囚人花嫁

千日紅

文字の大きさ
上 下
5 / 16
本編

招待

しおりを挟む

 自分の動きにつれて、髪が揺れるのが新鮮だ。邪魔でもあるが、結んではならぬと言われ、諾としたのだから、結べない。
 不思議なことに、アンネリーゼが自分の新たなスタイルを受け入れてしまえば、周りもアンネリーゼにとやかく言うことはなかった。時折感じる視線も害意は感じない。アンネリーゼが振り返ればそそくさと逸らされてしまう程度だ。
 何より生徒達が以前よりも授業に熱心になってくれた。
 ニコラスには会っていない。廊下ですれ違ったニコラスは、アンネリーゼを見て驚いた様子を見せたが、一緒にいた同級生に促され、足早に立ち去って行った。見送るアンネリーゼにニコラスは振り返らなかった。
「アン先生、ぼーっとしてる」
 アンネリーゼの膝に巻き毛の少女が頭を載せてくる。
 昼休み、ほとんどの生徒が教室の外へ遊びに行っている。
 アンネリーゼは椅子に座って窓の外を眺めていた。
「くすぐったいわ、ヘルガ」
 ニコラスもよくこうして膝に頭を載せてきた。ニコラスを立派に育てるために頑張ってきたつもりだった。わかっていたことだ、いつしか手元を離れていくことを。
 ただ、アンネリーゼは、ニコラスが飛び立った後に、自分が何を支えにして生きていくのか、考えることを放棄していたのだ。
 アンネリーゼはヘルガの頭を撫でた。利発でかわいらしいヘルガは、クラスの人気者だ。正義感もある。まっすぐに育ってほしいと思う。
 ヘルガを膝に乗せていても、どこか空漠とした思いが去ってくれない。
「アン先生! ヘルガ、先生にお手紙預かってきたんだ!」
「お手紙? どなたかしら?」
「さっき廊下で学院長先生がくれたんだよぉ」
 ヘルガがスカートから取り出した封筒は端が丸まっていた。
「まあ、たのし……んっ、ゴホっ」
 透かしの入った封筒に、封蝋がしてある。その印璽を見てアンネリーゼは喉を詰まらせてせき込んだ。双頭の蛇と獅子。


『……命令に従順とは結構なことだ。
 男を悦ばせるには容姿も手管の一つだと、決して短くない独身生活の中で学んでこなかったのは残念だったな。……』

「アン先生、お手紙なんて書いてあるの?」
「あの方は、なんて腹立たしい言葉の選び方がお上手なのかしら」
「それって作文が上手ってこと?」
「そうね、とってもお上手だけど、お手本にはしちゃだめよ、ヘルガ」
 ディートリヒの訪れとともに始まった一週間は終わろうとしている。
 手紙には週末の招待がされてあった。
 それと別に同封された紙をアンネリーゼはじっと見る。
「……地図?」
 王都の中心市街地だ。商店が軒を並べるあたり、赤いしるしと時間が書き込んであった。



