周平は敵が多いですよ。いつも女の子に囲まれてますから。」
 芽衣はマスターにそう言うと、これは何が入ってるの? と周平に聞いた。
「周平、これ飲んだら、帰れよ。」
「また、それですか。」
「そう言えば福井に行くんだったな。やっぱり、芽衣ちゃんの事が心配だったか?」
「芽衣はどこにいても俺を待ってます。」
「いいこと言っても、待ってる方はお前だろう。」
「そうですかね。」
「芽衣ちゃんを初めて連れてきた時、周平、うれしそうだったな。俺はお前に嫉妬したぞ。」
 周平とマスターが楽しそうに話す横で、芽衣はもう一つの髪飾りを取ろうとしていた。
「ほら、周平。早く休ませてやれよ。」
 そう言ってマスターは、タクシーを呼び、玄関まで二人を送った。

 周平の部屋にきた芽衣は、なんとか髪を解き、シャワーを浴びた。
 周平がシャワーから戻ってくるのを待っている間、周平の本棚からカクテルの本を出して読んでいた。
「芽衣、その本、あげるよ。」
 周平が、芽衣に言う。
「本当! ありがとう。いつもマスターが作ってるお酒を探してるんだけど、どこにもなくて。」
「あれは、マスターのオリジナルだから。あの髪、せっかく、似合ってたのに、すぐに取っちゃうんだもの。」
「今日の周平も、すごく素敵だった。」
「芽衣、今、あの彼の事、少し考えてなかった?」
「ううん。周平は昔の彼女とか思い出す事はないの?」
「ないよ。芽衣がいるから。」
「私は彼氏なんかいなかったもん。」
「あの人は、芽衣の事、まだ、きっと、好きだろうな。」
「ねえ、このカクテルって、どんな味?」
「だから、その本は芽衣にあげるよ。バーやってる人って、だいたいお客さんに合わせていろんなカクテルを作るんだよ。本には、基本のものしか載ってないから。」
「周平は全部作れるの?」
 いつまでも本を見てる芽衣に、周平はもう終わりだよ、といって本を置くと、自分の胸に芽衣を抱く。
 
「周平、まださっきの事、気にしてるの?」
「気になるよ。」
 周平は芽衣に激しいキスをした。
 熱くなっていく芽衣の体は、いつもの冷たい体の芽衣とは違う、周平はそう感じていたが、芽衣にキスをすればするほど、自分の感情が抑えられなくなり、芽衣を貪るように、ただ強く求めた。
「周平?」
 芽衣はそんな周平の手を止めた。
「周平、どうしたの?」
 周平は、芽衣を見つめた。
「俺だって、どうしようもない気持ちの時もあるよ。」
 いつもの優しい周平と違う鋭い周平の様子を、芽衣は心配した。
「大丈夫、周平が好きだから。ずっと好きだから。」
 二人の間の張り詰めた空気が、緩やかな風に変わっていく。
「こんなおっさんみたいな女の人なんか、周平しかもらってくれないでしょう?」
 芽衣が周平の頬を撫でてそう言うと、周平は笑った。
 芽衣の隣りに横になり、芽衣に腕枕をした周平。
 芽衣は周平の方を向き直した。
「私がフルートを始めたきっかけは、先輩を見るだったかもしれないけど、周平がトランペット始めたのも、ピアノがずっと待っていた事も、みんな遠回りして、こうして会える日に繋がっていたんだと思う。」
 周平はそう言った芽衣を抱きしめた。
 少し疲れている芽衣の髪を撫でながら、初めて芽衣を見た高校の夏の日、大学の頃、会社に入っていく芽衣を見かけた夕暮れの日、会社に入社した日、初めて芽衣と話した事を思い出していた。
 
 朝、寝ている周平にキスをしようとした芽衣は、キスをするのをやめて、周平を見ていた。
「どうしたの? 待ってるのに。」
 周平は芽衣を優しく抱き寄せてキスをする。
 周平の腕の中で、芽衣は目を閉じて深く息を吸う。
 周平の優しい空気が芽衣の心を満たしていく。
「周平、もう一回、寝て。」
「なんで。」
「いいから。」

 目を閉じた周平に芽衣はキスをした。カーテンの隙間から覗く朝日が眩しくて、二人は目を細める。

「4月に周平が来るまで、淋しい日が続くのか。」
 芽衣はそう言った。
「芽衣、一人でも平気だろう。その本、ずっと見てるから。」
「あっ、これ。」
 芽衣はまた開いて見ようとした。
「これってどんな味?説明だけじゃわからないよ。」
 周平は芽衣にどんな味なのか教える。
「作ってる時って、何を考えてるの?」
「どういう事?」
「飲む人がどんな顔をするのかって考えてるの?作っている自分を見てる人の顔を考えてるの?」
「どっちもあるかな。」
 芽衣は周平の顔を見た。
「何?」
「周平、何飲みたい?練習しておくから。」
 周平は笑って本を閉じて芽衣を見た。
「これから海に行かない?出掛けようよ。」  
 周平が、芽衣に言った。
「ううん。行かなくてもいい。」
「家にいたいの?」
「うん。」
 芽衣はまた本を手に取った。
「わざわざ行かなくても、海はいつもそばにあるよ。しばらく会わなくても、向こうから会いに来てくれるから。」
「都合のいい、話しだね。」
「ねえ、お水ちょうだい。」
 芽衣が立ち上がってキッチンに向かう。
「ほら。」
 周平は芽衣に水を渡す。
「少し頭がいたいから、もう少し寝てもいい。」
「飲み過ぎだよ。だから、家にいたいんだろう。」
「そうだね。」
 芽衣はベッドにもぐった。
 周平がぴったり体をつける。
「周平、これじゃあ眠れない。」
「芽衣。」
「何?」
「時間までゆっくり休みな。」
「うん。」
  
 夕方。

 芽衣を新幹線のホームまで送った周平は、長く続く線路を見ていた。芽衣の残した空気が、周平の体を包んでいた。

 海は遠くにあるようで、いつも近くで待っている。
 同じリズムで繰り返す波と、同じ風の匂い。
 もうすぐ芽衣の住む街で、いつでも海に会える。 

 周平は、改札を通り、人の波を縫うように歩いていった。   



 ~夜の川に浮かぶ月~~

 第1章

 高校3年、最初の中間テストを終えた美咲は、シャープペンの芯を指で押し、芯の跡が残る人差し指を見つめていた。

 テストはどれも難しくなかった。

 進路を決める大切な試験。

 今更、焦ったところで、急に何かが変わるわけでもない。点数の行方に一喜一憂するクラスメイトの会話はなど、美咲にとってはただの雑音にしか感じない。
 
 中学の担任の勧めや、両親に言われるまま、県内でも有数の進学校に進んだ早瀬美咲は、特別仲のいい友人も作らず、ただ静かに勉強するだけの毎日を送っていた。

 ガリ勉の女。中学のクラスの男子は、美咲の事をそう言っていた。
 世の中は勉強ができる女よりも、男に頼る術を持つ女子の方がチヤホヤされる。
 最終的に、自分の価値を決めるのは知識なのか、知恵なのか。
 なんと言われようと、今の美咲には答えを出す程の問題ではなかった。
 
