帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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蕾たち

「姉さん、待ってよ、どこへ行くの?」
 通りを急ぎ足に行くパリアナの細い背を、彼女とよく似た面立ちの少年が必死に追いかけていく。生成きなり色の衣をまとっただけのほっそりとした肢体は小鹿を思わせ、道行く人々の目をひく。
「タキトゥス将軍のお屋敷へ行くのよ。パリアヌス、あんたは水汲みの仕事があるでしょう?」
「ティコがかわってくれるって」
 パリアヌスと呼ばれた少年の姉とおなじ薄紫色の瞳が夏の太陽にきらめく。瞳の色といい亜麻色の髪といいよく似た姉弟だが、パリアヌスの方は少年らしく髪は顎のあたりで切りそろえてある。
「姉さん、よく将軍のお屋敷へ行くね。まるで将軍の召使みたい」
「ディトス様のご了解はいただいているのよ。あんたはついてこなくていいじゃない。わたしたちはディトス様に大変なご恩があるんだから、あんたはちゃんとお屋敷のお仕事をなさいよ」
 かわいた土ぼこりをかわすようにして軽やかにパリアナは水色の衣の裾をちらした。
 若さというのはすごいもので、つい月がひとめぐりする前までは、まったく見知らぬ異国であり、生まれた国をほろぼした敵国の街に、ふたりはすっかり慣れてしまった。
 もともと生まれ故郷では妾腹ということで義母にうとまれていた姉弟は、むしろアルゲリアスに来てからの方が心おだやかに過ごせていた。
 それは彼らをひきとってくれたディトスが親切にしてくれたことと、そんな主のもとで働く使用人たちが皆情ある人々であり、異国の奴隷としてつれてこられた姉弟をあたたかくむかえてくれたことが一番の原因だろう。ふたりは青空のした幸せを噛みしめていた。
 都は大きく、通りは様々な人でうめつくされている。輿にゆられた貴族、馬で駆けていく軍人、売り物を背負った行商人や瓶をあたまに乗せて急ぐ女たち、金持ちもいれば貧乏人もいる、美しい人もいれば醜い人も、白い衣をまとった神職者らしき人もいれば、肌もあらわな売春婦やごろつきや乞食、老いた人も若者も、子どももいる。にぎやかに通りすぎていく彼らがたてる騒音はすさまじく、生の活気にあふれていた。道の脇にならぶ商店からは肉や魚の焼ける香ばしい匂いが大通りにあふれて通行人たちの鼻をくすぐる。
「美味しそうだね」
「だめよ、寄り道している暇はないの」
 帝国人のなかにまじってあきらかに異国の血をひく人々もよく見かける。首や足に鉄枷をはめられたり、むきだしの腕に焼きごての痛ましげな痕をもつ奴隷たちも目にする。かと思えば、異国人でも瀟洒ないでたちで裕福そうな者もいる。
「あっ」
 パリアヌスが姉の衣のはしをにぎる。
 すぐそばの脇道で壺を落とした異国の奴隷が、主人に鞭で打たれていた。
 パリアナもそれを見て、あらためてディトスに感謝し、自分たち姉弟がこうしてこの地を自由に歩ける幸運に感謝した。  
「ねえ、姉さん、タキトゥス将軍の屋敷には、神官長様がいらっしゃるって、本当?」
 パリアナは無言で肯定をしめした。
「神官長様は、将軍の捕虜なの?」
 大人たちの会話から聞き知ったのだろう。パリアナは曖昧な笑みを見せた。もうパリアヌスもうすうす美貌の神官が将軍の屋敷に囚われているということがどういうわけか、朋輩の成熟な召使たちから聞かされているのかもしれない。
 パリアナはあれからふたたびイリカの室に通されたときのことを思い出す。
 その日はタキトゥスは宮廷に出仕しており、室には廃人のような状態のイリカひとりだった。
「パリアナと申します。今日からときどきイリカ様のお世話をさせていただくことになりました」
 ひざまずき名をなのっても、イリカはパリアナを見ようともしない。
