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「第十一話 東京決死線 ~凶魔の右手~」
2章
しおりを挟む頭上から照らす陽射しはまだ強くとも、頬を撫でていく薫風には明らかな爽快さがある。
夏の残滓は感じられるが、透明感を増したような空気が秋の訪れを確実に教えてくれる。初秋。九月の半ば。夏休みはあっという間に過ぎ去り、再開された学業の日々にも慣れ始めた季節。刻々と清廉さを増していく時の移ろいのなかで、夏の騒がしかった心が落ち着きを取り戻していくのがわかる。本格的な秋の到来はもう間もなくのことだろう。
霧澤夕子は、秋という季節が好きだった。
元々研究に没頭するタイプの天才少女にとって、過ごしやすいこの季節は集中するのになにより快適であった。そしてどこか物哀しさを覚える雰囲気。賑わいよりも孤独とともに生きてきた彼女には、馴染みやすい空気感なのかもしれない。
ツインテールに纏めた赤い髪の先を、指先でくるくると弄ぶ。時折過ぎていく風がなんとも心地よい。池の上に架けられた30mほどの木橋。やや色素の薄い茶色の瞳は、水面に映る己の顔をぼんやりと眺めている。
若宮緑地公園は、栄が丘や谷宿などこの地方の中心からはやや離れているが、広い敷地と充実した設備でこの地方の誰もが知っている県営公園であった。サッカーや野球のグラウンドからテニスコート、バドミントンコートまで整備された一方、芝生の広場や噴水など、一時の憩いを求める場まで多く点在している。週末ともなれば多くの家族連れがグローブやお弁当を携えてやってくるが、今日のような平日の昼間には、学生のカップルかサボリ中のサラリーマンくらいしか姿は見えない。湖面の橋上に佇む、赤髪のセーラー服美少女は実に絵になったが、生憎それに気付く者はほとんどいなかった。
「待った?」
不意に背中から掛けられた声に夕子は振り返る。完全に虚を突かれた形であったが、声に含まれた柔らかさのためか、別段驚くこともない。こういう慈愛もあるのかと密かに感じ入りながら、赤髪の少女は待ち人の姿を正面から見詰める。
自分と同じはずの青いセーラー服が、やけに眩しく見えた。
少し茶色の混ざった長い髪。スレンダーながらあるべきところにしっかりと丸みを帯びた完璧なスタイル。紺色のハイソックスが長い足をよりスラリと伸ばして見せる。美貌という言葉では言い表せないほどの美貌。切れ長の瞳に宿った優しげな光はどこまでも深く、桜色の唇が結んだ仄かな微笑みがそれだけで気品溢れる華やかさを振り撒いている。
静謐な秋の空気に溶け込んだかのような少女・五十嵐里美は、自然で、それでいて神秘的なまでの笑顔で、年下の友を迎え入れた。
「さっき来た、ばかりよ」
あんたを待つのは苦痛じゃないし・・・言いかけて夕子は言葉を閉じる。同じ宿命を選んだ者同士、その意味でふたりの立場は対等であるはずなのに、時に夕子は里美に話すのがあまりにおこがましく思える瞬間がある。かつて桃子には言えた同じ台詞を、夕子はついに里美相手には口にすることはできなかった。
「学校は同じなんだから、校内で待ち合わせすればいいのに」
「学園のマドンナである生徒会長さんと、嫌われ者の私が一緒にいたら何かと目立つでしょ」
困惑顔のなかにムッとした様子を見せたのは里美の方であった。夕子の言葉が一面事実であることを認めつつも、己を卑下する調子が気に入らなかったらしい。冷淡とも呼ばれるクールな少女の魅力を、恐らくもっともよく悟っているのは、誰あろう里美であった。
苦言を呈しようとする美しき少女の機先を制して、天才少女は話題をはぐらかす。
「いいところでしょ、ここは。喧騒から離れたいときには絶好の場所。誰にも聞かれたくない話も、気兼ねなくできるしね」
「・・・わざわざ呼び出すところを見ると、よほど話したいことがあるみたいね?」
「別に。たまにはあんたと、ふたりきりで喋れたらと思ってね」
夕子が忙しい少女であることは、今更思い返すまでもない。夏休みの期間中も、ほとんど毎日のように聖愛学院の物理実験室に通って、課題としている研究に取り組んでいたことはわかっている。人類の守護天使ファントムガールとなることを誘った里美と、受け入れた夕子。とはいえ天才少女は、己の抱えている難題に引き続き取り組めることを熱望した。即ち、実験研究をあくまで並行して行なうことを。