 高校に入ってから、クラスの中で、ほとんど話す事はなかった。
 元々、進学校の中でも、特進クラスにいる生徒は、皆、勉強で忙しく、ドラマで見るような淡い高校生活など送っている者は誰もいない。
 行事にはほとんど参加せず、修学旅行ですら出席する者はほとんどいないくらいだ。

 そんなクラスの中で、美咲のように部活動をやってる生徒は珍しく、両親からは何度も辞めるよう言われていたが、成績を落とさない事を約束にして、美咲は吹奏楽部を続けていた。
 
 テストが終わった今日から、また部活動が始まる。
 中学校の時は、内申点を上げるために、親から言われて仕方なく入った吹奏楽部だったけど、どこにも居場所がなかった美咲にとっては、唯一、心が休まる場所になっていた。

 顧問の五十嵐先生は、楽譜にない事も教えてくれる知的な先生だ。
 曲が伝えてる事とか、曲が描く風景とか、ただ楽譜通りに演奏するのではなく、思いを込めて演奏するようにいつも言っていた。

 自分の気持ち一つで音色が変わるクラリネットが、いろんな表情を見せる。
 誰とも打ち解けない美咲にとっては、音楽が唯一の友人だった。
 
 今月から、副顧問ということで、もう一人先生が増えた。
 産休代替できた音楽の先生は、東京の音大を出ていると紹介があった。
 キレイで控えめな女性の松岡に、美咲はなぜか敵意をむき出しにした。
 男性教師や、男子生徒達が、松岡と話しをしたくて近づいている。松岡は、誰にも穏やかに話しをする。
 自分には叶わないものを全て手に入れている松岡が、美咲は許せなかった。

 ある日、音楽室の窓際で、フルートを吹いていた松岡に、美咲はこう言った。
「音楽なんてやって、何になるんですか? プロになるならまだしも、音大出て、こんな田舎の学校で教えるくらいしかできないなら、そうやって弾けたってなんの役にも立たないじゃないですか。」
「そうね。私は勉強してこなかったけど、ちゃんと勉強して、将来の事を考えたら、別の道もあったかもしれないね。早瀬さんは、吹奏楽やってても、楽しくないの?」
「中学の時、内申点上げるために、親が勧めて仕方なく吹奏楽に入ったけど、家に帰っても、勉強しろって言われるばっかりだし、今はただの時間潰しにやってるだけ。」
「早瀬さん、それなら時間潰しにいつでもここへくればいいよ。」
「変な先生。」
 松岡はそうでしょう、と笑った。

 美咲の家は父も母も歯科医をしていた。
 兄は大学を卒業してからは、実家を継いだ。
 美咲も両親から、歯科医になるように言われていたが、頭のいい美咲なら、医者になるのもいいんじゃないか、父は時々そう言った。


「お父さん。私、北海道の大学に行くから。」
「医学部なら、こっちにもあるだろう。東京に行ったっていいぞ。」
「私は医学部なんか行かないよ。」
「何言い出すかと思ったら、うちはな、他の家と違って選択肢は医学部しかないんだ。頭のいい美咲にはすごく期待してるんだぞ。」
「北海道の大学で、生命とか自然の事を学びたいの。」
 父はアホくさいと席を立った。
「美咲、お父さん怒ってるよ。」
「お母さん、私決めたから。勘当するなら、別にそれでもいいよ。私、医学部なんか絶対行かない。」

 両親とはそれから口を聞かなかった。
 三者面談の連絡を隠していたが、幼稚園からの幼馴染の親からそれを聞いた母が、担任へ連絡を取り、結局、面談する事が決まった。
 
 面談の控室で、山川の母と山川と会う。
「あっ、山川さん。この前は本当にありがとう。美咲は、もう困ったもので…。」
「早瀬さん、美咲ちゃんは頭がいいから、いろんな所を選べていいですね。うちなんか、どうしようかと。」
「裕貴くん、野球続けるんでしょう?」 
「本人はそう言ってますけど、入れる大学があるかどうか。」
「本当、親の心、子知らずですよね。」

「よう。浮かない顔してんな。」
 美咲は日に焼けた山川の顔を見て、ため息をついた。
「進路決まったのか。」
「まだ。」
「美咲なら、どこでも行けるだろう。」
「美咲って呼ぶのやめて。」
「じゃあ、美咲ちゃんって呼べばいいのか。美咲なら、医大に行くんだろう。」
「行かないよ。」
「それならどこに行くんだよ。」
「ここから海を越えて遠い所。」
「北海道か?美咲の母さんが、家の親と話してたから。」
「教えないよ。」

 三者面談が終わった。

 美咲は音楽室でピアノを弾いてる。

 松岡に教えてもらいながら、美咲のピアノの腕は上達していった。

「先生、東高の吹奏楽部の先生って、まだいるの?」
「今も顧問しているみたいよ。」
「その先生、厳しかった?」
「厳しいよ。ここの五十嵐先生は、仏様みたいに感じる。」
 松岡が笑うと、美咲もつられて笑った。
「高校の時、好きな人いた?」
「いたよ。結局、見てるだけだったけどね。」
「いいなあ。私にはなんの思い出もない。」
「私は、早瀬さんが羨ましい。そうだ、早瀬さんに手紙預かってたの。」
 松岡は美咲に手紙を渡す。
「誰から?」
「山川くんから。金曜日、私が帰る時に、早瀬さん来てないかってこれを持ってきたの。読んでみて。」
「やだ、恥ずかしいよ。家に帰って読む。」 
 美咲の見せた、はにかんだ笑顔。
「早瀬さん、北海道に行くって山川くんが言ってたよ。」
「あいつ、勝手に喋って。」
「ずいぶん、遠い所へ行くんだね。私、北海道は行った事ないから、すごく広いんだろうなって想像してた。」
「あと、これね、この前、教えてくれた人の別の曲。」
 松岡は早瀬に楽譜を渡す。
「ありがとう、先生。」
「私もこの人の曲、すごく好きになって、楽譜に起こしてもらって弾いてるの。」
 美咲は、楽譜の最後に書いているサインを見ていた。
「先生の彼って、しゅうへいっていうの?」
「えっ、なんで?」
「ここに、書いてるよ。」
「あっ、本当だ。」
「どんな人?」
「ピアノがとっても上手な人。」
「初恋の人?」
「ううん。」
 美咲はその曲を弾こうとしたが、
「早瀬さん、私、用事があるから、帰るね。ここでピアノを弾いていくといいよ。音楽室の鍵はこれだから、帰りに職員室に返しておいて。」
 松岡は、音楽室を出ていった。
「ピアノ、誰かに聞いてほしかったのに。」
 美咲はつぶやいた。