 王都にガス灯がともり始める頃、アンネリーゼは大通りを歩いていた。
 普段の生活では図書館と学院だけで事足りてしまうため、王都に来てから街を歩くのはこれが初めてだ。
 大通りの両脇には商店と飲食店が並んでいる。商店は店じまいを始め、飲食店に灯りがつき始める。
 アンネリーゼは看板を見上げながら石畳の道を歩く。そんな彼女を、やはり道行く人がちらちらと振り返るのだが、アンネリーゼは看板を見ることにしか気が回らない。
 だから、前から来た人物とぶつかってしまった。
「きゃっ!」
「わっ、何だこの無礼者、しっかり前を向いて歩け!」
 尻もちをついたアンネリーゼは、自分を怒鳴りつけた人物を見上げた。
 年はアンネリーゼよりいくらか上だろうか。レースのクラヴァットが夕暮れの中でも目立つ。フロックコートのそで口は赤い刺繍がされていて、ぴったりしたズボンの下はピカピカの乗馬靴。茶色い髪は赤いベルベッドのリボンで束ねて肩に流されている。顔は、茶色の目が子犬のように垂れ下がっているが整っている。ひょろりとした体つきといい、全体的にいささか軟弱さが目立つが。
(……都会って男性も華美なのね)
 アンネリーゼはしげしげと男性の服装を見てしまう。すると男性は瞬く間に顔を真っ赤にして、後ろを歩いていた年配の男性に声をかけた。
「セバスチャン! こちらのレディーを立たせて差し上げろ!」
「わかりました坊ちゃま」
 口ひげをきれいに整えた執事の手を断り、アンネリーゼは立ち上がった。
「ぼんやりしてご迷惑をおかけしました。では、失礼します」
「お、お待ちください!!」
 男性に声をかけられ、アンネリーゼは立ち止まる。
「こんな夜分に女性が独り歩きは危険です。どうぞ、送らせて下さい」
 王都の治安はすこぶる良く、女性の独り歩きにも何ら問題はない。アンネリーゼが周りを見回せば、一人歩きの女性は他にもいる。
「いえ、大丈夫ですから」
「これも何かの運命です! ぜひお供に」
 押し問答となり、周囲の目が気になったアンネリーゼは、仕方なく男の申し出を受け入れた。




