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26.変容(1)
「嘘。あれ、あの子なの?」
「らしいよ。私もたまちゃんに聞いてびっくりだったんだけど。……本当だったみたい」
ちらちらとまとわりつく視線と、ひそひそと交わされる話し声。うるさい。心の底からうんざりとしていたが、意地のように悠生はうつむかなかった。
板書を睨んだまま、ルーズリーフに書き写す。目にかからない前髪が、これほど邪魔にならないのだとは知らなかった。その代わりに、うっとうしい視線を頂戴する羽目になっているわけだけれど。
板書をじっと見ていないと、視界の端に笹原の後姿が目に入ってしまう。講義室に入ったとき、たしかにちらりと目が合った。
今思うと、そのときに視線を逸らしてしまったのが、間違いなく誤った選択だったのだろう。そのままそそくさと後方の空いていた席に座るとすぐにチャイムが鳴って。講師が入ってきて、授業が始まれば、当たり前だけれど笹原が振り向くことはなかった。
なかなか家を出る決心がつかず、到着するのがギリギリになったことも、きっと悪かったのだと思う。大学内では笹原はもともと、あまり悠生に喋りかけはしなかった。けれど、それは静かに過ごしたい悠生の意を汲んでのことだったと知っている。
――だって、笹原は。
悠生と二人でいることを周りの学生からなにか言われても、気にするそぶりは一度も見せなかった。恥ずかしいと勝手に思っていたのは、悠生だけなのだ。
チャイムが鳴って講義が終わる。次の教室に移動しようと机の上を片付けていると、影が落ちた。少女めいた香りに、求めていた人物ではないことを知る。落胆を無表情に隠して、悠生は顔を上げた。
立っていたのは、入学して間もないころ、科のライングループに登録しないかと声をかけてくれた女生徒だった。入学当初よりずっと華やかになった化粧に彩られた顔に微笑を浮かべて、彼女が口を開く。
「たまちゃんに聞いたんだけど、真木くんもライン始めたんだって?」
「……あんまり使ってはないけど」
「バイト始めると連絡とかラインで取るもんね。どうしても必要になっちゃうよね」
わかると言うように、彼女は愛想よく相槌を打つ。居心地の悪さに負けそうになっていると、彼女が慌てたように言葉を継いだ。
「それで、今度こそ、学科のグループラインに登録してくれないかなぁと思って」
「あぁ」
そっちが本題だったらしいとわかって、悠生は得心した。相変わらずの学級委員長だ。
「いいけど。ごめん、やり方がまだよくわかってなくて」
「大丈夫、大丈夫。スマホ貸して? あ、それと私も友達に追加していい? そのほうがやりやすいから」
「やりやすいなら、それで任せるけど」
あまり知らない誰かに自分のスマートフォンを委ねることに抵抗はあったものの、悠生は手渡した。きっと、これが普通なのだと言い聞かせながら。
「ありがと。これでできたよ。これでもう葵くんに連絡係してもらわなくてもよくなったね」
他意のないだろう笑みに、悠生は曖昧に頷いた。
「あ、もう移動しなきゃだね。一緒に行こう」
誘われて断るわけにもいかず、悠生は机上の残りを無造作に鞄に突っ込んだ。行く場所は同じなのだから、別行動をするほうが不自然であることは間違いがない。
入口付近で待ち構えていた女子生徒二人が「波音」と彼女を呼ぶ。その呼び名で、悠生は彼女の名前にやっと思い至った。そういえば、そんな名前だったような記憶がある。講義室には、もう悠生たち以外の姿はなかった。
「ねぇ、真木くん。どうしちゃったの、その髪型」
聞きたくてそわそわしていた様子で、待っていたうちの一人に問われて、悠生は小首を傾げた。
「変?」
瞬間、問いかけてきた同級生の顔に朱が走る。経緯にもなっていない経緯を説明するよりこのほうが楽だと学んだのだ。案の定、彼女は慌てて顔の前で手を振った。
「ちっとも! 変じゃないよ。その、変じゃないというか、そんなに格好良かったんだってびっくりしたというか」
「顔は一緒なんだけどね」
「それはそうなんだろうけど、隠してたの?」
隠していたかいないかで問われれば、自分の顔が他人にどう評価されるかを知っていたから隠していた、が正解ではあるけれど。悠生はもう一度曖昧に微笑んだ。それだけでいいように解釈してくれるらしいことも、この一月ほどで思い知った。もしかすると兄や笹原もこうやってやり過ごしていたのかもしれない。
週末に科の飲み会があるから来てよ。誘われて、悠生は少しの逡巡ののち頷いた。うれしそうに相手が笑う。この学科は飲み会が本当に多いなと思ったが、うれしそうだったのでいいことにした。
――そういえば。
ふと思い出したのは、以前に笹原が言っていた台詞だった。少人数制のクラスで四年間一緒なんだから、そりゃ仲良くしておくことに越したことはないでしょ、と。どうせ一緒に過ごすならギスギスした関係よりも仲が良いほうが楽しくないかな。
そういうものなのだろうか、大学に来てまで面倒くさい。そう思っていたのが当時の悠生の本音だが、少しだけわかる気もした。自分の壁を少し取り払えば、それだけで周りは柔らかになるのだ。その代わりに増える揉め事もあるのかもしれないけれど、逆にそうしないと触れられないなにかもあるのだろう。
笹原も感じていたのだろうそれを知ってみたかった。