 音楽室のドアが開いた。
 松岡が戻ってきたと思い、先生と言い掛けると、そこには山川が立っていた。
「裕貴、どうしたの?」
「手紙、読んでくれた?」
「まだ、今もらったから。裕貴、恥ずかしいよ。手紙なんて。だいたいそんなキャラじゃないでしょう。」
「高校に入って、あんまり話す機会もなかったね。」
「裕貴、野球ばっかりやってたじゃん。それなら、この高校じゃないほうが良かったのに。」
「他の高校には、美咲はいないし。」
「何言ってんの?」
「美咲、北海道行くって本当?」
「そうだよ。裕貴はどうするの?」
「俺は、名古屋に行くつもり。」
「えっ、なんで。」
「名古屋の大学に推薦してもらうんだ。そこなら野球続けられるし。」
「これで幼稚園からの腐れ縁も、もう本当に終わりだね。」 
 美咲は、山川を見て微笑んだ。
「俺は美咲の事、ずっと好きでいるから。」
「そんな事できないよ、お互い新しい生活始めるんだし。」
「もし、来年も好きな人ができなかったら、学校の前で会わない? その次の年も、その次の年も、俺は待ってるから。」
「そんなのバカじゃん。裕貴に彼女できたらどうするの。」
「俺はきっと、美咲だけしか好きにならない。」

 ピアノの前に座る美咲の手を取ると、裕貴は美咲を抱き寄せた。
 突然の事で、驚いた美咲は、急に体が動かなくなった。
 スローモーションのように、裕貴の顔が美咲に近づいてくる。
「待って。自分は推薦が決まってるけど、私はこれから受験なの。これ以上は、ダメ。」
 裕貴は諦めず、美咲を抱きしめて離さなかった。

「裕貴、一緒に帰ろう。うち、親厳しいから、途中までだけどね。」
 美咲は裕貴の手を握った。
「待ってて、音楽室の鍵、返してくるから。」

 校門から少し、離れた所で待ち合わせをした美咲と裕貴は手を繋いで歩き出す。
「いつぶりだろうね。」
 美咲が裕貴に聞く。
「年長以来だよ。小学校の時は、手なんか触らなかったし。」
「裕貴の行く大学ってどんな所?」
「経済学部だよ。別に勉強しに行くわけじゃなくて、野球しに行くだけだから。」
「そんな事言ったら、お母さん、悲しむよ。」
「うちは美咲の所と違って、入れたらどこでもいいと思っているから。だいたい、この高校に入れたのも奇跡だし。卒業したら、地元に戻って仕事に就けばいいって俺も思ってる。大学なんか、それまでの時間稼ぎだよ。」
「裕貴、変わったね。」
「何が?」
「そんな事、言うようになるとは思わなかった。昔はよく泣いてたのに。」
「それは、幼稚園の頃だろ。」
「裕貴はいつも、みんなの輪の中にいたね。羨ましかった。」
「美咲は変わった。」
「そう?」
「あんまり笑わなくなったから。松岡の所で、いつも何を話してるの?」
「なんにも話しなんかしないよ。ただピアノ弾かせてもらってるだけ。松岡先生って、なんか不思議な人だよね。」
「松岡の彼氏は、東のサッカー部の顧問だって聞いたよ。めっちゃカッコイイってさ。」
「それは、違うよ。先生の彼は東京にいるって。ピアノがすごく上手だって、言ってた。」
 裕貴は、美咲の手に指を絡ませて握ると、
「1回だけ、キスさせて。」
 そう言った。
「何言ってるの?」
「美咲、これから受験だから、俺は邪魔しないから。合格したら、ちゃんと告白する。」
 裕貴は美咲を抱きしめた。

 小さかった裕貴は、美咲の頭を遥かに超え、いつも一緒に繋いでいた手も、いつの間にかゴツゴツとしていた。

「裕貴、来年の春までに、他に好きな子ができたら、その子と付き合ってもいいからね。」
「美咲と会ってから15年だよ。そんなに思ってたのに、急に他の人なんて無理だよ。」
「そんなに一緒にいたの?」
「そうだよ。中学に入ってからは、ぜんぜん話さなかったけど。」
「私、何に反抗して、誰とも話さなかったんだろう。」

 美咲がそう言うと、裕貴は美咲に静かにキスをした。
 美咲は全身の力が抜けそうなのに、心臓だけが熱くなっていた。

 第2章

 あの日以来、美咲と裕貴は、廊下ですれ違っても、話す事はなかった。美咲が合格するまで、邪魔をしない、裕貴はそう決めていた。

 美咲はあい変わらず、誰にも笑顔を見せない。

 音楽室に入って行くのはよく見掛けたけど。

「松岡先生、美咲といつも何話してるの?」
 裕貴は階段ですれ違った松岡に聞いた。
「早瀬さん、ピアノを弾いてるだけだよ。山川くんも来ればいいのに。」
 数人の通りかかった男子が、裕貴をからかった。

「おまえも松岡先生のファンかよ。」
「違うよ。」
「松岡先生の彼氏は、東のサッカー部の監督だぜ。誰も敵わないって。」
「それは違うって言ってたよ。」
「誰が?」
「噂だよ。」

 あの日。
 一度だけ美咲にしたキスは、裕貴の想いに鍵を掛けた。
 美咲が合格したら、その鍵を外して、美咲と付き合おう、裕貴はいつもそう思っていた。
 
 音楽室でピアノを弾いていた美咲に、松岡が言った。
「私ね、春から、中学へ行くことになったの。」
 美咲は手を止めた。
「先生、この高校でいい思い出できた?」
「できたよ。たくさん。」
「授業もろくに聞いてないやつばっかじゃん。」
「みんな、それぞれ違う時間を過ごしてるから、仕方ないよ。それにね、早瀬さんがここへ来るようになって、すごく嬉しかった。」
「私がいたおかげで、変な男の人は入れなかったし、先生の彼氏と近くなったんじゃない?」
 美咲は松岡にそう言って笑った。
「早瀬さんは、これから受験だね。」
「もうここにきたら、ダメ?」
「どうして?」
「受験に集中しろって、先生はみんなそういうじゃん。」
「音楽ってそんなに邪魔にはならないよ。いつでもおいで。」
「ありがとう、先生。」

