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10章
心のささくれ
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さっき自分の肩を通り抜けていった湿った風は、山から吹き下ろした風でもなく、海から生まれた風でもない。ビルとアスファルトの間を行ったり来たりしながら、やりきれない人々のため息が作り上げた冷たい風だ。人が少なくなった駅までの通りに響く足音は、そんな冷たい風にあっという間に消えていく。
大晦日の夜。
最終の列車で実家へ向かっていた凪は、ガザガザになった手をハンドクリームを塗った。クリームが少し沁みて痛みのある自分の手は、マニュキュアも指輪も似合わない荒れた肌になっていた。
最近はお金の匂いばかりではなく、人が触れたものが、自分の指に移る感覚に悩まされた。何度手を洗っても、汚れている気がして必要以上にハンカチで手を擦った。青い手袋に指を入れると、まるで鎧ができた様に心がホッとした。
母の待つアパートに着いた。
玄関を開けるなり、いい香りが凪を包む。
「凪、おかえりなさい。」
母が言うと、
「凪、こっち。」
姉の隣りには見知らぬ男性が座っていた。
「お母さん、凪がきたから私達は帰るね。」
姉とその男性は席を立った。
「もう少しいればいいのに。」
母がそう言うと、
「これから初詣に行くのよ。」
姉が言った。
「ケンジさん、妹の凪。」
凪の前に立ち止まった姉は、男性を凪に紹介した。
「はじめまして。」
男性は凪に頭を下げた。
「はじめまして。」
凪も頭を下げた。
「凪は相変わらず無愛想ね。」
姉はそう言って男性の腕を凪の前から引っ張った。
「お蕎麦用意してあるわよ。」
母は凪を食卓に呼んだ。
「凪、その手、どうしたの?」
箸を持っていた凪の手を見て、母は驚いた。
「洗っても洗っても匂いが気になるの。」
凪はそう言って手の甲を撫でた。
「匂いって何の?」
「お金。あと、いろいろ。人の触ったものってなんだか…。」
「過敏なのかしらね。家にいた時はそんなじゃなかったのに。」
「バイトを始めてからそうなの。」
「どんなアルバイト?」
「スーパーのレジ。」
「そう、それでお金の匂いが気になるんだ。バイトなんて辞めたら?あの人からの仕送り、もう少しもらおうか?」
「ううん。きっとそのせいで、お金が汚く感じてるんだよ。」
「困ったわね。別のバイトにかえたらどう?家庭教師とかそんなのがいいんじゃない。」
「ううん。私は今のバイトでいいの。」
凪は少しだけそばを啜ったが、すぐに箸を置いた。
「それしか食べないの?」
「お母さん、おにぎり作って。この手じゃ握れないから、ずっと食べたくて。」
「いいわよ。それなら先にお風呂入ってきなさい。」
入浴剤の成分が手に沁みる。
自分は、どうしてうまく生きられないんだろう。素直に喜ぶ事も、思いをぶつける事もできない。気持ちを閉じ込めたら、周りからいい子だって言われていたのに、いつの間にか近寄りにくい奴って言われる様になった。
凪は湯船のお湯を顔を掛けた。
「ほら。これを塗るといいわよ。」
母はワセリンを渡した。
「何も入ってないクリームの方が、沁みないと思うよ。」
テレビの前でおにぎりを頬張っていた凪の横に母が座った。
「学校は楽しい?」
「ううん。」
凪は首を振った。
「本当に困ったわね。」
母はそう言うと、ガサガサになっている凪の手を撫でた。
「何も悩まなくてもいいんだから。」
母の優しい言葉に、急に涙が溢れてくる。
「凪はお父さんが大好きだったからね。」
母が言った。
「違うよ、お母さん。あんな人なんて、大嫌い。」
どうにもできない事だとわかっていても、時々思い出す父の笑顔は、心の底では母を裏切っている様だ。懐かしい気持ちを否定する度に、ささくれだった手の甲が、ヒリヒリと痛む。
