雪白花嫁 ―王子様のキス―

千日紅

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本編

王子様のキス

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 ヨナスとはこういう男だったろうか。数ヶ月ぶりに会ったヨナスの男ぶりに圧倒され、ルルは息も止まりそうだった。 
 ルルよりもうんと背が高い。着崩したシャツの襟元からは、太いのど仏が見える。シャツの内側からよく鍛えられた筋肉があちこちを押し上げていて、肩の辺りの張りは今にも仕立ての良いシャツが悲鳴を上げそうだ。 
 腰の位置は高く、足は驚くほど長い。ヨナスはこの長い足で大股で、歩幅の半分程度のルルに合わせて歩いてくれる。 
 金色の豊かな髪は、襟足のあたりで跳ね返るくらいに伸びていた。長めの前髪も今は額に流されている。秀麗な額を見せている姿はきりりとしているが、このように鋭い目を横切るように金色の筋が通っていると、妙に仇めいて見える。 
 真っ直ぐな鼻梁。幾らか肉厚な唇、がっしりとした顎は猛獣を思わせる。敵を許さず、味方をよく守る獣の王。 
 その青い目は、空とも海とも知れぬ、真っ青な本物の青だ。近頃は工場がそこここにできて、煙が流れたあには少し空の色が濁る。そういうまがい物じみた青では無くて、青の中の青。 
 ヨナスの所作には、動き出すまでにいつもゆったりとした間があるのに、それでいて素早い。ヨナスはルルに椅子を勧めて、自分も座ったが、勧められたルルより先に椅子に座った。 
 ヨナスは足を組んで、その上で手を握った。ヨナスの手はルルの手よりも随分と大きい。節の立った指も長くて、手首もがっしりとしている。 
 ヨナスが咳払いをして、ルルははっと顔を上げた。ヨナスが少し困ったような顔でこちらを見ている。 
(私ったら、ヨナスに見とれてしまって) 
 ルルは居住まいを正した。ぴんと背中を伸ばして、揃えた膝の上で手を重ねる。 
 ヨナスは眩しげに目を細めてから、口火を切った。 
「ルル、これから話すことを、落ち着いて聞いて欲しい」 
 妙な口ぶりだ、とルルは思った。いつもであれば、ルルを膝に乗せて、かわいいだきれいだと言って、ルルに嫌がられるくらい馴れ馴れしいのに、他人行儀過ぎる。 
「わかったわ、ヨナス」 
 ヨナスは僅かに眉根を寄せる。 
(……機嫌を悪くした? じろじろ見ちゃったからかしら) 
 ルルの雪白の頬から赤みはまだ去っていない。 
 ヨナスはふーっと長く息を吐いた。それから、ルルの目を見据えて、 
「ルル、俺と結婚してくれ」 
と言った。 