 松岡は窓を開けると、
「海の匂いするね。」
 そう言った。
「北海道の景色はどんなだろうね。」
「先生が思ってるより、都会だよ。」

 美咲はピアノに向い、譜面台に置いてあるショパンのノクターンを弾いた。
 いつも松岡が止まる場所で、美咲も止まった。
「先生、指が足りなくなった。」
「そうでしょう。」
 2人は顔を合せて笑った。

 卒業式。  

 松岡の流れる様なピアノが、美咲を送り出した。
 美咲は泣かなかったけど、母は少し泣いていた。

「卒業おめでとう。」
 松岡が美咲に声を掛ける。
「北海道大学、合格したんだね。おめでとう。」
「先生。私、先生がいつも羨ましかった。」
「どうして?」
「キレイだし、強いし、鈍感だし。」
 松岡は笑った。
「音楽、続けてね。せっかく、早瀬さんの味方になったんだから。」
「そうだね。私、ピアノもっと弾きたいし。」
「本当におめでとう。あっ、ほら。」
 松岡は、待っている裕貴の方に美咲を向けると、松岡は職員室に戻っていった。

「美咲、明日、大仏さん見に行こうよ。10時に学校の正面で待ってるから。」
 裕貴はそう言うと、仲間の待つ方へ走っていった。

 次の日。
 人が混み合う中、しっかり手を繋いで大きな大仏様の前にきていた。
 長く手を合わせている裕貴に、何をそんなに頼んだの? と美咲は聞いた。
「野球がもっと上手くなりますように。大学で単位を落としませんように。これから楽しい大学生活が送れますように。あと美咲が別の男を好きになりませんように。それだけだよ。」
「願い事って、普通一つだけじゃない?」
「そんなケチ臭い大仏さんなんかいないよ。あんなに大きいだし。美咲は、何を頼んだの?」
「私は、大学に合格したお礼をしたの。」
「俺の事は?」
「裕貴は自分で頼んだんでしょ。」
「俺に別の彼女ができてもいいの?」
「いいよ、別に。今年の11月23日、学校で会えなかったら、きっと彼女ができたんだなって思うから。」
「美咲、あの日覚えてたの?」
「そうだよ。今年は木曜日。」
「絶対、行くから。」
「どうかな。」

 手を繋いで、近くの公園まで歩いてきた。二人は、ベンチに座り、ジュースを飲んでいた。

「北海道は遠いなぁ。」
 裕貴が言う。
「北海道の人にしたら、名古屋は遠いよ。」
「そっちの大学には、たくさん人がいるんだろうな。美咲、大丈夫か?」
「好きな勉強しに行くんだよ。楽しみ。」
「そうじゃなくて。幼稚園の時は、あんなにケラケラ笑ってたのに、中学の頃から、勉強の鎧着て、あんまり話さなくなったからさ。また、笑わなくなるかもって思って。」
「裕貴が電話してくれたら、毎日笑うから。」
「そうだった。俺、毎日電話するから。」
「海の匂いするね。名古屋は海がないね。」
 美咲が言った。
「札幌も海が遠いでしょ。」

 美咲は、少し離れた所にできている水たまりを覗いた。
「何してんの?」
 裕貴が美咲に近づく。
「昨夜、雨降った?」
「昨夜、少し降ったんだね。」
 美咲は水たまりで揺れる自分の顔を見て、
「自分に見られてるみたい。」
 そう、つぶやいた。
 ゆっくり立ち上がる美咲と、裕貴の顔がぶつかりそうになる。
「あっ、ごめん。」
 美咲が謝ると、裕貴は美咲を抱きしめキスをした。

 11月23日。
 校門の前で、美咲が待っていた。
「いつから待ってたの?」
「裕貴、やっぱり彼女できなかったんだ。」
「美咲もだろう。」
「そうだね。」
 裕貴は美咲の手を握った。
「今日はうちに泊まれよ。母さん、晩ごはん用意して待ってるから。」
「えっ?」
「母さんが、美咲の家に電話しておいたって言ってた。もう高校生じゃないんだし、正々堂々と好きだって言える。」
 裕貴の言葉に美咲は照れた。

「裕貴は、野球でどこを守ってるの?」
「俺は、キャッチャー。」
「そうなの? なんか大変そう。」  
「そこは痛いから、ここで横になりなよ。」
 裕貴は美咲をベッドへ呼んだ。
 裕貴の隣りに座ると
「野球は楽しい? 大変?」
 美咲はそう聞いた。
「楽しいけど、大変。」
「うちの大学は2部リーグだけど、すごくいいピッチャーがいて、その人の球を受けるのが本当に楽しいんだ。球も速いし、球種もあるから、プロからも見に来てる。俺は、その人とバッテリー組めて、幸せだわ。」
 楽しそうに話す裕貴の目がキラキラしている。
「いいなあ。」
「美咲は、大学は楽しい?」
「楽しいよ。すごく。」
「それなら良かった。友達は?」
「できたよ。」
「美咲がもう少し近くにいたらなぁ。」
「4年間ってあっという間だよ。」
「美咲は、卒業したらこっちに帰ってくるの?」
「まだ決めてない。」
 裕貴は美咲を抱きしめた。

「裕貴、早くお風呂入っちゃって!」
 下から裕貴の母が呼ぶ。
「本当に、タイミング悪いんだけど。」

 美咲が部屋に戻ると、裕貴は薬を飲んでいた。
「風邪?」
「風邪だよ。」

 裕貴は、美咲のまだ少し濡れている髪をなで、美咲が眠ろうとするのを見ていた。
「美咲、今朝は早かったの?」 
「うん。7時半の飛行機。裕貴は?」
「俺は6時の朝練の後、午前の授業出てからこっちにきた。」
「じゃあ、裕貴の方が眠いね。」
 そう言って、眠りに落ちていきそうになる美咲に、裕貴はキスをする。
「まだ寝ないで。」
 裕貴は言った。
「ごめん、眠い。」
 美咲はそう言って裕貴の背中に回していた手を離した。
 裕貴は力の抜けた美咲を自分の体に寄せ、眠らせないよ、ずっと会いたかったんだから、そう美咲に言ったが、そのまま美咲は眠ってしまった。

 第4章

 北海道に戻ってから、美咲はいつものように学校とバイトを往復していた。
 両親から、十分な仕送りをもらっていたが、美咲はどうしてもピアノが欲しかった。
 楽器屋さんで見た中古のアップライトのピアノに、美咲は一目惚れをしていた。

「このピアノ、小さくて見えるけど、中はすごいいいものを使ってるんだよ。」
 楽器屋の店長はそう言って、80万どう? そう美咲に言った。
「どうか、お金が貯まるまでピアノさん、待ってて。」
 美咲はピアノにお願いした。
「あなた学生さんでしょ? ピアノなんか買ったら、引っ越しするの大変だよ。調律だってやらないとダメだし、ただ置いてあるように見えても、ピアノにしろ他の楽器にしろ、きちんと手を掛けないとダメなんだよ。それができない人には、どんなに楽器も売らない事にしてる。」
「店長さん、絶対大切にするから、お願い、誰にも渡さないで。」
 美咲のしつこさに負けた店長は、時々、弾きにおいでと言って笑った。

