出戻り勇者の求婚

木原あざみ

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博愛と勇者 (3)

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 その日々が一年ほど過ぎたころ、エリアスの腕の中の平穏をよそに、王都から離れた土地では力をつけた魔獣の被害が頻発するようになっていた。
 エリアスが任務中につまらない傷を負ったのも、そのころのことである。本当につまらない傷だったのだが、頭部だったことが悪かった。
 宮廷に戻るころには、止血した包帯に血がにじんでいたらしい。すれ違う人間にぎょっとされるたび、たいした怪我ではない、と返していたエリアスだったが、廊下で遭遇したビルモスに笑われるに至り、とうとう閉口する羽目になった。

「おやおや、随分と派手な怪我をして。あのあたりはまだ魔獣は少ないと思っていたのだが。なにか予想外のできごとでも?」
「……子どもがいた」

 たいした怪我ではないと承知の上で問うてくるのだから、意地が悪い。とは言え、相手は上司だ。エリアスは端的に状況を報告した。

「詳しくは報告書に書くが、魔獣は滅した。街に大きな被害はない」
「なるほど、子どもか。きみもようやく宮廷の人間らしくなったということかな」

 興味深そうに頷いたビルモスが、これも勇者殿の影響というやつかな、と知ったふうなことを言う。たしかに、ビルモスと出会ったころの自分であれば、子どもを庇って初動が遅れるなどという事態は招かなかっただろう。だが、自分の失態であることに違いはない。
 沈黙を選んだエリアスを改めて見やったところで、ビルモスは腕を組んだ。

「それにしても、あのあたりにも魔獣が出没するようになっているとは。早々に騎士団と協議して、見回りの増員をしたほうがよさそうだ」
「群れの痕跡はなかったが。今後そういうことになる可能性はあるだろうな」
「不安の種は早めに取り除くに限るからね。まぁ、取り除くにしても限度はあるわけだが。とにかく、そういうことだ。すまないが、先に詳しく聞かせてもらってもいいかな」
「構わない」

 どうにも目立つらしいので、包帯を取り替えてから報告に向かうつもりだったのだが、ビルモスは多忙を極めている。今がちょうど隙間の時間だったのだろうと踏んで、エリアスは了承を返した。
 執務室で話を聞こうということになり、並んで廊下を歩く。ちらちらと寄こされる他者からの視線に辟易としていると、ビルモスがふっと笑みをこぼした。

「場所のせいもあるが、きみの髪はどうにも血が目立つね。視線が集まるのはしかたがない。気にかけてもらっているのだと思うことして諦めなさい」
「心配というよりは興味本位だろう」
「そう人を悪く言うものではないよ。純粋に心配をする者もいるだろうに。かく言う僕もどんな大怪我かと驚いたくらいだ」
「冗談は休み休み言ってくれ」

 心配をされたかったわけではないので構わないのだが、まったくそんな顔はしていなかっただろう。呆れ半分で言い切ったエリアスに、またひとつビルモスが笑う。

「本心に決まっているじゃないか。本心ついでに言っておくが、報告が済んだら今日は終いにして構わない。場所が場所だからね。もちろん、包帯を変えるだけでなく、きちんと診てもらっておくように」
「……本当にたいしたことはないのだが」
「きみのたいしたことはないはあまり信用できないからね。その傷にしても、一歩間違えば命が危うかったかもしれない」

 やけに大袈裟なことを言う。訝しんだものの、エリアスは反論を呑み込んだ。自分の失態であることに変わりはなく、余計な説教を聞きたくなかったからだ。

「わかった、わかった。せいぜい次は死なないように気をつけよう」

 おざなりに告げ、執務室のドアを開けた瞬間。胸にぼすりと飛び込んだなにかに、エリアスはたたらを踏みかけた。顔を認識した途端、言うつもりだった文句が立ち消える。

「師匠? 師匠、どうしたの、それ!」
「ハルト」

 ドアを開ける前から、自分たちの声が聞こえていたのかもしれない。
 宥めようと背に手を回したものの、ハルトの視線は顔から離れない。青い顔の理由は想像に難くなかった。

