マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

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急 悪魔

第二十四話

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 離れのうまやで繋がれていたグレートヒェンとともに、足早にノワールの村を横切っていく。

 そこはとても、長閑だった。我が故郷にも似ていて、ささやかな活気があり、慎ましやかな生活を営む、平穏な村。藁で葺いた家屋が連なる景観。その造りは古いが、一軒一軒が生活感に溢れていて、温もりを感じられた。道行く村人の誰の目にも、日々を豊かに生きようとするだけの生命力を宿していたようにさえ思える。

 騎士の時代に俺がいたセレビアは、言うなれば都会だ。そこには色鮮やかで、絢爛な町並みが広がっていた。贅を尽くしたセレビア辺境伯の城郭も、それは見事なものだった。召使いを二百人ほども雇い、隊を組めるだけの俺たち騎士が寝泊まりし、司祭を据えた教会ウルダの礼拝堂をも備えていた。まさに、一村分の規模と言える。

 だけど、セレビアの町に住む者の顔に、余裕はなかったような印象がある。常に忙しく動き、誰よりも裕福に豊かにあろうとして、日々何かが欠けているような気持ちに駆られる。少なくとも、俺はそうだった気がする。城内では仕えた者たちによる辺境伯のご機嫌伺いが日課で、その者らの権謀術数が渦巻き、他の誰かを貶めようと企てる策謀が錯綜していた。

 それを考えると、俺の目の前に広がる、色のない質素な光景の方が余程、眩く輝いて見えるよ。そう、これが人の世だったんだなと、そう思わせてくれる。和気あいあいと道ばたで語らうその光景が、人間らしさなんじゃないだろうか。夕暮れに食卓を囲み、家族で食事を分け合う。小さな蝋燭を灯にして、日々の何気ない出来事の報告に花を咲かせる。それが何よりも、俺の心を落ち着かせてくれる。

 物の豊かさよりも、心の豊かさが大切なんだ。そう思わせてくれる一幕が、ここにはあった。俺の前途に役立つかは知らないが、大きな収穫だったように思う。

 そんな穏やかな日常を過ごしていた家々が連なる通りとは一転して、喧騒に包まれた広場に出た。

 そこには――まずい! トマソンが引き連れた騎士たちが寄り集まってるじゃないか! その中心には、飄々と藁を食む斑牛の背に片足立ちをしながら、無数の鞠でジャグリングをするティルの姿があった。

「さあさあ! 彼方遠くよりお越し下さった騎士様御一行! 寄っておいで見ておいで! 世に二人といねぇ稀代の道化師ティル・オイレンシュピーゲル様の催しだぁ!」

 喧騒に釣られて、宿舎や酒場から続々と現れる騎士たちを煽り立て、己の曲芸に釘付けにしていく。

「――おっとっと!」

 片足立ちで乗る斑牛の背から落っこちそうになるティル、するとその体勢から宙返りをして立て直す。

「いやぁ、失敬失敬! 危うく失敗するところだったなぁ! したら今日の食い扶持も稼げねぇや! ん~? でもサクッとおっ死にゃ、明日からの食い扶持はいらなかったのかぁ? こりゃどっちが得か分からねぇな!」

 あわやの不安から、華麗な身のこなしによる驚嘆、更には毒っ気のある冗談を交えた愉快と、ティルはもはや群衆の注目の的となっていた。全く恐れ入ったよ、お前には。万が一そっちの道に行っても、いずれは一角の曲芸師にでもなっていそうだな。

 っと、何を感心しているんだ俺は。折角ティルが騎士たちの眼を逸れしてくれている――小金稼ぎの目的も当然あるだろうが――その間に、この村を去らなくては。鎧や剣といった目立つものは、布で包んでグレートヒェンに背負わせている。フードを目深に被り、行人の装いをして、そそくさと路地に入る。家々の隙間を縫って、村を外縁から回り、外れまで足を運んでいく。

 急かされるような駆け足、横目に過ぎ去っていく家々に灯った篝火は、そこから零れる朗らかな語らいは、まるで追憶の走馬灯のようで。

 次第に活気は遠くなり、すでに村と野辺との境界までやってきたか。均されていた道が、青草を纏い始めた。後ろを振り向く、人影はない。

 ここまで来れば、もう――前方から、草を掻き分ける、蹄の音。それは、荷馬の出す音じゃない。人を乗せた重みを感じさせる、疾風の如く大地を踏み拉かんとする駿馬の音だ。それは、俺の耳にもよく馴染んだ音。

 おい嘘だろ、こんな黄昏時に……まさか、付近の森を偵察していた騎士……? しかも一騎じゃない、二騎分の音が迫ってきている……。まずいな、非常にまずい。何とか見逃してくれないものか……。

