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第二章:白狐と初恋
プロローグ③
「基本的には応接室だよ。ただ、訪ねてこられる方は少ないからね。空けておくのももったいないから私用でも使わせてもらっているけど」
「はぁ、なるほど」
「少しだけ聴覚過敏なところがあってね、雑音が多い空間に長くいると頭痛がひどくなることがあるんだ」
たいしたことではないんだけどねと七海さんは付け足したが、あたしははっとなった。
「すみません。知らなくて。あの、その、あたしの声がうるさいとかあったら言ってください」
自分で言うのもなんだが、あたしの声はよく通るのだ。聴覚過敏の人の感覚がどういったものなのかはわからない。けれど、あたしの声が騒音だった可能性は十分にあるように思えた。
申し訳なかったなぁと反省していると、七海さんは「ありがとう」と優しくほほえんでくれた。やっぱり、いい人だ。
今後は気を付けようと心に決めてひとり頷いていると、ふと視線を感じた。先輩だ。
思い切り呆れた顔をしている。なんなのだと思ったものの、七海さんが聴覚過敏だと知った直後に大声で問い詰めるのは憚られる。
すまし顔でにこりとほほえむことを選択したあたしを一瞥して、先輩がぼそりと呟いた。
「あほな顔してんな、萎える」
「せ、先輩はいったいあたしのことをなんだと思ってるんですか…!」
小声の訴えをしらっと無視して、先輩が立ち上がる。
「あ、あたしもお手伝い……」
応接室に向かう背を追いかけようとしたところで、「三崎くん」と呼び止められてしまった。
「はい。なんでしょうか」
「準備は真晴くんに任せていいから、ちょっといいかな」
笑顔で座るよう示されて、おずおずと腰かける。いつのまにか課長はいなくなっていて、七海さんとふたりきりだ。
「ごめんね。あいかわらず口の悪い子で」
「はは、いや、ぜんぜん。あの、大丈夫です」
良いのか悪いのかはわからないけれど、配属されてからの二ヶ月強ですっかり慣れてしまった。
それに先輩の口の悪さは、あたし限定というわけでもないし、ねちねち嫌味を言ってくるわけでもない。陰湿な陰口職場と比べたら、かわいいものだ。
笑い飛ばすと、七海さんがどこか困ったように笑った。
「真晴くんがあんなふうになった原因のひとつは僕にあってね」
「……え?」
「面倒だけど悪い子ではないだろう? 優しい子なんだ。優しすぎて、頑なになっていると評するほうが正しいのかもしれない」
子という年ではさすがにないんじゃないかなと思ったけれど、あたしは頷いた。
そう語る七海さんの表情が保護者そのものだったからだ。遠縁の親せきと聞いたけれど、もう少し近い兄弟のような関係なのかもしれない。
「きみをうちに推薦したのは僕なんだ」
「え?」
「昔、あの子からきみの話を聞いたことがあってね。きみとなら良い影響を与え合う関係になれるんじゃないかと。そう思ってしまって」
予想外の続きに、文字どおりあたしの目は点になった。先輩の口から、あたしの話?
「いや、公私混同甚だしくて申し訳ない」
沈黙をどう取ったのか、七海さんが言葉どおりの申し訳なさそうな顔になる。
「でも、きみがうちに向いていると思ったのも本当だよ」
にこりとほほえむ顔には、これ以上は言わないという無言の圧があった。自分から話し始めたくせにと思わなくもなかったけれど、なにがなんでも暴かなければいけない話ではない。
だからあたしは軽い言葉を選んだ。
「それって、あたしが鈍感だからですか?」
「いいや」
先輩にも言われたんですよと続ける前に、七海さんはあっさりと首を横に振った。
「きみが優しい子だからだよ」
またしても予想外の反応だった。七海さんはいつもと同じ顔で笑っている。「それって」と問いかけようとした瞬間、バンと大きい音を立ててドアがが開いた。
「おい、こら。三崎! おまえも手伝え!」
「は、はい!」
不機嫌そうな声に、あたしは慌てて立ち上がる。まずい。任せっぱなしにしすぎた。
「僕が引き留めてたんだよ。ごめんね、真晴くん」
「引き留めるなら時間があるときにしろ!」
そうだったねぇごめんねぇと七海さんは笑っているが、先輩の言うことが完全に正しかった。約束の時間まであと十分ほどである。
「す、すみません! 手伝います」
応接室はだいぶきれいになっていたが、まだバインダーやらファイルやらが机の上に散らばっていた。七海さん、好き勝手に荒らし過ぎじゃないか、これ。
「あの、適当に片付けちゃって大丈夫ですか? お茶の準備とかしたほうがいいですか?」
手を出すべきなのか判断が付きかねて尋ねると、「お茶」と一言返ってきた。わかりましたと頷いて、給湯室に小走りに向かう。
私室じゃねぇって言うならもうちょっと片付けたらどうなんだとぶつぶつ言っている声が聞こえて、苦笑いになる。気の毒に。
なんというか、その気ままな勝手さに血筋を見た気分だ。
――それにしても。