 次の日。
 美咲は松岡がくれた楽譜を持って、ピアノを弾きに来ていた。
「店長、バイトまで少し時間があるから、ピアノ、弾いてもいいですか?」
「ああ、いいよ。」
 美咲は、ピアノの前で深呼吸をすると、松岡が弾いていた様にピアノを演奏した。
 弾き終えた美咲に、
「ずいぶん、懐かしい曲、知ってるんだね。この楽譜もオリジナル?」
 店長はそう言った。
「そうです。人に頼んで、楽譜に起こしてもらったんです。」
 楽譜を見ていたマスターは、これを作った人は、そうとうピアノをやってた人だね、そう言った。

「あの、さっきの曲、もう一度弾いてもらえませんか?」
 ギターを抱えた男性が、美咲の前に立っている。
「私、バイトの時間なんで、今日はこれで。」
 あの人をいつからあの場所にいたんだろう。
 美咲はちょっと気持ち悪く感じた。

 大学の昼休み。
 美咲は同じクラスて仲が良くなった3人と、食堂でご飯を食べていた。
 
「あの、1年の早瀬さんでしょ?」
 美咲の前に楽器屋で会った男性が立っている。
 驚いた美咲は、水を溢す。
「何やってんの、美咲。」
 友人の夏美が、机に置いてあるティッシュで水を拭いた。
「美咲、この人、2年の永井絃くん。私と同じ旭川の高校だったの。名前を教えてくれって言われて教えたけど、ダメだった?」

 授業が終わり、美咲は楽器屋に来ていた。

 ついて来た永井が美咲に話し掛ける。
「ねえ、北海道の人?」
「違う。福井からきたの。」
「へぇ、福井ってあの東尋坊のある?」
「そうだけど、それ以外もあるよ。」
「俺は北海道の中川出身。」
「中川ってどこにあるの?」
「あのね、北海道がこうあると、ここ。」
「ここから近い?」
「近いわけないだろ、北海道は広いんだから。」
「ふーん。」
「そうだ、今度おいでよ。山がすごく近いし、天塩川があるよ。北大は中川で研究もやってるし。」
「本当に。でも、どうやって、行けばいいの?」
「車で行こうよ。俺、乗せていくからさ。遠いからその日は、バイト休める?」

 少し前から、裕貴にラインに既読がつかなくなった。風邪でも引いたのかと思い、美咲も裕貴から連絡が来るのを待っていた。
 福井で会ってからもう、3ヶ月が経つ。冬休みに福井に帰った時も、裕貴は野球の練習があると言って帰って来なかった。
 
 コツコツ貯めたお金は30万を超えた。それでも、まだ半分も貯まっていない事に、美咲はため息をついた。

 ~ピンポン~
 玄関のチャイムがなる。
 美咲は慌てて、通帳をしまい、玄関に向った。

「行くよ。準備できてる?」
 絃は美咲の部屋を覗いだ。
「できてるよ。」
 美咲は、絃を玄関から追い出すようにして、鍵を閉めた。

「雪が降りそうだから、早く行くよ。」
 絃は美咲を車に乗せると、ここから5時間と表示された携帯のナビを見せた。
「うそ、そんなに?」
 美咲は驚いた。
「やっぱり、車がないと、こっちは困るね。」 
「汽車もあるよ。何度か乗り換えるけど。あっ、中川までは遠いから、途中のコンビニでなんか買っていこうか。」
 絃はそう言うと車を走らせた。

「ずっと思ってたんだけど、わざわざ、北大に来たのはなんで? 向こうにも、たくさん大学があったでしょ? 少し行ったら、東京だってあるし。」
「北海道で、自然とか命とかそういう勉強がしたかったの。」
「親は反対しなかったの?」
「そりゃ大反対したよ。ケンカも何回もしたし。」
「1人でくるの、不安じゃなかった?」
「不安もあったけど、私、向こうでは、そんなに友達いなかったから。勉強の邪魔になるものはみんな捨てて暮らしてたし。」
「絃さんは、どうして工学部を選んだの?」
「俺はもともと科学とか好きだったから。」
「ギターはいつから始めたの?」
「高校の時。誰も教えてくれないから、独学で勉強した。俺は高校から家を出て一人暮らし。その時、ギターを覚えたんだ。今は大学の仲間とか、バイトの仲間とか、時々一緒に練習してる。あっ、そうだ。家にピアノあるよ。母さんの物置になってるから、もらうといいよ。」
「家にピアノあるの?」
「美咲ちゃんの家にもあるでしょ? あんなにピアノ、上手なんだし。」
「家はピアノがないの。それに、勉強の邪魔になるからって習わせてもらえなかった。」
「へぇー、それならどこでピアノを覚えたの?」
「高校の頃の音楽の先生が教えてくれたの。キレイで、ちょっと変わってる先生。時間があると音楽室に行って教えてもらった。あの曲の楽譜は、先生の彼氏が作ってくれたものなの。」
「へぇー、そうだったんだ。」
「楽器は孤独、楽器に触る人も孤独って、よく言ってた。」
「変わった先生だね。」
「そうでしょう?」
「でも、なんとなく言ってる事がわかる。」
 
 美咲は松岡の事を思い出していた。音楽は邪魔にならない、そう言っていた松岡が懐かしい。
 ペットボトルの蓋を開けて、お茶を飲むと、美咲は窓を見つめた。
「だんだん、何にもない景色になるよ。眠くなったら寝るといいから。」
 絃は美咲にそう言った。

 車の中でウトウトしていた美咲は、深々と降る雪を見て、窓を開けた。
「開けると寒いよ。」
「触ってみたいの。こっちの雪ってサラサラしてるんでしょ?」
「そうだよ。でも、手を出すと危ないから、今は窓閉めて。」
 ごめん、美咲はそう言うと、足跡のない真っ白な平原を見て、すごい、と絃に言った。
「本格的に降ってきちゃったから、少し、急ぐから。」
「あっ、うさぎ。」 
 美咲は無邪気に絃に教えた。
「熊が出るかもよ。」
 絃は美咲を怖がらせた。
「本当に?」
「これから、こういう所で研究するなら、熊なんか、たくさん会えると思うよ。」
「やだ、会いたくないよ。」
「熊だって、人に会いたくないさ。」
「絃さんは、見たことあるの? ヒグマ。」
「足跡だけね。あんなでっかいのに、小さな木の実を食べてるんだろう。」
「お腹いっぱいになる量ってどれくらいなんだろうね。普段はちゃんと人間と住み分けしてるのに、どうして急に凶暴になるんだろう。」
「人だって同じだろう、自分の領域に入られたら攻撃しようとする。」
「じゃあさ、結婚する時って、境界線をなくする誓いなの?」
「そればっかりじゃないと思うけど。」
「美咲ちゃんの家から、海は近いんでしょう?」
「近いよ。」
「こっちは海がないから、時々海の音が聞きたくなる。」
「波の音?」
「風の音も、ウミネコの声も。海の音。」
 二人は、車の中で途切れる事なくおしゃべりしていた。
 家族ともあまり喋らない美咲は、こんなに笑って話したのは、久しぶりだった。
 