 地図の場所にたどり着くと、そこは仕立屋だった。
 ピートル=ブロイツェンと名乗った男は、当然のように仕立屋にもついてこようとする。
「私はひととの約束で来ているのです。遠慮なさっていただけませんか」
「いえいえ、街に不慣れなあなたをひとりにはしておけません。ここでの用事を済ませて、ぜひ僕の邸においで下さい。じっくりあなたとお話したいのです」
 派手な衣装と垂れ目にも関わらず、ピートルは押しが強かった。
 アンネリーゼが困っていると、店の前に二頭立ての馬車が乗りつけられる。
 二頭とも素晴らしい青鹿毛である。馬車は四輪の箱馬車で、窓に黒いカーテンが掛けられているため中は見えない。
 アンネリーゼの胸が高鳴る。きっとアンネリーゼが待ち合わせをした人物に他ならない。
 御者が馬車の扉を開けると、颯爽とひとりの男性が下りてくる。やはりディートリヒだった。
 人目を避けたのだろう、特別に上等な服は着ていない。黒いフロックコートに白いズボン、前髪を厚く下ろして、あの稀有な顔立ちも隠し気味にしている。だが、そこに立っているだけで人目を引く。
「おや、ピーティー坊や、こんなところで会うとは」
 ディートリヒはピートルに声をかけながら、アンネリーゼの腰を強く抱き寄せた。
「へ、陛下、その女性は、まさか噂の女教師というのは」
「坊やが気易く声をかけて良い相手ではないな。いい加減生活を正して御父上を安心させてやるがよい」
 坊やとは言うものの、ディートリヒとピートルにそれほどの年の差があるとは思えないアンネリーゼだが、格の違いはひしひしと伝わってきた。
 それこそ大人とこども程の差を感じる。
 ピートルは髭の執事を連れて、アンネリーゼに未練のある様子を見せながらも、そそくさと去って行った。アンネリーゼはやれやれとその後ろ姿を見送る。
「こら」
「きゃっ!」
 ディートリヒに強く腰を引き寄せられた。
「男を悦ばせよとは言ったが、他の男に色目を使えとは言っていない」
「色目なんて使っていません!」
「さてどうやら、それはあとでじっくり聞こう。どうやらお前の口はお前の体ほど正直ではないようだから」
「私は嘘なんて……」
 アンネリーゼは俯いた。やましいことがなければ反論もできたが、ディートリヒに対してはいつもの『嫁き遅れた女教師』の仮面がかぶれない。
「まあよい。マダム、ここにいる女性に似合う服を持ってきてくれ」
 店の奥からふくよかな体つきの女主人が現れる。
「かしこまりました、陛下。なんて美しいお嬢様!  腕がなりますわ!!」
 ディートリヒが連れまわす女性には、それなりの衣装が必要ということらしかった。週末の招待を受けるにあたって、必要な衣装がディートリヒの指示で準備されていく。招待を辞退するという選択肢は、そもそも彼女には与えられていない。
 アンネリーゼにしては、動きやすいドレスが一枚あればよいだけのことなのだが、午前のドレス、昼のドレス、夕食のドレス、ナイトドレス、ドレスだらけである。
 更には乗馬服も一式誂えられる。
 アンネリーゼは思ってもみなかった。着替えては脱ぎ着替えては脱ぎの繰り返しが、これほど疲れるものだとは。
 一通り終わる頃には、アンネリーゼはぐったりとしてしまっていた。
「お嬢様、これで終わりですよ。まあほんとにほっそりとしてらっしゃるのにお胸は豊かで! もう少し太られてもよいくらいですよ」
「そんなことは……ああ、でも終わりなんですね。私の服は?」
「陛下のご命令で処分いたしました。そのドレスをそのままお召し下さい」
 アンネリーゼが着せられているのは、ハイウエストのモスリンのドレスである。
 コルセットを付け慣れていないアンネリーゼにも着心地良い。春とはいえど夜は冷えると羽織らされたショールはふんわりとして軽く、おそらく目が飛び出るほど高価なものだと思われた。
 しかし、アンネリーゼの服がいくら気に入らないといっても、断りもなく処分するとは。
「おぐしはどうなさいましょう」
「結んではならないのです」
 マダムは怪訝な顔をする。
「私は陛下に逆らえないのです」
 憤然としてアンネリーゼはマダムに言った。
 そこに、ディートリヒが話に割って入る。
「おや、麗しのアンネリーゼはご機嫌斜めか」
「陛下! 私の服は……きゃあ! 試着室にどうして入ってくるんですか!」
「待ちくたびれた」
 亜麻色の髪を長く垂らし、懐古的なドレスを纏ったアンネリーゼは、絵画に描かれるニンフのごとき清らかさを感じさせた。
 透き通るように白い頬に朱がさすと、みずみずしく実った白桃のようである。
「さながら私は乙女を堕落に誘う悪魔の役どころか」
 ディートリヒが手を差し出す。
「もう帰ってもよろしいですか」
「明日は早い。ゆっくり休むがいいよ」
 試着を終えて、仕立屋はドレスの海となっていた。淑女の服装はドレスだけではなく、帽子や扇子、宝石も含まれる。
 それらはマダムがディートリヒの意向を受けて準備するのだと言う。
 ほとほと疲れたアンネリーゼは、マダムに簡単に礼を述べ、来店した時と同じように帰ろうとする。
 ディートリヒはそれを許さず、御者に彼女を乗せていくように命じた。
「陛下は御帰りにならないのですか?」
「誘っているのか、アンネリーゼ」
「違います!」
「忘れるな、アンネリーゼ」
 ディートリヒの唇が笑みを帯く。秀麗な美貌が翳り、アンネリーゼは乗ろうとしていた馬車のタラップで脚を止めた。
 何か言おうと思ったが、うまく言葉にならない。『忘れることなどありません』そう言えばいいのだろうか。アンネリーゼは迷いを振り切るように、馬車に体を滑り込ませた。
 御者が馬を走らせ始める。
 石畳を車輪が叩く音が早くなるとともに、ディートリヒの姿が遠く、闇に溶けて行った。




 仕立屋の床のドレスはすっかり片づけられていた。
 巻いて長い筒状になった布の林の中に、黒いローブにフードを頭からかぶった人物が立っている。
「アンネリーゼ嬢をどうなさるおつもりですか、陛下」
「珍しいな、お前が関心を持つとは」
「リンツ博士の忘れ形見です。あの方がいなければ、我らはこうして陛下にお仕えすることは叶いませんでした」
「あれは賢すぎず、愚か過ぎず、良い駒になるであろう」
 ディートリヒの瞳の色が、苔色から橄欖色に変わる。
「リンツにせよ、お前たちにせよ、情と言うのは厄介なものだな」
「皆、陛下なくしては成り立たないのです。この国も、我々も」
「つまらぬな」
 ディートリヒは物憂げにアンネリーゼが着ていたドレスの一枚を手に取った。
 逆毛を立てた子猫のようだったアンネリーゼ。零れ落ちそうな瞳で彼を見上げ、震えていたアンネリーゼ。
「お前は、余を楽しませてくれるか? 愛しいアンネリーゼ」