戦士としての力量をあげるため企画された特訓を、平気でサボって研究に打ち込む夕子に、さすがの里美もしばしば閉口したが、彼女が取り組む研究の重さを理解するだけに注意する気にはなれなかった。夕子が取り組む研究、それはサイボーグである己の肉体を、自分自身の手で作り直す研究。娘をサイボーグにせねばならなかった父に、肉体を返すための努力を続ける夕子の邪魔などできない。してはいけない。特訓の重要性はわかっていても、守護天使たちのリーダーたる少女は、あえて夕子の想いを尊重してきた。
そんな夕子が時間を割いて、学校からも離れた公園に呼び出したのは、それなりの理由があるはずだった。台詞とは裏腹の深い思いを、忍びの末裔でもある少女はとっくに感知している。
「七菜江から聞いたわ。来週からの修学旅行、許可出したんだって?」
進学校でもある聖愛学院の修学旅行は毎年この時期、二年生を対象として行なわれている。
一学年で1500名を越えるマンモス校であるが、学科ごとにコースを変えて、一斉に旅行は執り行われる。つまり、普通科の藤木七菜江も、理数科の夕子も、回るコースは違えども同じ日にこの地を離れ旅立つということだ。
「もちろんよ。修学旅行は高校生活のなかでも大事なイベントでしょ」
「ファントムガールの戦力は分散されることになるけど、それでもいいわけ?」
橋の欄干に肘掛けながら、夕子はやや垂れ気味の瞳で横目に見詰める。責めるのではなく、確認する口調だ。
これまで里美は、5人いる守護少女たちが極力離れ離れになるのを避けてきた。理由は明白で、敵方であるメフェレス一党から個別に狙われるのを防ぐためだ。事実、里美が伊賀の里に静養に出掛けた折や、ユリが合宿で伊豆地方に訪れたときなど、幾度か危機に陥っている。援護の手がすぐに伸びるよう、できる限り近場で連絡しあうのは、鉄則としてずっと気をつけていたことだ。
しかも今回の修学旅行は学校行事であり、その学園の実質支配をメフェレスの正体である久慈家が握っているとなれば、絶好の襲撃チャンスを敵に知らせているようなものだ。夕子も七菜江も、高校生活最大のイベントを密かに諦めていたのも無理はない。
「分散といってもまるでバラバラになるわけじゃないしね。久慈たちの動向にも、十分気をつけておくつもりよ」
「あいつら・・・メフェレスたちもだいぶガタガタしてるようね?」
「久慈は消息不明のまま。片倉響子も袂を分けてから行方しれず。ちゆりは相変わらずだけど、特に仕掛けてくる様子もないわ。・・・奴らの状況が状況だけに、許可を出したというのは否定できないわね」
久慈家の財産と殺人剣の技量。無数の『エデン』の保有。キメラ・ミュータントという新たな怪物の創造。そして魔性の天才生物学者と狂気の「闇豹」という両輪の悪華・・・一時は国家をもバックにつける里美らファントムガールを壊滅寸前にまで追い込んだメフェレスの一党。時代の趨勢は人類を暗黒に巻き込むかと思われたが、ここにきて状況は変化を見せていた。尊大の塊であったメフェレスは弱々しく逃げ去り、悪の結託は脆くも綻び始めている。かつてのような勢いも、力も、今の敵方にはない。事実、個別にユリや桃子を狙い一時は勝利を収めた時でも、最終的には敗走を強いられているのだ。戦況は明らかに光の側に傾いてきていた。
慎重な里美が旅行に許可を出したのは、現況に依るところが大きかった。もしメフェレスらが今までのような結束を見せていたら、涙を飲んでふたりの少女には思い出作りを諦めてもらっていただろう。
「そこんところ、ちょっと訊いてみたかったんだけど」
池の湖面に視線を合わせたまま夕子は言う。
「里美はこのままあいつらが落ちぶれていくと思ってる?」
ツインテールの頭を後ろから見詰めながら、美麗の少女はゆっくりと首を横に振った。
「久慈はこのまま引き下がるような相手じゃないでしょうね。必ずさらに激しい闘いを挑んでくると思う。片倉響子も何を考えているのかわからないし・・・」
「私たちの闘いは、これからもっと厳しくなると?」
「恐らく・・・そうなるでしょうね」
「前から一度、里美には訊いておきたいことがあったの」