 少しだけ、裕貴の事を思い出した。
 どうしてるかな。
 裕貴、私、好きなの人ができた。
 裕貴はどうして連絡が取れないの?
 向こうで好きな人、できたんでしょう。

 天塩川は、そこが大地なのか川なのかわからないほど、真っ白になっていた。
「川に張った氷が、いっせいに解けて流れていくのは圧巻だよ。ここの人達は、毎年、それがいつか楽しみにしてる。」
「川の氷が解けるって、見てみたい。」
「いいよ。また連れてくるから。ほら、あの橋を渡ったら、もうすぐ町が見えてくる。」

 ここ俺の家、と絃は車を停めた。
「雪が深いから気を付けて。」
 美咲は車から降りると、くるぶしを超えて、ふくらはぎまで雪に埋まった。
「えっ、待って。すごい深い。」
 絃は美咲の手を取ると、
「俺の足跡の後について来て。」
 と言った。
 玄関を開けると、絃の家族はいなかった。机に置いてある手紙には、釧路に行ってくる。ご飯は冷蔵庫に用意してあるから。そう書いていた。

 絃はストーブをつけると、雪で濡れた靴を持ってきて、ストーブの前に並べた。
「このままなら風邪引くよ。」
 そう言うと、美咲の上着と自分の上着をハンガーに掛けて、ストーブの前に美咲を座らせた。
「ごめん、気がつかなくて。絃さん、ありがとう。」
 美咲がそう言うと、絃は美咲の隣りにくっついて座った。
「少し近くない?」
「大丈夫。」  
「なんもない所だろ。」
「見たことのないものばっかり。雪がすごく眩しいし。」
 絃は美咲の肩を抱いた。

「俺は中学3年まで釧路にいたんだよ。親父は釧路の製紙工場に勤めてて、母さんは看護師をやっていたんだ。中学2年の夏、母さんが急に仕事を辞めて、中川に行くって言い出して、俺は一緒に母さんに付いてここにきた。兄貴は高校生だったから、そのまま釧路で父さんと暮らして、家族はバラバラだよ。
釧路の学校は、ひと学年4クラスもあったのに、こっちは全学年集めても、釧路のひとクラスにもならない人数だし、サッカーはできなくなるし、最初は母さんにすごく反発した。」
「お母さんは、なんでこっちにきたの?」
「職場でいろいろあったみたいだよ。詳しくは話さないけど、子供が亡くなったって。電話で話してるのを聞いた事がある。今、虐待とかいろいろニュースにもなってるだろう。母さんもそんな事があったんじゃないかな? それで、上司とケンカして、その日のうちに辞めてきたって聞いた。たまたま、ここが募集してて、俺にも兄貴にもこれからお金がかかるし、親父が行ってた製紙工場も経営が厳しくってさ、母さんは働かないとダメだから、こっちに来ることをすぐに決めたみたい。」
「ここは、ずっと二人で住んでるの?」
「そうだよ、ここはね、町の住宅。釧路には親父と兄貴がいるし、家があるからね。母さんは時々帰ってるんだ。」
「お兄さんは、釧路にいるの?」
「釧路の教育大にいるよ。来年卒業。美咲の家族は、みんな福井にいるの?」
「うちはみんな福井にいる。兄も帰ってきて、家を継いだの。」
「何をやってる家なの?」
「歯医者。うちはみんな歯医者なの。私、歯を削る音が苦手でね。絶対、歯医者にはなりたくなかった。」
「あの音、好きな人なんかいないだろ。」
「ずっとあの音と、消毒の匂い。だから、早く家を出たかった。」

「絃さん、ピアノ弾かせて。」
「ああ、いいよ。こっち。」
「隣りの人、怒るかな?」
「今日はいないみたい、車ないみたいだし。」
 美咲は、松岡がフルートで演奏していた月光を弾いた。
「あれ、今日はあの曲じゃないの?」
 美咲は絃を見た。
「さっき、高校の先生から教えてもらったって言ってたでしょ? 先生、この曲をフルートで弾いててね。すごくキレイだったの。絃さんのお母さんは、ピアノ弾いてたんでしょ?」
「昔ね。兄貴にも俺にも習わせたんだけど、すぐにやめた。」

 絃は美咲の隣りに座ると、教えてと、ピアノ手を置いた。
「手、大きいね。」
 美咲は絃の手と自分の手を合わせた。
 絃は美咲の手をぎゅっと握ると、雪晴れたら、町を案内する、すぐに終わるけど、そう言った。

 隣りでぎこちなくピアノを弾く絃の手が、とても愛おしく感じた。
 雪が止み、絃が美咲に町を案内した。 
「町がおもちゃみたい。」
「ここの道を通って学校へ行くんだ。」
 絃は中学校へ向う。
「踏切、けっこうあるんだね。よく電車くるの?」
「こっちは汽車。ディーゼルのね。上に線がないだろ。汽車はあんまり来ないよ。」
「ねえ、ここは?」
「こっちが小学校。中川は給食がないから、毎日母さんは弁当作ってくれた。釧路にいた頃は、母さんはいつも帰ってくるのが遅くてさ、親父も夜勤があったし、兄貴と二人でコンビニとか、ほか弁とか食べてて、こっちにきて母さんのご飯久しぶりに食べた気がしたよ。向こうにいる兄貴には、それができなかったから、母さんはこうして、よく釧路に帰るんだ。今は帰っても、兄貴にしつこいって言われるみたいだけど。」

「あっ、たぬき!」
 美咲が絃に、ほらほら、というと、あれはアライグマ、と絃は言った。
「アライグマって、日本にいるの?」
「こっちの動物じゃないけど、野生化したみたいだよ。動物だって生きるために必死だよ。これで終わり。帰ろう。」
「さっきの橋、行ける?」
「いいよ。でも、なんで?」
「夜の川、見てみたい。」
「雪が積もって川かどうかもわからないと思うよ。」
「それでも見てみたい。」