「魔獣? どこでやられたの?」
「王都の隣町だよ。そんなところにまで魔獣が出没するようになっていたらしい」

 応答に悩んだエリアスに代わり、ビルモスが応える。

「すまないね、勇者殿。きみと約束をしたとおり、エリアスを危険な場所に行かせるつもりはなかったのだが、騎士団の想定以上に魔獣の出没範囲は広がっているらしい」
「出没範囲が……」

 呟いたきり、ハルトは黙り込んだ。エリアスばかりを見つめていた黒曜石の瞳が揺れ、下を向く。あたたかな背中に手を添えたまま、エリアスは唇を噛んだ。
 ビルモスが言ったとおり、昔の自分であれば庇わなかっただろう。だが、今の自分は幼い者を庇護する必要性を知ってしまっている。加えて、宮廷の人間としての義務も理解していた。
 けれど、問題はそこではない。ハルトがここにいたことも問題ではない。ハルトがビルモスと話す機会があることに不思議はなく、ビルモスを執務室で待っていたことも不思議ではない。
 だが。だが、ビルモスはハルトがここにいると知っていたはずだ。それなのに、なぜ、詳しい話を聞きたいと言い、執務室に近づいたタイミングであんな話をした。
 目まぐるしく動く思考の真ん中に浮かび上がったのは、ハルトが来たばかりのころに聞いたビルモスの言だった。

 ――縁もゆかりもない場所に召喚された彼を気の毒と思うなら、きみがこの世界の彼のよすがになればいい。

 自分がそんな大層な存在になることなど、できるはずもない。
 素直に吐露したエリアスの肩を抱き、言い諭す調子でビルモスは囁いた。その声を、当時のエリアスはそれなり以上に信じていた。自分の才を見出して引き上げてくれた恩人で、仕事の場を離れても気にかけてくれる唯一だったからだ。

 ――なに、問題はない。きみはあの場にいた誰よりも、よすがのない辛さを知っているはずだ。それに、きみを選んだのは彼だ。難しいことはなにもない。

 ほかならぬビルモスが言うのであれば、ビルモスのためにも応えようと思った。もちろん、ハルトのためであったけれど、それだけではなかった。それなのに。憚られたのだとようやく気がついた。
 ハルトを抱き寄せたまま、ビルモスを睨む。言葉にこそしなかったが、正確に伝わったはずだ。だが、ビルモスは眼鏡の奥の瞳を柔らかに笑ませただけだった。
 言い訳をする気はないということをエリアスは悟った。ビルモスを責めたところで、どうにもならないということも。
 きっかけがなにであれ、怪我をしたことは自分の落ち度だ。経緯がどうであれ、ハルトに血にまみれた顔を見せたことも。
 たいした怪我ではない。自分のミスだったのだ。もう同じようなことにはならない。
 どれほどエリアスが伝えても、ハルトは頷かなかった。もっともらしく心配そうな顔をしたビルモスを信じた。

「師匠じゃなかったら、もっとひどいことになってたかもしれないって。ビルモスさまは言ってたよ。魔王を倒さない限りは、こういうことはずっと増えるって」

 それは、まぁ、自分より弱い者であれば、よりひどいことになっていた可能性はあり、魔王を倒さない限り、魔獣の力が弱まらないことは事実だった。本当に嫌な言い方をする男である。
 そう思ったからこそ、そんなことはない、というエリアスの言い分は説得力を持ち得なかったのかもしれない。
 俺は行くよ、と宣言をしたハルトを止めることはできなかった。いな、自分は元より止める立場になかったのだ。
 宮廷の下っ端の、良いように利用されるだけの駒のひとつ。力をつけて大人になったつもりで、優秀になって発言力を持ったつもりで、すべてつもりだけだった。
 無理をして魔王退治に行くことはない。おまえがこの国の命運を担う必要はない。ついこのあいだもやっぱり怖いとこぼしていただろう。言いたい言葉は、すべて喉の奥で潰えていく。
 言ったところで意味はなく、自分のエゴでしかないとわかったからだ。
 自分にできたことはただひとつ。安全な場所から勇者の無事を祈るという、本当に些細でくだらないことだった。