 それでも髪を梳いてやったり、身体を拭いてやったり、温かい汁物を匙で口にはこんでやったりと、甲斐甲斐しく世話を焼くパリアナにいつしかイリカもやわらいだ眼差しをむけるようになった。
「おまえは、さぞ私を軽蔑しているだろうね」
 イリカの声は少しかすれていた。
「いいえ、けっしてそのようなことは」
「このような惨めな境遇に堕ちて生きている私をおぞましいと思うだろう?」
「めっそうもございません!」
 捕虜として恥をさらしているのはパリアナもおなじだ。パリアナはディトスにひろわれただけ運が良かったのだ。
「私は、死ねないのだ。自死してはいけないのだ……。だから何度も運命による死をねがった。食べものを拒否して息絶えれば自死にはならないかと思ったが……それもそなたのおかげでさまたげられた。きっと神はもう少し生きて使命を果たせと云っているのだろう……」
「さようでございますとも」
 イリカになんとかして生きる希望を得てほしく、パリアナは必死にうなずいた。
「まだ、死ねない」
 一瞬、パリアナは身をすくめた。
「私は、まだ死ねない。私のつとめを果たさなければ……」
 イリカは自分自身に言い聞かせているようで、その横顔は、やつれてはいても神聖なほどに美しく、パリアナはふと泣きたくなった。
 祖国をうしない、王族の誇りも神官長の身分もうばわれ、それこそ心身を切りきざまれるような屈辱をあたえられても、それでもイリカには、堕ちてもなお堕ちざる者の不屈の魂のかがやきが感じられる。ここ数日タキトゥスが出仕し不在がちなことも、彼の生命力を盛りかえさせた一因かもしれない。
 パリアナは自分にできるかぎり、ディトスがゆるしてくれるかぎり、イリカに尽くそうと思った。
 だが、それは乙女であるパリアナには過酷な仕事であったのも確かだ。
 放心状態だったイリカの身体を拭いてやった初めての日、パリアナは見てはいけないものを見てしまった。
 余分な肉がまったくなく、これ以上痩せれば見苦しくなる限界まで痩せているイリカの身体のなかで、唯一胸だけはふっくらと肉づき、それがなんともいえない背徳感をたたえてパリアナを困らせた。
 純情なパリアナも、その身体が男でありながら男の愛撫を受けた証しであることをさとり、着替えを手伝ったりする折に、たまらない羞恥を感じてしまう。その羞恥がイリカにも伝染し、イリカもまた切なげに顔をふせ、室には気まずい沈黙がおりてくる。
 そういうこともあって、パリアナはイリカにこれ以上のしゅうじゅうをさせぬためにもパリアヌスを彼のまえにつれていきたくないのだ。
「あんたは、庭で待っていて」
「僕、お目どおりさせていただけないの?」
「イリカ様はお身体のお加減が良くないの」 
「僕、おとなしくしているよ」
 パリアヌスは反抗的に唇をつきだした。その表情は勝気な少女のように可憐で、パリアナを微笑ませた。
「今はまだ駄目。おとなしく庭で待っていて」
「つまらないや」
 不満気にまだなにか言いたそうな弟をのこしてパリアナは顔見知りになった門番に挨拶をすませると、庭から建物内へつづくみじかい階段をのぼっていく。
 パリアヌスは姉の細い背が藤の木でつくられた扉のむこうへ消えるのを恨めしげに見送っていたが、そこはやんちゃざかりの少年のことで、すぐ庭を探索しはじめ、池の水面やさかりの薔薇を眺め、それにも飽きると石椅子に腰かけた。
「神官長様に、会ってみたいなぁ。姉さんだけなんてずるいや」
 神殿での収穫祭でかつて遠目に見たイリカの姿が目に浮かぶ。神衣を身にまとい錫杖をふって舞うイリカはこの世の人ではないかと思うほどに神秘的で美しく、その夜パリアヌスはイリカの夢を見て、明け方に、自分にはじめて春の季節がおとずれたことをさとった。それがつい半年ほど前のことである。
(聞いたか? おまえの島からきた神官は、タキトゥス将軍の男妾になったそうだぞ)
(男妾って?)
