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15.観測(5)
――『弟』なんだろうな、きっと。
以前、笹原自身が言っていたことだ。こんな弟がいたらかわいがっていたのに、と。だから、悠生がどれだけ面倒なことを言っても広い心で受け入れることができるし、――今のところ、捨てる気もないのだろう。
捨てる。浮かんだ単語に、勝手に心臓がきゅっと竦んだ気がした。息苦しくなる感覚を打ち消し、鞄を手に取る。
「俺は帰るけど。笹原はこのままどっか行けば?」
「えー、なんで。冷たい」
「冷たくねぇよ。そもそも今日で終わりだろ、大学も。まぁ、俺は」
言いかけて、はっと言葉を止めたものの、あまり意味はなかったらしい。やたらと嬉しそうな顔で笹原が「そっかぁ」と呟く。
「ま、俺と悠生は夏休みに入っても一緒にいれるもんね。それもそうか。今日はお付き合いしてきます」
「だから、勝手にしろって」
「遅くなるけど拗ねないでよ」
「誰が拗ねるか!」
同棲を始めたばかりの恋人同士のような会話に、かっと顔が熱くなる。そんな悠生を見て、笹原はまたおかしそうに笑っている。調子を崩されるのは、いつも自分だ。仏頂面を取り繕い、悠生は立ち上がった。
「帰る」
「了解。じゃあ、またね」
振り返らなくても、笹原がいつもの顔で笑っている姿はたやすく想像できた。そして、おそらくそれが間違いでないだろうことも。
「いまさらだけど、なんであのふたりって仲良いんだろ」
悠生に聞こえるようにだったのか、聞こえてもいいと思っていたのか。通りすぎた瞬間、女生徒たちの話し声が耳に届いた。
「ぜんぜん釣り合わないのにね。まぁ、葵くん優しいからほっとけないんじゃない? 浮いてるやつが」
「あー、納得。アパートの部屋が隣なんだっけ。大変だね、葵くん。面倒見いいもんね。かわいそう」
私だったら、暗くてなにを考えてるのかわからないようなのと四六時中一緒なんて嫌だな。続いた台詞にも、あまり腹は立たなかった。事実とわかっていたからだ。
事実、自分と笹原は釣り合わない。面倒見が良いから自分の世話を焼いているのだろう。
彼女たちが言ったそれは、ぜんぶ、ほかならぬ悠生自身が考えていたことだった。それなのに、なぜか胸のどこかが傷んだ気がして、悠生は内心で首を傾げた。けれど、答えなんて出るはずもない。
講義室を出る直前、笹原の顔を見たい気がして振り返りたくなった。だが、それもなぜかできなくて。結局、悠生はそのまま講義室を出た。ざわめく講義室の会話が、いやに気になった。今まで、気になったことなんてなかったはずなのに。
――馬鹿じゃないのか。
吐き捨てたのは、自分に対してだ。馬鹿じゃないのか。なにを期待してるんだ。なにを甘えてるんだ。調子に乗るな。言い聞かせる相手はすべて自分だった。
駄目だ。駄目だ。期待して、叶わなくて、それで崩れるのは俺だ。
呼吸が浅くなっていることに気が付いて、大学を出て遊歩道にたどり着いたところで、悠生は深く息を吸った。空を見上げる。青い、夏の空。星が見たいと思った。望遠鏡で、ではない。プラネタリウムで、でもない。あの狭いベランダで、笹原と。くだらないことを話しながら。星を見たい。
そう認めた瞬間。息が止まった。なにを考えてるんだ。なにを。なにを。汗が顎を伝って鎖骨に落ちる。はっと我に返ったあとは早かった。誰も見てなどいないのに、半ば走るようにして自宅を目指す。息が上がる。
なにをやっているんだ。なにを考えているんだ。責めるように太陽が追いかけてくる。暑くて眩しくて、なにがなんだかわからなくなりそうで喘ぐ。呑まれたら終わりだということだけはわかっていた。
以前、笹原自身が言っていたことだ。こんな弟がいたらかわいがっていたのに、と。だから、悠生がどれだけ面倒なことを言っても広い心で受け入れることができるし、――今のところ、捨てる気もないのだろう。
捨てる。浮かんだ単語に、勝手に心臓がきゅっと竦んだ気がした。息苦しくなる感覚を打ち消し、鞄を手に取る。
「俺は帰るけど。笹原はこのままどっか行けば?」
「えー、なんで。冷たい」
「冷たくねぇよ。そもそも今日で終わりだろ、大学も。まぁ、俺は」
言いかけて、はっと言葉を止めたものの、あまり意味はなかったらしい。やたらと嬉しそうな顔で笹原が「そっかぁ」と呟く。
「ま、俺と悠生は夏休みに入っても一緒にいれるもんね。それもそうか。今日はお付き合いしてきます」
「だから、勝手にしろって」
「遅くなるけど拗ねないでよ」
「誰が拗ねるか!」
同棲を始めたばかりの恋人同士のような会話に、かっと顔が熱くなる。そんな悠生を見て、笹原はまたおかしそうに笑っている。調子を崩されるのは、いつも自分だ。仏頂面を取り繕い、悠生は立ち上がった。
「帰る」
「了解。じゃあ、またね」
振り返らなくても、笹原がいつもの顔で笑っている姿はたやすく想像できた。そして、おそらくそれが間違いでないだろうことも。
「いまさらだけど、なんであのふたりって仲良いんだろ」
悠生に聞こえるようにだったのか、聞こえてもいいと思っていたのか。通りすぎた瞬間、女生徒たちの話し声が耳に届いた。
「ぜんぜん釣り合わないのにね。まぁ、葵くん優しいからほっとけないんじゃない? 浮いてるやつが」
「あー、納得。アパートの部屋が隣なんだっけ。大変だね、葵くん。面倒見いいもんね。かわいそう」
私だったら、暗くてなにを考えてるのかわからないようなのと四六時中一緒なんて嫌だな。続いた台詞にも、あまり腹は立たなかった。事実とわかっていたからだ。
事実、自分と笹原は釣り合わない。面倒見が良いから自分の世話を焼いているのだろう。
彼女たちが言ったそれは、ぜんぶ、ほかならぬ悠生自身が考えていたことだった。それなのに、なぜか胸のどこかが傷んだ気がして、悠生は内心で首を傾げた。けれど、答えなんて出るはずもない。
講義室を出る直前、笹原の顔を見たい気がして振り返りたくなった。だが、それもなぜかできなくて。結局、悠生はそのまま講義室を出た。ざわめく講義室の会話が、いやに気になった。今まで、気になったことなんてなかったはずなのに。
――馬鹿じゃないのか。
吐き捨てたのは、自分に対してだ。馬鹿じゃないのか。なにを期待してるんだ。なにを甘えてるんだ。調子に乗るな。言い聞かせる相手はすべて自分だった。
駄目だ。駄目だ。期待して、叶わなくて、それで崩れるのは俺だ。
呼吸が浅くなっていることに気が付いて、大学を出て遊歩道にたどり着いたところで、悠生は深く息を吸った。空を見上げる。青い、夏の空。星が見たいと思った。望遠鏡で、ではない。プラネタリウムで、でもない。あの狭いベランダで、笹原と。くだらないことを話しながら。星を見たい。
そう認めた瞬間。息が止まった。なにを考えてるんだ。なにを。なにを。汗が顎を伝って鎖骨に落ちる。はっと我に返ったあとは早かった。誰も見てなどいないのに、半ば走るようにして自宅を目指す。息が上がる。
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