次の日。
母と出掛けた初詣は、本殿までの長い列に入ってしまうと、引き返す事もできず、そのまま人の波に飲まれていった。
たどり着いた本殿の前。
何も頭に浮かばないまま手を併せると、帰りの石段下で、也と也の家族と会った。
「あら、凪ちゃん。」
幼い頃からよく知ってる也の母が、凪に声を掛けた。母親同士が、にこやかに話している横で、也は凪に小さく手を上げた。
「也くん、ずいぶん背が伸びたのね。すごくモテるでしょう。」
凪の母は也を見てそう言った。
「中身はまだまだ子供ですよ。」
也の母が笑って言う。
すれ違いざまに凪に変顔をした也は、幼い頃の也と同じだった。好きだと言ってくれた高校最後の冬の思い出なんて、幻だったのかもしれないと凪は思った。
家に帰ると、凪はすぐに手を洗った。
2日の夜に自分のアパートに帰ってから、3日の朝にはスーパーのレジに立っていた。
年末にも人でごった返していたスーパーだったが、年が明けるとまた同じ様に人が並んでいる。
「今日は何時まで?」
カゴに果物を入れた澤村がレジの前に立っていた。
「教えません。」
凪がそう言うと、
「じゃあ、そこでずっと待ってるから。」
澤村はスーパーの入り口でこっちを見ていた。
凪は目が合うと手を振る澤村の事が気になって、客が切れた時に澤村の元へ駆け寄った。
「仕事、終わった?」
「違いますよ。今日は15時で終わりです。それだけ。」
凪はそれだけ言うと、急いでレジへ戻った。
15時半。
店はまだ開いていたけれど、冬休みの間は早い時間のシフトにしてもらった。
澤村に、また、揶揄われているだけなんだろうと思いつつ、心のどこかでは澤村が待ってほしいと思い、凪は駐車場に向かっていた。
「凪ちゃん。」
澤村は凪を捕まえると車に乗せた。
「実家には帰ったの?」
澤村が聞いた。
「うん。」
「俺も昨日戻ってきたところ。」
「そうですか。」
素っ気ない返事をしているのに、澤村は優しく答えてくれる。
「今日から店が開くって聞いたから、きっと凪ちゃんに会えると思ってね。」
そんな風に隣りで微笑まれると、自分の心が余計に醜く感じてしまう。
「いろんな女の人にそう言ってるくせに。」
凪は澤村に甘えたい気持ちを隠す様に、そんな言い方をすると、膝の上で手をギュッと握った。
「そうだね。今年に入ってから近づいた女の子は、凪ちゃんで5人目だよ。」
澤村の言葉に凪は目を丸くした。
「これから凪ちゃんの家に行ってもいいかな。」
澤村は車を走らせた。
「澤村さん。」
「何?」
「澤村さんは、お母さんを憎んでますか?」
「アハハ、そりゃそうだろう。俺を捨てていった奴なんか大嫌いだよ。女なんか、皆そうだろうって思えてくる。」
「男だって同じですよ。」
「まあな。だから俺は本気の恋愛なんかするつもりはないよ。」
「そうやって生きてたりしたら、年をとって、寂しいとか思うんじゃないですか?」
「思うんじゃないの。家族がいたらなぁってさ。」
凪は窓の外を眺めると、澤村に気づかれない様にため息をついた。
アパートの前に着くと、凪は鍵を開けるのを少し躊躇った。
「早く開けてよ。寒いから。」
澤村はそう言うと、凪の手から鍵を奪った。
「おじゃまします。」
先に家に入った澤村は、
「凪ちゃん、本当にここに住んでるの?」
そう言ってテーブルの前に腰を下ろした。
「ここには帰って寝るだけだし。」
凪は洗面台へむかった。
手袋をコートのポケットに入れ、コートを脱いですぐに、手にたくさんの石鹸をつけて洗い始めた。
水が流れる音が長いので、澤村が心配して洗面台にやってきた。
「ずいぶん洗うんだね。」
「うん。」
凪はタオルで手を拭くと、ひび割れている凪の手を澤村が触った。
「ダメ!」
凪がまた手を洗おうとすると、澤村は凪を抱きしめた。
「凪ちゃんは汚れてなんかいないよ。」
澤村は凪の手を両手で包んだ。
「果物買ってきたから、一緒に食べようか。」