 それを告げた朋輩は悪い奴ではなかったが、パリアヌスより二歳年上なので、やたらと大人ぶって、なにかと兄貴風を吹かせようとする。彼にしてみればパリアヌスと仲良くなりたかったのかもしれないが、知らされた事実は十一歳の少年にとっては衝撃的だった。
(嘘だ。絶対、なにかのまちがいだ)
 それを確かめたかった。
「本当なわけがないや」
 パリアヌスは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。物思いにふけっている少年の白い頬に午後の光が粉のように降ってくる。
「おやおや、これは白薔薇の精か?」
 突然、太い声がひびいてきてパリアヌスは石椅子から立ちあがった。
 そこにいたのは、そんな詩的な言葉がまるで似合わない、でっぷりと太った黒い衣をまとった男で、肩にかがやく銀の紋章から、男が高位の貴族であることが知れたが、禿げた頭に不摂生からか、できものだらけのでっぷりとした頬、糸のような目といった、およそ品のない顔つきで、パリアヌスは一目見て男に嫌悪を感じた。彼の背後には護衛の兵が三人ほどひかえている。
「おまえはこの屋敷の召使か、奴隷か?」
 召使も奴隷も使用人を意味するが、この場合、両者には大きなひらきがある。召使というものは給金をもらって働く人間であり、奴隷というものは、主人に生殺与奪をにぎられた道具である。
「ぼ、僕は奴隷ではありません。いえ、このお屋敷の奴隷ではありません」
 パリアヌス自身、自分がはたしてどちらの立場になるのかいまだによく理解できていなかった。 ディトスは自分たちをひきとってはくれたが、自由民としての立場をくれるのだろうか。異国の捕虜を自由民とするには租税をはらわねばならないという。そこまでディトスはしてくれるだろうか。このままでは、やはり自分たちはディトスおかかえの奴隷ということになるのかもしれない。そう考えると黒いもやもやとした感情がパリアヌスの胸にうずまく。
「名は、なんという?」
「パ、パリアヌスと申します」
「おお、美しい名前じゃのう。で、出身は?」
「イカラスでございます」
「それにしては、その方、色が白いのう」
 自分にむけられている男の細い目から、どろどろと濁ったものがわいてくるようで、パリアヌスの背がひきつった。
「母が帝国の人間だったので。あ、あの」
 ねっとりとした太い手がパリアヌスの少年にしては繊細な手をつかむ。
「歳はいくつじゃ?」
「じゅ、十一になりました」
「ほほう」
 にごった目が爛々とかがやき、パリアヌスは汗ばむほどの熱気を感じながら背が凍りつきそうになった。
「なにをしている?」
 力強い声がバルコニーから降ってきた。
「おや、タキトゥス、おったのか?」
 獅子のたてがみのような金の髪を夏空のもとにかがやかせ、白亜の建物からタキトゥス将軍が鷲のようにきびしい目を闖入者にむけている。
 まとっている青絹の衣がいっそう彼を凛々しく見せ、祖国をうばった仇敵だというのに、一瞬その雄々しさにパリアヌスは魂をつかまれた気がした。
(あの人が、タキトゥス=ディルニア。イカラスを陥落させた人……)
 憎むべき敵なのに、その凛々しさには、パリアヌスの心をおさえてしまうものがある。 
(おなじ帝国軍人でも、ディトス様とは雰囲気がぜんぜんちがうや。ディトス様はおおらかでおだやかな感じだけれど、タキトゥス将軍は見るからにきびしくて強そうだ。なんだか冷たそう……。もっと歳上の人かと思っていたけど、ずっと若いんだ) 
「ドノヌス叔父上、私になにか御用があったのでは? こちらへどうぞ」
「ふむ」
 ドノヌスは未練げな一瞥をパリアヌスにむけ建物にむかう。巨大な雨蛙のような醜悪な姿が視界から消えたことに、パリアヌスはひとまずほっとした。十一歳の彼は、ドノヌスと呼ばれた男の、自分の袖なしの衣や裾下から伸びる手足を見る目の奥にひそむものに、もう気づかない歳ではない。
 ふたりの姿と従者たちがきえ、静かさをとりもどした庭で、パリアヌスは、ふたたび屋敷内の姉を思った。
(入っていっても、怒られないよね。ディトス様はタキトゥス将軍の親友なのだし、姉さんは、おふたりのお許しをいただいて屋敷にあがっているんだから、姉さんのつきそいだと言えば、だれも怒らないよね。なにも、悪いことをするわけじゃないんだし)
 自分を説得させ言い訳を用意すると、パリアヌスは屋敷へとつづく階段をふみしめた。

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