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第三章:真夏の恐怖怪談
プロローグ①
たまに勘違いをしている人がいるが、市役所にお盆休みというものは存在しない。
「暑さで溶ける……」
職員用駐車場から旧館までの数百メートルを、死にそうになりながらあたしは歩いていた。まだ八時も回っていないのに、照り付ける太陽光でギンギンに頭皮が焼かれている。
「うう、暑いぃ」
周りに誰もいないのだから完全なるひとりごとである。けれど、それも勘弁してほしいと思ってしまう程度には酷暑なのだった。
連日ニュースで暑さに気を付けるように促しているが、本当に暑い。
あたしが子どものころはここまで酷くなかった気がするんだけどなぁ。
首を捻りたくなったが、実は暑かったのかもしれない。思い出が美化されているだけで。
ぱたぱたと手団扇で温い風を生成しながら、旧館の扉を押し開ける。少しだけれど、ひんやりとして気持ちいい。ほっと一息ついて、あたしはひとつ伸びをした。
もう八月も半ば。世間はお盆休みまっただなかだが、市役所にお盆休みは存在しない。もちろん夏季休暇という名の有給消化月間になっているので休みを取る人もいるが、市役所自体は平常運転なのだ。
国民健康保険課にいたころは、お盆休みに帰省してきた息子さんが親の保険のことを尋ねに来られることもあって、いつもとは異なるお客さんが多かったものだった。
たった一年前のことなのに、なんだかすごく懐かしい。
違う客層で多少窓口が賑わいはしても、いつもの平日に比べると格段に来庁者は少なくもある。だから、この時期にあわせて休みを取得する職員もいた。暗黙の了解で家族のいる人が優先されていたから、気楽なひとり暮らしで帰る田舎もないあたしは、いつもどおり出勤していたけれど。
ちなみに、あやかしよろず相談課の夏季休暇取得状況はどうなっているのかと七海さんに聞いたところ、休みたければ休んだらいいよとのお返事だった。
良くも悪くも通常運転で、お盆だからどうのということもないらしい。ただ、と七海さんは最後に嫌な含み笑いをしていたけれど。
――夏の夜はあやかしがよく出現するとは言われているけれどねぇ。
たしかにそうかもしれないと苦笑いするしかなかった。だってお盆だ。
もともと休むつもりがなかったあたしは今日も出勤。課長だけが家庭サービスでお休みらしい。
つまり、七海さんも先輩も通常運転の、いつもと同じ仕事の始まり。
「おは、よう、ございまーす」
始業時間にならないとクーラーは付かない。廊下にいようが課内にいようが暑さに変わりはないけれど、椅子に座って一服着きたい。
麦茶でも沸かそうかなと思案しながら、あやかしよろず相談課のドアに手をかけた瞬間。内側からドアが開いた。
「せ、せんぱ……」
いつぞやの記憶が蘇ったおかげで額を強打するのは免れたが、危うく後ろにひっくり返るところだった。
恨みがましく睨もうとしたのも束の間、あたしよりも十数倍悪い目つきで見下ろされて、小さく「ひぃ」と叫ぶに終わった。
ひさしぶりに見たな、この先輩。
最近はさすがに暑いのか、つなぎの上半分は腰に巻かれていて、上半身は黒のティーシャツ一枚という、土方のお兄ちゃんファッションにますますの磨きがかかっている。つまり、なんだ。余計に妙な迫力がある。
「なんだ、てめぇか」
「お、おまえもひどいとは思いますが、てめぇって論外じゃないですか?」
「うるせぇな、黙ってろ。ついでにちょっとこっち来い」
しめられそうだなと失礼なことを思いながら、問答無用で歩き出した先輩の後を追う。勢いよく閉められたドアの奥からは、かすかに七海さんと、知らない男の人の声が聞こえた。
――お客さんかな?