 絃は車を走らせた、橋の真ん中までやってきた。美咲は車から降りて、雪を触った。
「かき氷みたい」
 白い息を吐きながら、サラサラで手から逃げていく雪を触っていた。
 たちまち真っ赤になった美咲の手を、絃は握った。
「冷たいから、もうやめな。」
 美咲は空を見て、まだ明るい、と絃に聞いた。
「また、雪が降るかもしれないから、早く帰ろう。」
 絃は冷たい美咲の手を、自分の頬にあてると、美咲を抱き寄せた。
「誰かに見られてるかもよ。」
 美咲はそう言うと、
「誰も見てないよ。」
 そう言って絃は美咲にキスをした。 

 第4章

 11月23日。
 裕貴からの連絡はすっかりなくなっていた。美咲も、すっかり裕貴との約束は忘れていたが、カレンダーについている印を見て思い出した。
 
 彼女でもできたのかな、野球の練習が忙しくて、もう約束なんて忘れてしまったんだろう。
 私もこっちで、好きな人ができたし、お互い邪魔しないで暮らしていけばいい。

 携帯が鳴った。裕貴からかと思い、美咲は手に携帯の画面を見たら、母からだった。

「もしもし、美咲。裕貴くん、亡くなったって。」
「えっ、どうして。」
「裕貴くん、去年脳腫瘍が見つかってね。何回も手術したんだけど、助からなかったの。昨日、亡くなったって裕貴くんのお母さんから電話があって、美咲によろしくって。お母さん、お父さんとこれからお通夜に行ってくるから、美咲の分もきちんと送ってくるからね。」
「お母さん、私もそっちに行く。」 
 泣いている美咲に、
「大丈夫。裕貴くん、大学ではすごい人気者だったみたいで、   
 次から次に人がきてるみたいだよ。 裕貴くんのお母さん、美咲には、美咲の知ってる裕貴くんのままで覚えててほしいって言ってたから。」
「裕貴、なんでもう少し、早く知らせてくれなかったんだろう。」
「美咲、わかってあげな。裕貴くんは、そういう所見せたくなかったんだよ。」

 裕貴の家に泊まった時、飲んでいた薬の事を思い出していた。あの時から、病気だってわかってて、何も言ってくれなかったの?
 こんなに早く会えなくなるなら、裕貴の近くにいれば良かった。

 美咲はバイトを休み、一晩泣いていた。

 次の日。
 大学を休んだ美咲を心配して、絃が会いにきた。
 泣き腫らした美咲の目をみて、どうしたの? と絃は美咲を抱きしめた。
「幼馴染が死んでしまったの。高校の頃、約束した人。」
 絃は何も言わず、美咲を見つめていた。
「彼に告白された11月23日、誰とも付き合ってなかったら、毎年学校で会おうって約束してたのに。去年からぜんぜん連絡がなくて、彼女でもできたんだろうって思ってたけど、こんな事になるなら、裕貴に会いに名古屋へ行けば良かった。」
 泣きじゃくる美咲を見て、

「学校に行っておいで。彼はきっと待ってると思うよ。」
 絃はそう言った。
「絃、ごめん。」
 美咲は謝った。
「大切な人なんでしょ?」
「会いに行ってもいいの?」
「会ってきなよ。」
 
 絃は美咲の頭に手をおくと、早く行っておいで、そう微笑んだ。
 
 それから空港まで車で送ってくれた絃は、美咲の肩をしっかり掴み、気を付けてな、そう言った。

 福井に着き、裕貴の家まで急いで向った美咲は、裕貴の家に入りきれないほどの人がいることに驚いた。

 美咲に気づいた近所の人が、人を縫うように、こっちこっちと美咲を裕貴の家に案内した。
 美咲が来たことに驚いた裕貴の両親は、お線香、あげてやって、と美咲を祭壇の前に座らせた。
 美咲が最後に会った時よりも、たくましくなってさらに日に焼けた裕貴の遺影に、美咲は涙が止まらなくなった。
「美咲ちゃん、笑って送ってやって。いつも泣いてる裕貴を笑わせてくれたじゃない。」
 裕貴の母がそう言って涙を流した。
 美咲は裕貴に手を合わせると、心の中で、裕貴ごめんね、とそう言った。

「昨日、会う約束してたんでしょ? 裕貴、それまで頑張ったのよ。」
 裕貴の母は美咲の手をとり、
「もう、ゆっくり休ませてあげて。美咲さんも、時々思い出してくれるくらいの方が裕貴は安心してると思う。」
 そう言った。

 裕貴の家を出て、美咲は学校へ向った。裕貴と歩いた道を通り、校門からグランドに回ると、喪服姿の松岡が、音楽室を見つめていた。

「先生。」
「あっ、早瀬さん。」
「先生も来てたの? 裕貴のお葬式。」
「そう。山川くんが、早瀬さんを探して音楽室に来たこと、忘れられなくてね。早瀬さんは、ずっと山川くんと連絡してたの?」
「ううん。去年からずっと連絡もしてないし、裕貴の病気の事も知らなかった。」

 涙がこぼれた美咲を、松岡は抱きしめた。
「早瀬さん、あんまり泣くと、山川くんも心配するよ。」
 松岡は美咲にそう言うと、山川くんってあんな感じだった? と美咲に聞いた。
「先生、裕貴、大学で毎日野球やって、たくましくなったんだから。先生の知ってる高校生の山川くんじゃないんだって。」
「そうよね。私の中ではずっとあの頃の山川くんのままなんだけど。美咲ちゃんもあの頃のまま。」
「相変わらず、変な先生。」
 美咲は涙を拭うと、
「先生。私、ピアノ買おうとバイトしてるの。あと少しで買える。」
 そう松岡に言った。松岡の顔がパアと明るくなった。
「そう、そうなの! 早瀬さん、そのピアノ、大切にしてあげてね。」

 家に寄った美咲は、
「美咲、やっぱり来たのね。」
 母に言われた。
「お父さんは?」
「仕事に出てるよ。」
「今日は泊まって行くんでしょ?」
「うん。明日、11時の飛行機だから。」
「裕貴くんの所、すごい人だったでしょ。」
「すごい人だった。」
「野球、好きだったものね。幼稚園の頃は、運動会のピストルの音も怖がってたのに。」
「そうだったね。お母さん、よく覚えてるね。」
 美咲は久しぶりに母と笑った。

「北海道は寒い?」
「うん。寒い。去年、アライグマ見てね、びっくりした。」
「そんなの町の中にいるの?」
「ううん。少し離れた所で見たの。こっちはすぐ海だけど、北海道は山と川がすごく近いの。」
「そう。そんなにたくさん話す事あるなら、たまには美咲から電話くれればいいのに。お父さんも心配してるのよ。」
「そういえばお母さん、私、バイトしてピアノ買うの。」
「えっ、何! いつ決めたの?」
「去年、楽器屋さんで中古のピアノ見つけて、店長さんに頼んでとっておいてもらってるの。」
「美咲、ピアノなんて弾けないでしょ。」
「弾けるようになったの。高校の頃の音楽の先生に教えてもらって。ほら、私ってなんでも簡単にできちゃうじゃない。」
「そういう勝ち気なところは、誰に似たのかしらね。」
 