 鏡よ、鏡。 
 世界で一番、あの方に愛されるのは――。 



「……え……」 
 ルルの頬にじわじわと血が上る。赤みはルルの目の下を横切って耳にも達する。膝に置いていた手を上げて、ルルは頬を押さえた。 
 頬は熱い。熱い――夢ではない? 
「……あ、あ、あの、の、ヨナス、今、なんて……」 
 動揺してどもるルルに、ヨナスは噛んで含めるようにもう一度言った。 
「俺と、結婚して欲しい」 
 ルルは思わず目を閉じて、両手で顔を覆った。 
 あのヨナスが、ルルの王子様が、彼女に結婚を申し込んでいる。嘘みたいだった。びっくりして、嬉しくて、言葉にならない。 
 波のように押し寄せる喜びに、ルルは打ち震えた。 
(夢みたい……) 
 ルルは目に涙を浮かべて、両手の隙間から、ヨナスをのぞき見た。ヨナスはどうしてか、苦虫をかみつぶしたような顔をしている。 
(そうだ、返事を……。はいって言うのよ、ルル。はい、喜んで) 
 ルルは指で滲む涙を拭って、答えを言いかけた。「は……」 
 それをヨナスが遮った。 
「もちろん、形式上のものだ。そうすれば、王立学院にお前を預ける必要も無い。妻は夫のものになる。魔女もお前には手出しができない」 
 ルルはぱちくりと長い睫をはためかせた。 
 意味が理解できない。 
「一度、グンターの、ルル、お前も知ってるだろう。あいつの家にお前を養女に入れる。そこから、俺の元に嫁げば、あの魔女からは縁が切れる。俺の妻となれば、あの忌々しい女もこれ以上お前に関わろうとしないだろう」 
 ルルの顔から赤みが引いていく。 
 雪白の頬が強ばる。ヨナスは話を続けていた。 
「……もし、お前に誰か好きな男ができて、そいつが、俺よりもルルを守るにふさわしいと俺が判断したときは、離婚してやる。それまでは、俺が……今度は、義兄ではなく、夫としてお前を守る。 
 それが一番、お前のためになるだろう」 
 ルルの頭ががんがんと痛みだす。 
(ヨナスは何を言ってるの? 形式上の結婚? 好きなひとができたら離婚する? 私のため?) 
 ルルはヨナスに迷惑をかけないようにと、必死に努力を重ねてきたのに。それはひとえに、ヨナスが大切だから、ヨナスがルルにとって、一番、好きな人だから。 
 ルルは、押し寄せる絶望の中で、はっきりとヨナスへの恋を自覚した。 
「……ヨナスは、私を、守るために、私と、結婚してあげようって、言うの……」 
 ヨナスは目元に落ちかかった前髪をかき上げて、足を組み替えた。 
「そうだ。お前を守ることは俺の責任だ」 
「……私のことを、あ、あ、あい、しているから、結婚するのではなく」 
「何を言う、ルル。お前のことを愛しているに決まっているだろう。世界で一番お前を愛しているよ。だって、お前は俺の大切な妹なんだから」 
 ヨナスの声は優しかった。ルルに言い聞かせる時の、猫撫で声だった。幼いルルが苦い飲み薬を嫌がったときや、一人で眠るのが恐いと言ってヨナスのベッドに潜り込んだときによく聞いた、優しく低い声。 
 ルルは椅子から静かに立ち上がった。 
 そうすると、ルルがヨナスを見下ろす形になる。いつもは見上げるばかりの顔を、上から見下ろすと、ヨナスの顔の印象も変わる。目尻のあたりにあった甘さはかき消え、挑むような鋭い目つきに変わる。 
「……あなたとは結婚できないわ」 
 ヨナスはあきれ顔でため息をついた。 
 ルルがどれだけ苦しい思いで言ったか、ヨナスにはちっとも伝わらない! 
「ルル。お前の意見は聞いていない。俺が決めたと言ったらそうするんだ」 
 ヨナスの眼光が鋭さを増す。ルルは眦に力を入れて、にらみ返した。真っ黒い目に、激情を宿して。 
「……どうしてもなの? ヨナスは……そんな風に、形ばかりの結婚をして、いいの? 本当に愛している人と結婚したいと思わないの!?」 
 ルルはそう思う。だから、ヨナスにもそう言って欲しい。 
(私を愛しているから、妹ではなく私を愛しているから結婚したいとは言ってくれないの) 
「ルル、形式上の結婚と言っただろう。夫婦にはならなくてもいいんだ。俺達の関係は今までと変わらない」 
「変わらないなら、結婚なんてしなくてもいいじゃないの!」 
「お前は俺の言うことを聞いていればいいんだ。この前のことを忘れたのか? お前は俺の忠告を聞かず、まんまと毒を飲んだのだぞ」 
 ルルはぐっと喉に言葉をつかえさせた。それでも必死で言葉を押し出す。 
「愛のない結婚なんて無意味だわ!」 
「愛のない結婚なんて、この世にごまんと溢れている」 
 ヨナスは、薄笑いさえ浮かべてルルを言い込めようとする。 
「やけに愛、愛とうるさいが、結婚を拒むような理由がお前にあるのか?」 
 売り言葉に買い言葉で、ルルは叫んだ。 
「あるわ!」 
「じゃあ、言ってみろ!」 
 ヨナスが組んでいた足を解いて立ち上がる。次は見下ろされて、威圧される。 
 ルルの大好きな真っ青な目が、興奮に青さを増している。 
「まさか」 
 ヨナスの呟きに、ルルは答えを被せた。 
「……好きな人がいるから、あなたとは結婚できません」 
 やっと告げたルルの震えた声に、ヨナスは牙を剥き出しにした。 
 唸るように、「誰だ、言ってみろ」と続ける。 
 ルルは首を振った。 
「言えないような相手なのか」 
 また首を振る。そして、心の中で答える。 

(ヨナスお義兄さま、あなたです。 
 私が好きなのは、世界でただひとり、ヨナス、あなただけ) 

 ルルの黒い目がみるみる潤む。眸子に温かい涙の膜が張ると、ぶわりと溢れ出た。 
「言え! どこのどいつだ……俺の愛しい妹をたぶらかしたのは!」 
 ルルは涙をこぼしながら、赤い唇をわななかせる。 
 言えれば、どんなにか楽だろう。でもそうしたら、きっとルルを甘やかすばかりのヨナスは、自分の未来にあるかも知れない愛によって結ばれる幸せな結婚を棒に振って、彼女と結婚してしまうだろう。 
 愛する人の幸せに影を差すと知って、どうして愛が告げられよう。 
「くそっ! 殺してやる!」 
 ヨナス激しい言葉に、ルルは華奢な肩を震わせる。ヨナスはルルの怯えに気づくと、おずおずとルルの肩に手を置いた。 
 彼の手から温かさが沁みてくる。更にルルの目から涙が溢れる。 
 はらはらと涙するルルの肩を、ヨナスは抱き寄せた。 
「お願いだ、ルル。俺と結婚すると言ってくれ。……泣き止んでくれ、頼むから、お前の涙を止めるには、どうしたらいい……」 
 ルルはヨナスの胸にレモンの色をした髪をなすりつけるように、頭を寄せた。 
 ヨナスの熱い手はルルの小鳥のような背中を一撫でしてから、彼女の顎に添えられた。 
 泣き顔を仰向けられる。涙に曇った視界が、青く閉ざされる。 
「ルル……」 
 ルルの赤い唇に、ヨナスの唇が重なった。 

 初めてのキス。ルルの王子様がくれたキス。 

 ルルは大きく目を見開いて、咄嗟に手を振り上げた。その細い手首をヨナスががっちりと掴む。 
「ん……!」 
 口づけが深くなる。ルルが逃げようとしても、ヨナスは恐ろしいほどの熱量で彼女を縛る。 
 息もできない激しさで、唇が貪られる。背骨が折れそうなくらい強く抱きしめられ、ルルは爪先立ちでヨナスに縋った。 
「ふぁ……」 
 唇が離れても、ルルの頭は痺れ、酩酊したように膝ががくがくする。足が床についているのかもわからないくらい。 
「……ああ、こうすればいいのか。俺の言うことをちっとも聞こうとしない愛しいルル。キスをしたら、お前は俺の言うことを聞くのかな」 
 違うと言いかけた唇がまた塞がれる。 
 我が物顔にルルの赤い唇をしゃぶり、舌を吸う。 
 キスの合間にヨナスは苦く囁いた。 
「お前が、うんと言うまで、毎日キスを贈ることにするよ。どうか……俺の花嫁になってくれ、ルル」
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