 目深に被ったフードを更に深く被り、俯きながら、顔を背けながら、静かに歩を進めていく。遠方から聞こえてきた蹄の音は、早くも間近にまで迫ってきた。俺は襟を正して、音のする方に向かって、深々とお辞儀をした。貴族階級未満の一般市民であれば、それが道中で出会った貴人に対する礼儀だ。ただ兎に角、俺は深々と頭を下げ続けた。ともすれば……ティルに出会っていなかったのなら、俺の矜持はこの行為を、許していなかったかもしれないな。今になって思えば、矜持の置き所が、奴の影響で変わってきているのかも知れないな。

 そんな自問自答に耽っていると、いつしか蹄の音は通り過ぎていた。ホッと胸を撫で下ろす。前を向き直ると――背筋に、冷たいものが走った。間違いない、それは、気配だ。

「――時にそこの、旅人と思しき者よ。こんな日暮れから森の入るつもりか?」

「あぁ、遠路はるばるお越し下さった騎士様。そうなのです、少し緩行が過ぎましてねぇ。急ぐ身なんでさぁ」

 全く、演技にティルの口調が混じってきたな。だけど、田舎者を装うには丁度良い。利用させてもらうよ。

「それは感心しないぞ。ここら一帯で、聖女殺しの逃亡犯が出没したと聞いて、駆けつけてきたのだ。獰猛にして狡猾、生きる為ならば食人さえも厭わぬ、屍食鬼グールのもどきとさえ言われている。命の保証はできんぞ」

「いやはや、それは恐ろしいお話しでございますなぁ。とはいえ、私もこれ以上の遅れは命に関わりましてねぇ……。どうせ殺されるのであれば、見込みのある方に賭けてみようと思うんでさぁ」

「……ふん、好きにしろ。助けはないものと思え」

「いやぁ、ははは。ご忠告、痛み入りまさぁ」

 ……何とか、なったか? 騎士道に則って甲斐甲斐しく世話を焼くのはいいけど、とにかく心臓に悪いんだ、さっさと行ってくれ。再び俺は騎士に頭を下げて、別れを促した。だが……

「……念のためだ、確認しておく。頭を上げよ、その面を晒せ。どの道、この村の者は皆、その素性を洗い出すつもりだった。旅人とて例外ではない、いやむしろ、最も疑うべき相手だ。貴様にも身の潔白を証明してもらおう」

 チッ! 腐っても騎士、流石に抜け目はないか! どうする、このままグレートヒェンに飛び乗って、逃げるか? いや、この距離じゃまず追いつかれる、こっちは甲冑も背負わせているんだ。仮にそれを捨てたとしたって、逃げ切れる保証はない。何より、相手は二騎、連携を取られれば、まず厳しい。どうする、この状況を打破するには――斬るしか、ないのか? フリアエの本懐を遂げるため、その意志に背くしかないのか?

 己の生死と夢の狭間で葛藤していた、俺の耳に、聞こえるはずのない声が、木霊こだました。

「おーい! レックさんよぉー! 待ってくれよぉー!」

 なっ、村の方から、ティルの声がするじゃないか。馬鹿な、この状況を嗅ぎつけて来たと?

「レックさん! 借りてたもん返す前に行っちまうんだから! ちと立ち止まって俺の芸でも見て行きゃいいのによぉ!」

 そう行って、ティルは手に持った《発火の魔石》を投げ渡してきた。そうか、ノワールの村に辿り着く前の、あの時の。お前に渡したままだったっけな、この魔石。

「あぁ、いやぁ、ははは。わざわざ律儀にすまんねぇ、ティルの旦那。俺も急ぐ身だったもんでさぁ、にもかかわらず、長いことこの村に逗留しちまったのよ。いずれまたどこかの町で見かけたときにゃ、拝見させてもらうとするさぁ」

 悪いな、ティル。何から何まで、本当に世話になるよ。

「お、おい道化師。此奴への査問は終わっておらんぞ」

「なんとなんと、こちらにも騎士様が! これから更に我が催しが盛り上がるってぇのに、勿体ない! 遠路の疲れもあるでしょうに。いやいや早速、こちらにお越し下せぇ騎士様!」

「お、おい貴様! 手綱を引っ張るんじゃない! こらやめろ! 何て聞き分けのない奴だ! 道化師はこれだから敵わないんだ!」

 ティルは無理矢理に手綱を引っ張って、騎士の跨がった駿馬を牽引していく。ふと、奴が横目でこちらを見た。その顔は――微笑んでいた。声には出さず、唇の動きだけで「行け」と伝えて、騎士とともに去っていく。

 最後にとびきり格好良く絞めやがって、ちゃんと別れの挨拶だって交わしたかったのにさ。でも、ありがとう、我が親愛なる友よ。お前のことは、片時だって忘れはしない。

 さらばだ、いずれこの世に名を馳せるだろう、稀代の職人となる男よ。再会できたなら、また杯を交わそう。
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