澤村の隣りに座り果物を食べていると、手の中が甘酸っぱい匂いに変わった。
「たくさん食べなよ。」
澤村が言った。
凪はミカンの皮をむいた。少し手が沁みたけれど、
パーッと広がる柑橘の爽やかな香りに、自然と顔もほころんでくる。
突然、澤村は凪にぴったりと体を寄せると、頬を包んで唇を重ねた。
「ごめんなさい…。」
凪は澤村から離れた。
「ごめんなさい。こういうの、苦手です。」
凪が俯いていると、澤村は落ちているミカンを拾ってテーブルに置いた。
「晩ごはん作ろうか。」
澤村は何をもなかった様にキッチンへ向かった。
嫌な空気が流れる中。
凪はミカンのホコリを手で払うと、その実を口に入れるだけ入れて、澤村の後をついて行った。
「アハハ、ハムスターみたいになってるよ。」
キッチンにきた凪の頬を見て澤村が笑った。
「凪ちゃん、いい加減、大人になりなよ。」
凪には澤村が何を考えているのかわからなかった。急に優しくなったり、怖い目をしたり。澤村についていく女性は、こんな彼のギャップが、いつしか自分だけに見せている表情だと勘違いするのだろう。
澤村は冷蔵庫を覗いている。
「凪ちゃん、中には水しか入ってないんだけど。」
「そっか。年末に片付けたんだ。」
「これじゃあ、何も作れないよ。仕方ない。今日はラーメンでも食べに行こうか。」
外に出られると思うと、居心地の悪い空気から開放されて少し楽になる。凪は笑顔で頷いた。
夕食を食べ終え、澤村はまた凪のアパートにやってきた。
「本当に泊まるつもりなんですか?」
凪が澤村に聞くと、
「お風呂はどっち?」
澤村は洗面台の方に向かった。
「凪ちゃん、これ以上手は洗わないでよ。」
澤村は服を脱ぎ始めた。
「ちょっと待って!」
凪は慌ててその場を離れると、浴室に入ったのを見計らって、脱いだ服の近くにバスタオルを置いた。
曇りガラスのむこうに見える澤村の裸のシルエットから、凪は目を反らした。こうやって何人もの女の人と、夜を過ごしてきたんだろう。体だけが目的だった付き合いもあるだろうし、相手が燃え上がってしまった付き合いだってある。澤村が女の人にしている仕返しは、寂しさと虚しさを、女性達に振り掛ける事なんだ。
大晦日の夜。
最終の列車で実家へ向かっていた凪は、ガザガザになった手をハンドクリームを塗った。クリームが少し沁みて痛みのある自分の手は、マニュキュアも指輪も似合わない荒れた肌になっていた。
最近はお金の匂いばかりではなく、人が触れたものが、自分の指に移る感覚に悩まされた。何度手を洗っても、汚れている気がして必要以上にハンカチで手を擦った。青い手袋に指を入れると、まるで鎧ができた様に心がホッとした。
母の待つアパートに着いた。
玄関を開けるなり、いい香りが凪を包む。
「凪、おかえりなさい。」
母が言うと、
「凪、こっち。」
姉の隣りには見知らぬ男性が座っていた。
「お母さん、凪がきたから私達は帰るね。」
姉とその男性は席を立った。
「もう少しいればいいのに。」
母がそう言うと、
「これから初詣に行くのよ。」
姉が言った。
「ケンジさん、妹の凪。」
凪の前に立ち止まった姉は、男性を凪に紹介した。
「はじめまして。」
男性は凪に頭を下げた。
「はじめまして。」
凪も頭を下げた。
「凪は相変わらず無愛想ね。」
姉はそう言って男性の腕を凪の前から引っ張った。
「お蕎麦用意してあるわよ。」
母は凪を食卓に呼んだ。
「凪、その手、どうしたの?」
箸を持っていた凪の手を見て、母は驚いた。
「洗っても洗っても匂いが気になるの。」
凪はそう言って手の甲を撫でた。
「匂いって何の?」
「お金。あと、いろいろ。人の触ったものってなんだか…。」
「過敏なのかしらね。家にいた時はそんなじゃなかったのに。」
「バイトを始めてからそうなの。」
「どんなアルバイト?」
「スーパーのレジ。」
「そう、それでお金の匂いが気になるんだ。バイトなんて辞めたら?あの人からの仕送り、もう少しもらおうか?」