「ねぇ、師匠。俺、帰れるのはうれしいけど、やっぱり、ちょっと寂しいよ。ここに残りたい気持ちもある。だって――」

 寂しいと言いながらも、ハルトの瞳にはじめて会ったころの不安の色はない。
 たった二年ですっかりと大人になった顔つき。子どもの成長は、本当に早いものだな。場違いに感心したところで、ふと胸が冷えた。
 違う、と気がついたからだ。大人になったんじゃない。大人にならざるを得ない環境に自分たちの勝手でこいつを叩き込んだからだ。
 その自分が、なにを言う資格がある。ホールからは止むことのないにぎやかな声が響いていた。勇者が見事魔王を倒したことを祝う宴。宮廷だけではない。喜びは王都中に満ちていた。
 これでもう、魔獣に怯える夜はなくなったのだ、と。勇者が魔王を倒した恩恵を疑いもなく享受し、勇者に感謝を捧ぐ。
 勇者が、無理やり召喚された、魔王退治の贄のような存在だったと知りながら。
 なにかに耐えるように。ハルトはよくエリアスの背に額を押し当てていた。ぺらぺらとよく喋る口を噤み、エリアスの銀色の髪に戯れるように触れ、目を閉じて。エリアスは振り払いはしなかったが、なにを言うこともしなかった。
 ハルトの目を見ることができず、唇を噛み締める。血の味がした。
 なにかなどであるものか。理不尽に故郷を奪われた寂しさであり、勝手に与えられた重責に対する重荷であり。魔王退治という脅威に対する、正しい恐れであったはずだ。すべて、この子どもが受ける必要などなかったはずのもの。
 本当に、なにもかも自分は気がつくことが遅すぎる。

「師匠?」

 うつむいたエリアスに、柔らかな声がかかる。とてもではないが、顔を上げて黒曜を見ることはできなかった。代わりに、静かに告げる。少しどころではなく寂しい、など。残りたい気持ちがあるのなら残ってほしい、など。言えるわけがなかった。

「帰れ。おまえは十二分に勇者の役目を果たしてくれた。おまえは元いた世界で幸せになってくれ。この世界であったことは、すべて忘れろ」

 俺はもういい。そう思ったから、エリアスは宮廷の職を辞した。次に新たな魔王が現れたとき、勇者を召喚したくなかったからだ。自分だけ安全圏に逃げたのだ。
 自分の関与せぬところであれば、知らないことになる。お為ごかしの理論で、現実から背を向けた。そんな弱くて卑怯な人間を、どうしてあいつは好きだと言うのだろう。
 むしろ、ハルトが特別視すべきはビルモスではないだろうか。自分は感情的なことを言っただけで、なにも成し得なかった。元の世界に戻ることは不可能という常識を覆し、この子どもを召喚した責任を取ったのはビルモスだ。自分ではない。
 数日後。ハルトのいなくなった世界に立ったエリアスの心は、がらんどうとしていた。
 だが、これが正しいのだ。なにせ、この世界にもともとあの子どもはいなかったのだから。自分の心はもともと誰かを正しく愛するようにできていなかったのだから。
 それがたまたま異世界からやってきた勇者によって動いただけだったのだ。その勇者がいなくなったから、もとどおりの空っぽにもどった。それだけのこと。
 宮廷の喧騒から遠く離れた森の家の前で、青い空を見上げる。
 この空も続いていない、どこか、どこか、果てしなく遠い場所。顔を合わせることは二度となくとも、幸せになってほしいと心から望んだ。
 その祈りが愛だとは、エリアスは知らなかったのだ。
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