「らしいよ。私もたまちゃんに聞いてびっくりだったんだけど。……本当だったみたい」
ちらちらとまとわりつく視線と、ひそひそと交わされる話し声。うるさい。心の底からうんざりとしていたが、意地のように悠生はうつむかなかった。
板書を睨んだまま、ルーズリーフに書き写す。目にかからない前髪が、これほど邪魔にならないのだとは知らなかった。その代わりに、うっとうしい視線を頂戴する羽目になっているわけだけれど。
板書をじっと見ていないと、視界の端に笹原の後姿が目に入ってしまう。講義室に入ったとき、たしかにちらりと目が合った。
今思うと、そのときに視線を逸らしてしまったのが、間違いなく誤った選択だったのだろう。そのままそそくさと後方の空いていた席に座るとすぐにチャイムが鳴って。講師が入ってきて、授業が始まれば、当たり前だけれど笹原が振り向くことはなかった。
なかなか家を出る決心がつかず、到着するのがギリギリになったことも、きっと悪かったのだと思う。大学内では笹原はもともと、あまり悠生に喋りかけはしなかった。けれど、それは静かに過ごしたい悠生の意を汲んでのことだったと知っている。
――だって、笹原は。
悠生と二人でいることを周りの学生からなにか言われても、気にするそぶりは一度も見せなかった。恥ずかしいと勝手に思っていたのは、悠生だけなのだ。
チャイムが鳴って講義が終わる。次の教室に移動しようと机の上を片付けていると、影が落ちた。少女めいた香りに、求めていた人物ではないことを知る。落胆を無表情に隠して、悠生は顔を上げた。
立っていたのは、入学して間もないころ、科のライングループに登録しないかと声をかけてくれた女生徒だった。入学当初よりずっと華やかになった化粧に彩られた顔に微笑を浮かべて、彼女が口を開く。
「たまちゃんに聞いたんだけど、真木くんもライン始めたんだって?」
「……あんまり使ってはないけど」
「バイト始めると連絡とかラインで取るもんね。どうしても必要になっちゃうよね」
わかると言うように、彼女は愛想よく相槌を打つ。居心地の悪さに負けそうになっていると、彼女が慌てたように言葉を継いだ。
「それで、今度こそ、学科のグループラインに登録してくれないかなぁと思って」
「あぁ」
そっちが本題だったらしいとわかって、悠生は得心した。相変わらずの学級委員長だ。
「いいけど。ごめん、やり方がまだよくわかってなくて」
「大丈夫、大丈夫。スマホ貸して? あ、それと私も友達に追加していい? そのほうがやりやすいから」
「やりやすいなら、それで任せるけど」
あまり知らない誰かに自分のスマートフォンを委ねることに抵抗はあったものの、悠生は手渡した。きっと、これが普通なのだと言い聞かせながら。
「ありがと。これでできたよ。これでもう葵くんに連絡係してもらわなくてもよくなったね」
他意のないだろう笑みに、悠生は曖昧に頷いた。
「あ、もう移動しなきゃだね。一緒に行こう」
誘われて断るわけにもいかず、悠生は机上の残りを無造作に鞄に突っ込んだ。行く場所は同じなのだから、別行動をするほうが不自然であることは間違いがない。
入口付近で待ち構えていた女子生徒二人が「波音」と彼女を呼ぶ。その呼び名で、悠生は彼女の名前にやっと思い至った。そういえば、そんな名前だったような記憶がある。講義室には、もう悠生たち以外の姿はなかった。
「ねぇ、真木くん。どうしちゃったの、その髪型」
聞きたくてそわそわしていた様子で、待っていたうちの一人に問われて、悠生は小首を傾げた。
「変?」
瞬間、問いかけてきた同級生の顔に朱が走る。経緯にもなっていない経緯を説明するよりこのほうが楽だと学んだのだ。案の定、彼女は慌てて顔の前で手を振った。
「ちっとも! 変じゃないよ。その、変じゃないというか、そんなに格好良かったんだってびっくりしたというか」
「顔は一緒なんだけどね」
「それはそうなんだろうけど、隠してたの?」
隠していたかいないかで問われれば、自分の顔が他人にどう評価されるかを知っていたから隠していた、が正解ではあるけれど。悠生はもう一度曖昧に微笑んだ。それだけでいいように解釈してくれるらしいことも、この一月ほどで思い知った。もしかすると兄や笹原もこうやってやり過ごしていたのかもしれない。
週末に科の飲み会があるから来てよ。誘われて、悠生は少しの逡巡ののち頷いた。うれしそうに相手が笑う。この学科は飲み会が本当に多いなと思ったが、うれしそうだったのでいいことにした。
――そういえば。
ふと思い出したのは、以前に笹原が言っていた台詞だった。少人数制のクラスで四年間一緒なんだから、そりゃ仲良くしておくことに越したことはないでしょ、と。どうせ一緒に過ごすならギスギスした関係よりも仲が良いほうが楽しくないかな。
そういうものなのだろうか、大学に来てまで面倒くさい。そう思っていたのが当時の悠生の本音だが、少しだけわかる気もした。自分の壁を少し取り払えば、それだけで周りは柔らかになるのだ。その代わりに増える揉め事もあるのかもしれないけれど、逆にそうしないと触れられないなにかもあるのだろう。
笹原も感じていたのだろうそれを知ってみたかった。
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