「ううん。きっとそのせいで、お金が汚く感じてるんだよ。」
「困ったわね。別のバイトにかえたらどう?家庭教師とかそんなのがいいんじゃない。」
「ううん。私は今のバイトでいいの。」
凪は少しだけそばを啜ったが、すぐに箸を置いた。
「それしか食べないの?」
「お母さん、おにぎり作って。この手じゃ握れないから、ずっと食べたくて。」
「いいわよ。それなら先にお風呂入ってきなさい。」
入浴剤の成分が手に沁みる。
自分は、どうしてうまく生きられないんだろう。素直に喜ぶ事も、思いをぶつける事もできない。気持ちを閉じ込めたら、周りからいい子だって言われていたのに、いつの間にか近寄りにくい奴って言われる様になった。
凪は湯船のお湯を顔を掛けた。
「ほら。これを塗るといいわよ。」
母はワセリンを渡した。
「何も入ってないクリームの方が、沁みないと思うよ。」
テレビの前でおにぎりを頬張っていた凪の横に母が座った。
「学校は楽しい?」
「ううん。」
凪は首を振った。
「本当に困ったわね。」
母はそう言うと、ガサガサになっている凪の手を撫でた。
「何も悩まなくてもいいんだから。」
母の優しい言葉に、急に涙が溢れてくる。
「凪はお父さんが大好きだったからね。」
母が言った。
「違うよ、お母さん。あんな人なんて、大嫌い。」
どうにもできない事だとわかっていても、時々思い出す父の笑顔は、心の底では母を裏切っている様だ。懐かしい気持ちを否定する度に、ささくれだった手の甲が、ヒリヒリと痛む。
次の日。
母と出掛けた初詣は、本殿までの長い列に入ってしまうと、引き返す事もできず、そのまま人の波に飲まれていった。
たどり着いた本殿の前。
何も頭に浮かばないまま手を併せると、帰りの石段下で、也と也の家族と会った。
「あら、凪ちゃん。」
幼い頃からよく知ってる也の母が、凪に声を掛けた。母親同士が、にこやかに話している横で、也は凪に小さく手を上げた。
「也くん、ずいぶん背が伸びたのね。すごくモテるでしょう。」
凪の母は也を見てそう言った。
「中身はまだまだ子供ですよ。」
也の母が笑って言う。
すれ違いざまに凪に変顔をした也は、幼い頃の也と同じだった。好きだと言ってくれた高校最後の冬の思い出なんて、幻だったのかもしれないと凪は思った。
家に帰ると、凪はすぐに手を洗った。
2日の夜に自分のアパートに帰ってから、3日の朝にはスーパーのレジに立っていた。
年末にも人でごった返していたスーパーだったが、年が明けるとまた同じ様に人が並んでいる。
「今日は何時まで?」
カゴに果物を入れた澤村がレジの前に立っていた。
「教えません。」
凪がそう言うと、
「じゃあ、そこでずっと待ってるから。」
澤村はスーパーの入り口でこっちを見ていた。
凪は目が合うと手を振る澤村の事が気になって、客が切れた時に澤村の元へ駆け寄った。
「仕事、終わった?」
「違いますよ。今日は15時で終わりです。それだけ。」
凪はそれだけ言うと、急いでレジへ戻った。
15時半。
店はまだ開いていたけれど、冬休みの間は早い時間のシフトにしてもらった。
澤村に、また、揶揄われているだけなんだろうと思いつつ、心のどこかでは澤村が待ってほしいと思い、凪は駐車場に向かっていた。
「凪ちゃん。」
澤村は凪を捕まえると車に乗せた。
「実家には帰ったの?」
澤村が聞いた。
「うん。」
「俺も昨日戻ってきたところ。」
「そうですか。」
素っ気ない返事をしているのに、澤村は優しく答えてくれる。
「今日から店が開くって聞いたから、きっと凪ちゃんに会えると思ってね。」
そんな風に隣りで微笑まれると、自分の心が余計に醜く感じてしまう。
「いろんな女の人にそう言ってるくせに。」
凪は澤村に甘えたい気持ちを隠す様に、そんな言い方をすると、膝の上で手をギュッと握った。