わずかに夕子の語気が強くなるのをくノ一少女は聞き逃さなかった。本題が迫っていることをしり、微かな緊張が美しい容貌に走る。
「あなた・・・最後の『エデン』を工藤吼介に渡すつもりじゃない?」
ピクリと動いた里美の唇の花弁からは、言葉は出てこなかった。
「私を仲間に誘ったときのあなたは、ひとりでも多くの光の戦士を探すのに必死になっていた。なのに所持する『エデン』が残り一個になった途端、仲間探しを口にしなくなったわよね」
「それは・・・ユリちゃんや桃子が、思いがけない形で仲間になってくれたから・・・」
「久慈が大量の『エデン』を持っている以上、ひとりでも多くの仲間が必要なのは変わらないでしょ?」
理路整然とした理系少女の追及に、全てにおいて完璧なはずの生徒会長が押し黙る。
「工藤はもうファントムガールの秘密をほとんど知っている。それでいながら今までと同様に私たちと接し、しかも七菜江や・・・あなたを守ろうとし続けている。仲間として迎えるのに、これ以上はない人間とも思えるわ」
「でも・・・彼は光の戦士になるとは限らないわ」
「そうね。だからあいつは片倉響子に誘われても『エデン』を拒み、あなたも最後の『エデン』を使えないままでいる。逆に言えば全てを工藤が知った今、光になるか闇になるか、それだけが最後に残った関門よ。そこをクリアすれば・・・あなたは工藤に『エデン』を託す」
振り向いた夕子の鋭い視線が、突っ立ったまま表情を変えない美貌を射抜く。
軽く溜め息を吐いた里美ははぐらかすように、今度は自分がゆっくりと橋の手すりに背中をもたれた。
「随分と、断言するのね」
「あなたがそう思っているのは間違いないから」
「夕子は吼介のこと、苦手だったんじゃなかったっけ?」
「まあね。私はああいうハッキリしない男は嫌い。あいつが仲間になるとも正直思えない。でも、私なんか比べられないほど長く付き合ってきたあんたがいいって思うなら、それ以上反対することなんてできない」
「私だって・・・吼介が光の戦士になるなんて自信はないわ・・・」
漆黒の瞳が伏し目がちになる。感情の揺らぎが、琴のような里美の声を翳らせた。
「吼介の格闘能力の高さは誰もが知っている。でも、正義と悪、どちらとも取れない彼の資質が『エデン』との融合を躊躇わせるのは、今に始まった話じゃないわ」
「だからあなたは、私と七菜江がいなくなる間に、工藤を試そうとしている」
一点を見詰め続ける切れ長の瞳が、大きく見開かれる。
「敵の状態が混乱している今なら実験はやりやすい。万が一を考えれば七菜江の前で工藤の真実を見るのは避けたい。あなたにとって、千載一遇のチャンスがやってきたんじゃないの?」
「吼介は・・・片倉響子の誘いを断っているのよ。『エデン』との融合なんて、彼自身が・・・」
「あいつは五十嵐里美の頼みは断れない」
「・・・彼がミュータントになる可能性だってあるのよ」
「そのときは里美自身の手で殺すつもりでいる。だから、七菜江がいない時を選んだ。違う?」
垂れがちな瞳に真摯な光を浮かべて、夕子は真っ直ぐに里美の横顔を見続けた。
風が水面を渡る。鳥が高く啼く。
気品に溢れた蘭のごとき少女は、俯き加減であった美貌をあげ凛と正面を見据えて言い切った。
「違うわ。私は吼介に『エデン』を融合させるつもりなんてない。絶対に、ないわ」
「・・・そう。なら、いいんだけど」
珍しく語気が強い里美に、夕子は落ち着いた声で応えた。
「工藤に『エデン』を与えないのは正解だって、あなたの理性がわかってるのは知ってるわ。ただ感情のどこかが、あいつと一緒に闘いたがって暴走しないか心配でね」
開きかけた唇を里美は閉じる。涼やかで、それでいて憂いを帯びた深い瞳で、そのまま赤髪の少女を黙って見詰め続ける。
「じゃあ、安心して、東京巡りを楽しませてもらうとするわ」
背中を向けたクールな少女は、用件を済ませると、振り返ることなくスタスタと湖上の橋を渡り去っていった。
「しないわ、そんなこと・・・あなたに言われなくたって・・・」
秋の穏やかな風にも掻き消えそうな呟き。
18という年齢以上に落ち着いた普段の令嬢からは想像できないほど、その口調は随分と幼い響きを伴って、風の中に溶けていった。
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