 その夜、アンネリーゼはベッドに入る寸前に、一冊の本を開いた。
 彼女は時々小さな悲鳴を上げながら、最後までその本を読んだ。



 *


 月の光がさらさらと音を立てて降っている。
 アンネリーゼは魔法使いの髪に手を伸ばした。
『きれいね。目も、とってもきれい。お母様が持っている宝石みたいだわ』
 彼は苦笑して、アンネリーゼの手を取って、彼女の膝に乗せた。
『そう言うのはお前だけだ。みな、私のことをジンだと言って忌む』
『ジン?』
 彼は書架から一冊の本を取りだした。
 異国の言葉で書かれた絵本には、美しい挿画があった。煙の中から出てくる巨人、それを差して、彼は『これがジン』と言う。
『全然似てないわ』
『ジンはどんな姿にもなれる。魔神なんだ』
『魔物? 神様? じゃあ、本当に魔法使いなのね!』
『アンネリーゼには難しいな。どんな願いも叶える魔力を持っているとされている。私のこの髪の色はジンの証だそうだ。母は私を恐れた』
『お母様? アンネリーゼのお母様は死んでしまったの。とっても悲しいわ』
『アンネリーゼ、私の母ももう死んだ。父も死んだよ』
『それは、とってもとっても悲しいわ』
 アンネリーゼは訥々と己の思いを語った。母がどんなに美しく、素晴らしい女性だったか。どんなに自分を愛してくれたか。幼いアンネリーゼにとって、母の死は飢餓にも似た喪失感を与えた。
 彼はアンネリーゼの話をただ黙って聞いていた。
『お前のように肉親の死を悼むことは、私には難しいな』
 今度は彼がアンネリーゼの髪に手を伸ばす。子供特有の細くやわらかい髪の毛を指に滑らせる。
『私は時折、何もかも壊したくなる。きっと私にはそれができる。だから母は私をジンだと言ったのかもしれない』
 水脈を変えれば、国を枯れさせることは容易いし、地脈を揺るがせば山々は怒りに震え見渡す限り焦土と化す。戯れに口をすれば、博士は顔を真っ赤にして怒り狂っていた――。
 アンネリーゼは、彼の言っていることの内容を、あまり理解できなかった。
『でも、困っちゃうわ。全部壊れたら』
『アンネリーゼは困るか?』
『うん。だって、そろそろ植えた花が咲く頃だし、大好きな果物もなるし。川で泳ぐのも好きだし、踊りだって、歌だって大好きだし。本も沢山読まなきゃ。ここには珍しい本もたくさんあるって! お父様も大好きだし!』
 言っているうちに、アンネリーゼは胸にぽっかりと空いた穴がどこか満たされていくように感じていた。
 母の死が開けた風穴は、びゅうびゅうと心に冷たい風を吹き込んでいるけれど、それでもアンネリーゼにはよろこびがあった。アンネリーゼの幼い生命が、よろこびを感じ取っていたのだ。それはどんな出来事も打ち消せない、命の営みそのものだった。
 アンネリーゼの顔が輝く。幼いながらも整った面は、その瞬間、小さな女神さながら神々しく月の光を受けていた。
『では、アンネリーゼ。お前に免じて、私はおとなしく周りに与えられた役割を務めることにしよう』
 彼がアンネリーゼに手を差し出す。アンネリーゼはごく自然に彼に手を伸ばした。
 二人の手が重なる。温かくも、冷たくもない。触れたところはまるで熱が均一で、初めから繋がっていたかのようだ。
『嬉しいわ。ありがとう、魔法使いさん! あなたのことも大好きよ!』
 アンネリーゼは彼の頬にキスを贈った。

しおりを挟む

処理中です...