気になったものの、この状況の先輩に逆らう勇気はない。どんどんと先を行く先輩の足がやっと止まったのは、屋上に続く階段の踊り場だった。
さすがに、この炎天下のなか外に出るという選択肢はなかったらしい。
「せんぱーい、いったい朝からなんなんですか」
呼びかけると、極悪人面の先輩が振り返った。
「朝からクソ面倒なのが来てたんだよ」
「はぁ、お客さんですか」
「あんなもんは客じゃねぇ」
苛々と先輩は煙草の箱を取り出して、最後の理性でポケットに戻した。当然、官庁内禁煙である。
煙草よりカルシウムたっぷりの煮干しあたりを差し入れたいと思いながら、「はぁ」とあたしはもう一度繰り返した。
「暑さで溶ける……」
職員用駐車場から旧館までの数百メートルを、死にそうになりながらあたしは歩いていた。まだ八時も回っていないのに、照り付ける太陽光でギンギンに頭皮が焼かれている。
「うう、暑いぃ」
周りに誰もいないのだから完全なるひとりごとである。けれど、それも勘弁してほしいと思ってしまう程度には酷暑なのだった。
連日ニュースで暑さに気を付けるように促しているが、本当に暑い。
あたしが子どものころはここまで酷くなかった気がするんだけどなぁ。
首を捻りたくなったが、実は暑かったのかもしれない。思い出が美化されているだけで。
ぱたぱたと手団扇で温い風を生成しながら、旧館の扉を押し開ける。少しだけれど、ひんやりとして気持ちいい。ほっと一息ついて、あたしはひとつ伸びをした。
もう八月も半ば。世間はお盆休みまっただなかだが、市役所にお盆休みは存在しない。もちろん夏季休暇という名の有給消化月間になっているので休みを取る人もいるが、市役所自体は平常運転なのだ。
国民健康保険課にいたころは、お盆休みに帰省してきた息子さんが親の保険のことを尋ねに来られることもあって、いつもとは異なるお客さんが多かったものだった。
たった一年前のことなのに、なんだかすごく懐かしい。
違う客層で多少窓口が賑わいはしても、いつもの平日に比べると格段に来庁者は少なくもある。だから、この時期にあわせて休みを取得する職員もいた。暗黙の了解で家族のいる人が優先されていたから、気楽なひとり暮らしで帰る田舎もないあたしは、いつもどおり出勤していたけれど。
ちなみに、あやかしよろず相談課の夏季休暇取得状況はどうなっているのかと七海さんに聞いたところ、休みたければ休んだらいいよとのお返事だった。
良くも悪くも通常運転で、お盆だからどうのということもないらしい。ただ、と七海さんは最後に嫌な含み笑いをしていたけれど。
――夏の夜はあやかしがよく出現するとは言われているけれどねぇ。
たしかにそうかもしれないと苦笑いするしかなかった。だってお盆だ。
もともと休むつもりがなかったあたしは今日も出勤。課長だけが家庭サービスでお休みらしい。
つまり、七海さんも先輩も通常運転の、いつもと同じ仕事の始まり。
「おは、よう、ございまーす」
始業時間にならないとクーラーは付かない。廊下にいようが課内にいようが暑さに変わりはないけれど、椅子に座って一服着きたい。
麦茶でも沸かそうかなと思案しながら、あやかしよろず相談課のドアに手をかけた瞬間。内側からドアが開いた。
「せ、せんぱ……」
いつぞやの記憶が蘇ったおかげで額を強打するのは免れたが、危うく後ろにひっくり返るところだった。
恨みがましく睨もうとしたのも束の間、あたしよりも十数倍悪い目つきで見下ろされて、小さく「ひぃ」と叫ぶに終わった。
ひさしぶりに見たな、この先輩。
最近はさすがに暑いのか、つなぎの上半分は腰に巻かれていて、上半身は黒のティーシャツ一枚という、土方のお兄ちゃんファッションにますますの磨きがかかっている。つまり、なんだ。余計に妙な迫力がある。
「なんだ、てめぇか」
「お、おまえもひどいとは思いますが、てめぇって論外じゃないですか?」
「うるせぇな、黙ってろ。ついでにちょっとこっち来い」
しめられそうだなと失礼なことを思いながら、問答無用で歩き出した先輩の後を追う。勢いよく閉められたドアの奥からは、かすかに七海さんと、知らない男の人の声が聞こえた。
――お客さんかな?
気になったものの、この状況の先輩に逆らう勇気はない。どんどんと先を行く先輩の足がやっと止まったのは、屋上に続く階段の踊り場だった。
さすがに、この炎天下のなか外に出るという選択肢はなかったらしい。
「せんぱーい、いったい朝からなんなんですか」
呼びかけると、極悪人面の先輩が振り返った。
「朝からクソ面倒なのが来てたんだよ」
「はぁ、お客さんですか」
「あんなもんは客じゃねぇ」
苛々と先輩は煙草の箱を取り出して、最後の理性でポケットに戻した。当然、官庁内禁煙である。
煙草よりカルシウムたっぷりの煮干しあたりを差し入れたいと思いながら、「はぁ」とあたしはもう一度繰り返した。
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