きっと世界は美しい

木原あざみ

文字の大きさ
21 / 39

20.臨界点(4)

「っ、触るな」

 半ば反射で肩にかかった手を打ち払って、振り仰ぐ。我に返ったのは、自分を見下ろす笹原の瞳を視認した瞬間だった。

「……あ……」

 なぜかは知らない。ただ、傷つけたらしいということはわかった。手の中で眼鏡が軋んだ音を立てる。その音が、いやに室内に響いた気がした。

「ごめんね」

 いつもの調子とは全く違う、平坦な声だった。言葉がすべて喉の奥で消え去る。違う。俺も、傷ついて、悲しくて。それで。自己弁護はすべて言葉にならない。

「気持ち悪がらせて、ごめん。でも、もう触らないから、だから安心して」

 違う。そうじゃない。そうじゃない。言いたい言葉を紡げない。笹原がぎこちない笑みを張り付けていくさまを、悠生はただ見ていることしかできなかった。

「帰るから。お邪魔してごめんね」

 いつも悠生の言葉を待ってくれるはずの瞳が、ふいと逸れていく。嫌だ。そう思うのに、声は出なかった。怖い。嫌だと感じるのと同じくらいに、その単語が脳裏を去来する。怖い。追いすがって拒絶されることが恐ろしい。捨てられることが恐ろしい。見限られることが恐ろしい。
 なんで。ここにきて、まだ好かれたいと願っているのだろう。自分の欲が勝つのだろう。わからないけれど、ただ、嫌われたくなかった。これ以上、余計なことをして呆れられたくなかった。それだけで頭がいっぱいになっていく。
 息を止めていたと気が付いたのは、ドアが閉まってからだった。浅い息が喉を突いた。胸が苦しい。胸が痛い。それなのに、なぜか勝手に笑い声が漏れた。へたり込んだままの脚をフローリングの生ぬるさが包み込んでいく。なにをしているんだ、俺は。
 何度目になるのかわからないことを繰り返す。馬鹿だ。これも何度目になるのかわからない自分自身への揶揄だった。馬鹿だ。けれど、それ以外に表しようがない。この気持ちを評しようがない。馬鹿だ。馬鹿だ。
 勝手に期待をして、勝手に入れ込んで、勝手に特別視をして、――そして、勝手に落ち込んだ。それがすべてだ。ぱし、とまた手の中から乾いた音がした。割れたかもしれないと気が付いたけれど、どうでもよかった。

 ――知ってたんだ。

 絶望のような心地のまま、呟く。笹原は知っていたんだ。決して悠生がなれない、見た目だけはそっくりの長兄のことを。悠生の隠したかった秘密を。
 かわいいよと笑っていた声が頭の中で嘲笑に成り代わる。俺はなにを期待していたんだろう。ぎゅっと唇を噛み締める。嫌いだ。大嫌いだ。自分と兄を比べるような人間は。兄と比べて勝手に落胆するような人間は。嫌いだ。大嫌いだ。
 でも、本当に嫌いだったのは、どうせ自分はおまけなのだと諦めて、なにもできない、しようともしない自分自身だった。悲劇のヒロインぶって、自分から誰かに手を伸ばすことができなくて。そのくせ、誰かに認めてもらう日を待っている。自分では一歩も動き出せないのに。
 そんな自分が、大嫌いだった。唇からは血の味がした。

 変わらなければいけない。唐突にそう思った。あるいは、衝動に近かったかもしれない。変わらないといけない。そうでないと。その先の続きを飲み込んで薄暗闇の中で頭を振る。けれど、いくら飲み込んだところで次々に浮かび上がってしまう。
 そうでなければ、笹原に――嫌われて、しまう。もう手遅れかもしれないけれど、これ以上、幻滅をされたくない。こんなにも誰かに対して、好かれたいと願ったことははじめてだった。情けなくなるだけだから、悲しくなるだけだからと、特別をつくろうとしてこなかった。

 ――その顔、好きなんだ。

 脳裏によぎった声は、確かに絶望をもたらしたのに、今は一縷の希望のようにも見えた。せめて、見た目だけでも好きになってもらえたら。見た目だけでも好きだったら、傍にいてくれるかもしれない。
 握りしめていた掌を開く。フレームの曲がった眼鏡を見つめて、そっと息を吐いた。明日からは夏休みだ。講義もない。本当だったら、外に出るつもりなんてなかった。けれど。

「外に出る」

 言い聞かせるように呟く。そして立ち上がる。一緒に見ようと笹原が言っていた夜空を見たいと思う欲求が、ゆっくりとせり上がってきた。カーテンを静かに引く。ベランダに出るのは恐ろしくて、部屋の中から四角い空を見上げた。確かに星は瞬いていて、夜空は澄んでいた。けれど、なぜか心の底からきれいだとは思えなかった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

ひとりも、ふたりも

鈴川真白
BL
ひとりで落ち着く時間も、ふたりでいる楽しい時間も両方ほしい 1人を謳歌するマイペース × 1人になりたいエセ陽キャ

消えることのない残像

万里
BL
最愛の兄・大貴の結婚式。高校生の志貴は、兄への想いが「家族愛」ではなく「恋」であったと、失恋と同時に自覚する。血の繋がりという境界線、そして「弟」という役割に縛られ、志貴は想いを封印して祝福の仮面を被る。 しかし数年後、大貴の息子が成長し、かつての兄と瓜二つの姿となったとき、止まっていた志貴の時間は歪な形で動き出す。 志貴(しき):兄・大貴に長年片思いしているが、告げることなく距離を置いていた。 大貴(だいき):志貴の兄。10歳年上。既婚者で律樹の父。無自覚に人を惹きつける性格。志貴の想いには気づいていない。 律樹(りつき):大貴の息子。明るく素直だが、志貴に対して複雑な感情を抱く。

君の恋人

risashy
BL
朝賀千尋(あさか ちひろ)は一番の親友である茅野怜(かやの れい)に片思いをしていた。 伝えるつもりもなかった気持ちを思い余って告げてしまった朝賀。 もう終わりだ、友達でさえいられない、と思っていたのに、茅野は「付き合おう」と答えてくれて——。 不器用な二人がすれ違いながら心を通わせていくお話。

キスの仕方がわかりません

慶野るちる
BL
全寮制男子校に入学した市原はクラス委員長になったため書類を提出しに生徒会室に行くと、そこに一人いた、初対面の副会長の近藤に襲われてしまう。  混乱するも相部屋の同級生・松川に助けられて元気を取り戻したある日、生徒会長の桜野から仕事を手伝って欲しいと依頼される。  最初は近藤に無視されていたが手伝う中で近藤から告白され、近藤への印象が少しずつ変わっていく市原だが。 表紙:Photo by Markus Spiske on Unsplash / powered by かんたん表紙メーカー様

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

窓のない部屋の、陽だまりみたいな君

MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。 そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。 ​そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。 完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。 ​「五分だけ、ここにいさせてくれないか」 ​一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。 次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。 住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。

絶賛、片想い中

いいいいい
BL
受け 檜山 颯斗(ひやま はやと) 攻め 須藤 慧 (すどう けい) 大学生bl

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……