「そうだね。今年に入ってから近づいた女の子は、凪ちゃんで5人目だよ。」
澤村の言葉に凪は目を丸くした。
「これから凪ちゃんの家に行ってもいいかな。」
澤村は車を走らせた。
「澤村さん。」
「何?」
「澤村さんは、お母さんを憎んでますか?」
「アハハ、そりゃそうだろう。俺を捨てていった奴なんか大嫌いだよ。女なんか、皆そうだろうって思えてくる。」
「男だって同じですよ。」
「まあな。だから俺は本気の恋愛なんかするつもりはないよ。」
「そうやって生きてたりしたら、年をとって、寂しいとか思うんじゃないですか?」
「思うんじゃないの。家族がいたらなぁってさ。」
凪は窓の外を眺めると、澤村に気づかれない様にため息をついた。
アパートの前に着くと、凪は鍵を開けるのを少し躊躇った。
「早く開けてよ。寒いから。」
澤村はそう言うと、凪の手から鍵を奪った。
「おじゃまします。」
先に家に入った澤村は、
「凪ちゃん、本当にここに住んでるの?」
そう言ってテーブルの前に腰を下ろした。
「ここには帰って寝るだけだし。」
凪は洗面台へむかった。
手袋をコートのポケットに入れ、コートを脱いですぐに、手にたくさんの石鹸をつけて洗い始めた。
水が流れる音が長いので、澤村が心配して洗面台にやってきた。
「ずいぶん洗うんだね。」
「うん。」
凪はタオルで手を拭くと、ひび割れている凪の手を澤村が触った。
「ダメ!」
凪がまた手を洗おうとすると、澤村は凪を抱きしめた。
「凪ちゃんは汚れてなんかいないよ。」
澤村は凪の手を両手で包んだ。
「果物買ってきたから、一緒に食べようか。」
澤村の隣りに座り果物を食べていると、手の中が甘酸っぱい匂いに変わった。
「たくさん食べなよ。」
澤村が言った。
凪はミカンの皮をむいた。少し手が沁みたけれど、
パーッと広がる柑橘の爽やかな香りに、自然と顔もほころんでくる。
突然、澤村は凪にぴったりと体を寄せると、頬を包んで唇を重ねた。
「ごめんなさい…。」
凪は澤村から離れた。
「ごめんなさい。こういうの、苦手です。」
凪が俯いていると、澤村は落ちているミカンを拾ってテーブルに置いた。
「晩ごはん作ろうか。」
澤村は何をもなかった様にキッチンへ向かった。
嫌な空気が流れる中。
凪はミカンのホコリを手で払うと、その実を口に入れるだけ入れて、澤村の後をついて行った。
「アハハ、ハムスターみたいになってるよ。」
キッチンにきた凪の頬を見て澤村が笑った。
「凪ちゃん、いい加減、大人になりなよ。」
凪には澤村が何を考えているのかわからなかった。急に優しくなったり、怖い目をしたり。澤村についていく女性は、こんな彼のギャップが、いつしか自分だけに見せている表情だと勘違いするのだろう。
澤村は冷蔵庫を覗いている。
「凪ちゃん、中には水しか入ってないんだけど。」
「そっか。年末に片付けたんだ。」
「これじゃあ、何も作れないよ。仕方ない。今日はラーメンでも食べに行こうか。」
外に出られると思うと、居心地の悪い空気から開放されて少し楽になる。凪は笑顔で頷いた。
夕食を食べ終え、澤村はまた凪のアパートにやってきた。
「本当に泊まるつもりなんですか?」
凪が澤村に聞くと、
「お風呂はどっち?」
澤村は洗面台の方に向かった。
「凪ちゃん、これ以上手は洗わないでよ。」
澤村は服を脱ぎ始めた。
「ちょっと待って!」
凪は慌ててその場を離れると、浴室に入ったのを見計らって、脱いだ服の近くにバスタオルを置いた。
曇りガラスのむこうに見える澤村の裸のシルエットから、凪は目を反らした。こうやって何人もの女の人と、夜を過ごしてきたんだろう。体だけが目的だった付き合いもあるだろうし、相手が燃え上がってしまった付き合いだってある。澤村が女の人にしている仕返しは、寂しさと虚しさを、女性達に振り掛ける事なんだ。
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