 兄が彼女を連れてきたので、その日の夕食は賑やかだった。
 母は美咲に
「お母さん、あの人と上手くやれるかな。」
 母がキッキンで言った。
「うまくやってよ。」
「美咲、帰ってきて。」
「ダメ。ピアノ届いたら、ずっと北海道にいる。」

 空港に着くと、絃が待っていた。
「おかえり。」
 絃は何も聞かなかった。
「天塩川は凍ったの?」
「まだ、凍ってないよ。年が明けたら川全体が凍る。凍ったら、連れて行ってあげるよ。溶ける時もね。」
「やっぱり、北海道は寒い。」
「そう。もしかしたら今日は初雪が降るかもな。」
「絃は、昨日何をしてたの?」
「何も。美咲を待ってただけ。美咲は、学校に行ってきたの?」
「行ってきたよ。ピアノを教えてくれた先生に会った。」
「そうなんだ。先生、元気だった。」
「元気だったけど、やっぱり、変な先生だった。幼馴染も、いろんな人に、たくさん思い出を残していたよ。」
「疲れた?」
「ううん。」

 美咲は、絃の車に乗ろうとして、足元の水たまりに気づかず、滑って転びそうになった。 
「大丈夫?」
「水たまりって凍るの?」
「凍るよ。危ないから気を付けないとダメだよ。」
 
 凍った水たまりを覗いていた美咲は、ゆらゆらと揺れない自分の顔を見ていた。
「ここに月が映ったらキレイだろうね。」
 美咲は絃にそう言った。
「月は月の色で映るからね。」
 絃はしゃがみ込む美咲を立たせると、
「早く乗って。お腹空いたから、なんか食べに行こうよ。」
 そう言った。

 第5章

 北海道に住んで2回目の冬がきた。
 昨日、ピアノが美咲の部屋に届いた。
「とうとう、学生さんの所に行く事になったのか。」
 通い続けた楽器屋さんの店長は、ピアノを愛おしそうに触っている。
「嫁に出すみたいだよ。ここにこのまま置いて、また弾きにくるって言うのはどう?」
 店長の言葉に、大切にしますから、そのピアノを私にくださいと美咲は頭を下げた。
「最初は本気にしてなかったけど、本当にこのピアノを手に入れるとはね。学生さん、これからも、ちょくちょく遊びにきてよ。彼氏にもさ、うちはギターも扱ってるから、二人で寄っていくようにいってよ。」

 美咲は部屋の中で、まだひんやりとしているピアノに芽衣は頬をつけた。黒いピアノに映る自分の顔はまるで水たまりに映る顔のようだった。

 ゆっくり蓋をあけ、赤いの敷布をとる。何度も弾いてきたピアノなのに、美咲の部屋にきたピアノは、鍵盤の一つ一つが溶け切らない氷のようだった。

 美咲は楽譜を広げ、ショパンのノクターンを弾いた。
 松岡がいつも躓く箇所で、美咲も躓いた。

「こういう事か。」

 美咲は、少し前の小節からやり直し、何回か練習するとスラスラと弾けるようになった。
 
 玄関が開いて、絃が入ってくる。
「ピアノ、来たんだね。」
「さっき、来たの。」
「母さんのピアノ、あげるって言ったのに。」
「中川に行ったら、また弾かせて。」
「わかった。美咲、天塩川、全部凍ったよ。」
「本当に?」
「行ってみる?」
「うん。行きたい。」
「わかった。明日、雪予報だから、これから行かない? せっかくピアノがきたのに、悪いんだけど。」
「いいよ。今、準備するから待ってて。あっ、今日、お母さんいるの? これ、うちの親が持たせてくれたお土産。食べてみて。」
「家の母さんなんでも喜ぶと思うよ。雑食だし。さっき美咲がくるかもって連絡したら、ブランデーケーキ買って待ってるって言ってた。」
「ブランデーケーキ?」
「中川のお菓子屋さんに売ってるお菓子。けっこう、お酒の匂いがするよ。」
「へー、私食べても大丈夫かな。」
「お菓子だよ。美咲、まだ二十歳超えてなかった?」
「私は3月生まれだもん。」
「そうだった。去年、美咲の誕生日に天塩川の氷が溶けるかもって、話してたんだっけ。」 
「そうだよ。誕生日が過ぎてもまだ解けなくて、去年は見れなかったから、今年は絶対見に行きたい。」
 美咲は荷物を用意して絃の待つ車に乗ると、
「いいでしょ。」
 と防寒ブーツを見せる。
「いつも、ベチャベチャになるから、今年は用意したの。」
「いつも、好き勝手に歩くから汚れるんだって。俺がせっかく足跡のつけてるのに。」
「絃の一歩、大きいんだよ。」
 美咲は車の中で、うさぎがいた、たぬきがいた、キツネがいたと、よく喋っていた。絃はそれを聞きながら、
「熊出たらどうする?」
 そう言ってまた美咲を脅かした。
「夏に授業で、山に行くから、今からすごく怖いんだ。」
「そういう勉強してるなら、熊に会ったって仕方ないよ。熊だって、生活してるんだし。」
「絃のお母さんは、一人で怖くないの?」
「一番怖いのは人間だよ。」
「そうだった。」
 美咲は笑った。
 見慣れた橋の前までくると、縦長に広がる中川の町が見える。
「あっ、電車が見える。」
「こっちは、汽車だよ。これ、特急だね。長いから。」
 橋の下の天塩川は、凍ってその上に雪が見える積もっていた。
「少し、降りていい?」
 美咲の言葉に、絃は橋の真ん中で車を停めた。
「やっぱり川の音、聞こえないね。」
「そうだね。」
「福井の海は、凍らないの?」
「いつも、波の音が聞こえるよ。」
 美咲は、手袋を脱ぎ、雪を触った。
「風に吹かれたらなくなるんだね。こんなにサラサラなのに、一瞬で、積もるなんてすごい量の雪が降るんだね。」
「寒いから、行こう。」
 絃は、しゃがんでいる美咲を立たせた。
 少しよろけた美咲を、両手で支えると、見上げた美咲にキスをして抱きしめた。
「誰か見てるかも。」
「誰も見てないって。」
 静かな澄んだ空気が、二人を包んでいく。
 足元の雪が風に乗ってサラサラと舞い上がる。
 美咲は、真っ暗な夜空が水のようにゆらゆらと揺れている気がして、見上げていた。
「どうしたの?」
 絃が聞くと
「なんでもない。早く行こう。寒くなった。」
 美咲は絃の車に乗り込むと、車の中に連れてきた冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

月弥総合病院

僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

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