給湯室でひとりお茶の準備をしながら、首を捻る。
神様がいないって、本当にどういう状況なんだろう。
「はぁ、なるほど」
「少しだけ聴覚過敏なところがあってね、雑音が多い空間に長くいると頭痛がひどくなることがあるんだ」
たいしたことではないんだけどねと七海さんは付け足したが、あたしははっとなった。
「すみません。知らなくて。あの、その、あたしの声がうるさいとかあったら言ってください」
自分で言うのもなんだが、あたしの声はよく通るのだ。聴覚過敏の人の感覚がどういったものなのかはわからない。けれど、あたしの声が騒音だった可能性は十分にあるように思えた。
申し訳なかったなぁと反省していると、七海さんは「ありがとう」と優しくほほえんでくれた。やっぱり、いい人だ。
今後は気を付けようと心に決めてひとり頷いていると、ふと視線を感じた。先輩だ。
思い切り呆れた顔をしている。なんなのだと思ったものの、七海さんが聴覚過敏だと知った直後に大声で問い詰めるのは憚られる。
すまし顔でにこりとほほえむことを選択したあたしを一瞥して、先輩がぼそりと呟いた。
「あほな顔してんな、萎える」
「せ、先輩はいったいあたしのことをなんだと思ってるんですか…!」
小声の訴えをしらっと無視して、先輩が立ち上がる。
「あ、あたしもお手伝い……」
応接室に向かう背を追いかけようとしたところで、「三崎くん」と呼び止められてしまった。
「はい。なんでしょうか」
「準備は真晴くんに任せていいから、ちょっといいかな」
笑顔で座るよう示されて、おずおずと腰かける。いつのまにか課長はいなくなっていて、七海さんとふたりきりだ。
「ごめんね。あいかわらず口の悪い子で」
「はは、いや、ぜんぜん。あの、大丈夫です」
良いのか悪いのかはわからないけれど、配属されてからの二ヶ月強ですっかり慣れてしまった。
それに先輩の口の悪さは、あたし限定というわけでもないし、ねちねち嫌味を言ってくるわけでもない。陰湿な陰口職場と比べたら、かわいいものだ。
笑い飛ばすと、七海さんがどこか困ったように笑った。
「真晴くんがあんなふうになった原因のひとつは僕にあってね」
「……え?」
「面倒だけど悪い子ではないだろう? 優しい子なんだ。優しすぎて、頑なになっていると評するほうが正しいのかもしれない」
子という年ではさすがにないんじゃないかなと思ったけれど、あたしは頷いた。
そう語る七海さんの表情が保護者そのものだったからだ。遠縁の親せきと聞いたけれど、もう少し近い兄弟のような関係なのかもしれない。
「きみをうちに推薦したのは僕なんだ」
「え?」
「昔、あの子からきみの話を聞いたことがあってね。きみとなら良い影響を与え合う関係になれるんじゃないかと。そう思ってしまって」
予想外の続きに、文字どおりあたしの目は点になった。先輩の口から、あたしの話?
「いや、公私混同甚だしくて申し訳ない」
沈黙をどう取ったのか、七海さんが言葉どおりの申し訳なさそうな顔になる。
「でも、きみがうちに向いていると思ったのも本当だよ」
にこりとほほえむ顔には、これ以上は言わないという無言の圧があった。自分から話し始めたくせにと思わなくもなかったけれど、なにがなんでも暴かなければいけない話ではない。
だからあたしは軽い言葉を選んだ。
「それって、あたしが鈍感だからですか?」
「いいや」
先輩にも言われたんですよと続ける前に、七海さんはあっさりと首を横に振った。
「きみが優しい子だからだよ」
またしても予想外の反応だった。七海さんはいつもと同じ顔で笑っている。「それって」と問いかけようとした瞬間、バンと大きい音を立ててドアがが開いた。
「おい、こら。三崎! おまえも手伝え!」
「は、はい!」
不機嫌そうな声に、あたしは慌てて立ち上がる。まずい。任せっぱなしにしすぎた。
「僕が引き留めてたんだよ。ごめんね、真晴くん」
「引き留めるなら時間があるときにしろ!」
そうだったねぇごめんねぇと七海さんは笑っているが、先輩の言うことが完全に正しかった。約束の時間まであと十分ほどである。
「す、すみません! 手伝います」
応接室はだいぶきれいになっていたが、まだバインダーやらファイルやらが机の上に散らばっていた。七海さん、好き勝手に荒らし過ぎじゃないか、これ。
「あの、適当に片付けちゃって大丈夫ですか? お茶の準備とかしたほうがいいですか?」
手を出すべきなのか判断が付きかねて尋ねると、「お茶」と一言返ってきた。わかりましたと頷いて、給湯室に小走りに向かう。
私室じゃねぇって言うならもうちょっと片付けたらどうなんだとぶつぶつ言っている声が聞こえて、苦笑いになる。気の毒に。
なんというか、その気ままな勝手さに血筋を見た気分だ。
――それにしても。
給湯室でひとりお茶の準備をしながら、首を捻る。
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