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第一部
パーフェクト・ワールド・ハルⅧ ④
しおりを挟む「成瀬さん」と初めて呼んだのは、この学園の中等部に入学した日のことだった。
敵わないと思ったのは、あの人が榛名を抱えて戻ってきた日のことだった。
「祥平、おまえ、何やった」
珍しく焦燥の滲んだ顔で飛び込んできた向原も、騒然としていた寮内の空気も。何も分からなかったが、その渦中に、同室者の小さな身体があるということだけは分かった。
つられるようにして、あぁ、そう言えばと思い出した。あのころは、向原さんは名前で呼んでいた、あの人のことを。
「でも!」
「見たのか」
続きを察したのか、諦めたのか。何を、とも言わずその一言を向原は叩きつけた。糾弾するように成瀬の肩に伸びた手は、寸で握り込まれた。そして、ダン、と壁が鳴って、寮部屋が揺れた。
視線が絡んでいたのは、数瞬だったと思う。もう一度、壁が鳴った。そして、向原が身を翻した。
誰も何も言わなかった。咽返るような、甘い、甘い香り。いつも同室者が人工的な甘い香りを身に付けているのは周知の事実だ。付け過ぎたのだろう、あるいは、瓶が割れたのかもしれない。
そう思うことにして、皓太は窓を開けた。寮のざわめきが入り込んでくる。いつもの空気ではない。孕んでいるのは、緊張か興奮か。どこからか、悲鳴のような泣き声が聞こえて、――そして、翌日。
三人の退学者が出た。それだけが事実だ。
憶測は憶測を呼んだが、真実は曖昧なまま、日常は日常に戻っていった。寮のトップには茅野がいて、生徒会には成瀬が、向原が、篠原がいた。図らずしも今と同じだった。
けれど、俺は、何も知らない。知らないままのほうが、良いと思ったからだ。何も知らない。
あいつは、顔は……まぁ、確かに可愛いとは思うけれど、それ以上に性格が可愛くなくて、生意気で、口が悪くて、扱いづらくて、けれど不器用なだけで真面目で、まっすぐな、同室者。
その認識のままでいることが互いの為だと、分かっていた。けれど、もしかすると、その判断は間違いだったのだろうか。
そこだけは安全なのだと必死で訴えかけるかのように、成瀬の腕を掴んだまま、蹲っている榛名を見ながら、そう思った。
そして、今になって、ふと思う。あれは「見られたのか」ではなかっただろうか、と。何をかは分からないのだけれど。
自室の扉をそっと開けると、まだ電気が点いていた。おそらく自分のため、だ。榛名は上手く行っているかどうかはさて置いて、案外、気を使っている。
「悪い、遅くなった」
声をかければ、曖昧な応えが榛名のベッドから聞こえた。目元を掌で押さえたまま、仰向けに転がっている。
「また頭痛?」
「偏頭痛持ちじゃないおまえには、絶対にこの辛さは分からない」
呪詛のごとく鬱々としたそれに、皓太は気がつかれないように笑った。昔みたいに理由も言わないで難しい顔で黙り込まれるよりは遥かにマシだ。
なんで俺、こんなに嫌われているのだろう、と。気を揉んでいた日々が懐かしい。
「薬、飲んだら良いのに。ちょっとはマシになるんじゃないの?」
「どんな薬でも、飲み続けるのは良いことじゃねぇよ」
わずかな沈黙のあとで返ってきた答えに、そんなものなのだろうか、と皓太は首をひねった。昔から身体は丈夫だったから、服薬の経験はほとんどないのだ。
「最近、忙しかったもんな。明日でそれも終わるし、ゆっくりしろよ」
光量を絞りながら労わると、「おまえもだろ」と、どこか拗ねたような声が飛んできて。
――こいつ、ここまで来て、まだ本番を見るのが嫌なのか?
「張り切って応援してあげれば良いじゃん。拗ねてないで。どうせ明日なんだし、そのほうが喜ぶと思うけど」
「なんの話……って、あぁ、それか。そういや茅野さんにも似たようなこと、言われた」
違ったのだろうかと榛名の方に視線を向ける。薄暗がりの中でも、口元が微笑んでいるのが分かった。
「成瀬さん、か」
「どうかした?」
「なんでも……というか、うん、そうだな」
珍しく柔らかな声で、榛名が言う。まるで夢の中の幸せを反芻するように。
「三年経っても、あの人はヒーローだなって思ってた。ヒーローと言うか、神様と言うか、よく分からないけど」
はにかんだそれに、ずしりと重いものが胃に落ちてきたような気がした。あんな話を聞いたせいだろうか。
ただの刷り込みじゃないのか、あのとき助けてもらったという、それだけの。そんな言葉を飲み込んで、なんでもない声で皓太は応じた。
「おまえは本当に好きだね、あの人のこと」
でも、だからといってどうにもならない。成瀬はアルファで榛名はベータだ。
成瀬が選ぶのは、オメガだ。あるいはアルファの女性かも知れないけれど。どちらにせよ、彼が榛名を選ぶことはあり得ない。
「うん、そうだな」
榛名は素直に肯定した。
「でも、だからどうってわけじゃないんだけど。幸せになってほしいとは思うよ。それこそ俺が言うようなことじゃないんだろうけど」
幸せ。なぜかその単語が脳内をゆっくりと巡っていた。幸せ。楽園。理想。だったらばここは誰のための世界なのだろう。
「おやすみ」
逃げるように口にして、皓太も布団に潜り込んだ。
そして今度脳裏によぎったのは、先ほどの邂逅の続きだった。
中等部に入学してすぐの頃、わざわざ成瀬が皓太たちの寮室に顔を見せたことがあった。そして、榛名のいないところでふとこんなことを言われたのだ。
「気を付けてあげても良いかもな。もちろん、皓太の負担にならない範囲で、だけど」
俺は、――俺は、その本意を、分かっていなかった。あの瞬間まで。
だから、思ったのだ。俺は、この人を超えられない。それがどこまでのものかは分からないけれど、ただ一つはっきりと分かった境界線がある。
榛名の中では、俺は絶対に、この人を超えられないのだ、と。
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