囚人花嫁

千日紅

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本編

闇月夜

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 領主の城であるヴァイゼンブルク城についたのは夕暮れであった。
 ヴァイゼンブルク城は白峰のふもとにあり、村からは随分標高が高い。
 辺りには雪が残っていた。馬車が通る道こそ地面が見えているが、その他はまだ一面に雪が積もったままで、木々の幹が埋もれている。
 村のあたりでは濃かった春の気配も、城の周りでは木々の新芽に宿る程度だ。
 白峰から吹き下ろす風は冷たく、春が来てもなかなか雪は消えない。冷えると春でも雪が降る。
 ブロイツェン伯爵は急なディートリヒの訪問にも関わらず、一行を歓待した。
 アンネリーゼに対しても慇懃な態度を取ったブロイツェン伯爵はピートルによく似ていた。若い頃は伊達男を気取って浮名を流していたと聞く。ただ、額や口元には、放蕩の日々のつけで刻まれた皺が深く、老いを感じさせた。
 アンネリーゼは着いてすぐ、ディートリヒと別れ、客間のうちの一つに通された。
 アンネリーゼ付きの次女は「テレーゼと申します」と名乗った。冷たく整った人形のような顔をした、若くなく、老いてもいない女性だと、アンネリーゼは思った。
 一旦は断った侍女だが、アンネリーゼは貴族ではない。ただの平民だ。コルセットをつけることも、ボタンが背中に一列に並んだドレスを着ることも、必要ではない生活をしていた。
「ご不自由のないようにと、陛下のご命令です」
 そう言われれば、アンネリーゼに断ることはできない。ディートリヒとアンネリーゼの間には、身分と言う大きな隔たりがある。例え、抱き合って口づけをしようとも、決して交わらないものが二人の間に存在する。
 一旦離れてしまえば、次第に頭が冷えてくる。ほんのりと温かく膨らんでいたものが、冷えて硬くなる。
(しっかりしてアンネリーゼ。わかっていたことじゃない)
 例え優しくとも、彼はアンネリーゼをからかって、その反応を面白がっていただけなのではないか。淫らな遊びをしかけて、アンネリーゼがそれにとろける様を笑っていたのではないか。
 度々顔を覗かせていた疑念は、ディートリヒと離れたことで、アンネリーゼの中で恐ろしいまでに湧きあがった。そして、その疑念は、何よりもアンネリーゼの心の奥深くに突き刺さっていた。
 もし、ディートリヒに疑念を肯定されてしまえば、アンネリーゼの心は砕け散ってしまうに違いない。
(バカな私。あの方に、心を奪われてしまったのだわ)
 意地悪な言葉、皮肉げな微笑。アンネリーゼを優しく包み込んだ温かな胸。
 心は見えない。
 あの真夜中の図書室が懐かしかった。何も知らず、ディートリヒと出会った瞬間。瞬間だけが永遠に続けばいいのに。



 ディートリヒを迎えたブロイツェン伯爵との晩餐には、ピートルも招かれていた。
 ヴァイゼンブルグ城は、砦として建てられた城である。
 従って、場内は装飾的ではなかった。窓は必要最低限の数しかなく、昼間でも薄暗い。
 春だと言うのに、場内は冷え冷えとして、人を寄せ付けない。使用人もよそよそしい。アンネリーゼは、それはおそらく彼女の身分も関係しているであろうと思った。
 ディナーが用意されたダイニングは打って変わって、華美な装飾が目立った。
 暖炉には火が入れられ、赤々と燃えていた。
 ディートリヒの服装は礼儀にかなったものだが、装飾はなく、宝飾品も一切身についていない。反面、彼の彫刻のような美貌が際立っている。
 ブロイツェン親子は、二人とも華美な衣装を纏っていた。特に、伯爵は大振りの宝石のついた指輪を幾つもはめていた。
 アンネリーゼは着なれない絹のドレスに戸惑いながら、一方的に話しかけてくるピートルに辟易していた。
「陛下が恋人をお作りになるなんてことは初めてです。きっと、アンネリーゼ嬢の美しさがあってこそ」
「きっと、ただのきまぐれですわ」
「本当ですとも。あなたの故郷だからこそ、こうして陛下は王都からお出になってこられたと。ヴァイゼンブルグは父が治めていますからね。今まで、陛下は国事のとき以外は王都から出られませんでしたので」
 ディートリヒはアンネリーゼにはまるで関心がないかのように、ブロイツェン伯爵と話し込んでいる。
 どうやら明日は狩りに行くようだ。
 この国では、狩猟は貴族以上の階級にしか許されていない。農民たちは害獣駆除を目的としてイノシシやシカ、兎を駆るが、貴族は狼や熊といった大型の獲物を狙う。
 狩りにはディートリヒとブロイツェン伯爵、ピートルとそれらの従僕達が参加することになった。
「アンネリーゼ嬢。淑女は狩りなど野蛮だとお思いですか?」
 ピートルは自分が今までの狩りの獲物自慢をしたあと、アンネリーゼに聞いてきた。
「私たちは命を奪い食して生きているという意味においては等しく野蛮です」
 アンネリーゼは、ディートリヒがアンネリーゼの答えを聞いて笑ったような気がした。ディートリヒを見ると、彼はブロイツェン伯爵とにこやかに話を続けている。
 ピートルは、アンネリーゼが答えたことの意味を理解することが難しかったようで、ぽかんとしていたが、またすぐにアンネリーゼに話し始めた。
「さすが、アンネリーゼ嬢はその辺の貴族の令嬢とは違いますね。今まで浮名を流してこられた陛下が、ただの女教師に夢中になったと、あっという間に噂になりましたよ! 何人の令嬢が涙を流したことか! 陛下は、来るものは拒まず、去るものは追わずで」
 アンネリーゼはそっと食器を置いた。これ以上、ピートルの話を聞くことには耐えられそうもない。その動作を受けて、ディートリヒがアンネリーゼに視線を向ける。
「どうやら疲れてしまったようです。無作法ですが、先に失礼いたします」
 ディートリヒが頷くのを視界の端で捉えて、アンネリーゼは俯いてダイニングを去った。




「もうお休みですか、アンネリーゼ様」
 テレーゼはよく気の付く侍女だった。アンネリーゼが予定より早く晩餐を辞しても、理由を問うこともなく、温かい飲み物と、ハーブで香りを付けた温かいタオルを持ってきた。そうした様子を見ているうちに、アンネリーゼは彼女が自分よりも年若い娘だということに気付いた。
 アンネリーゼは渡された飲み物をゆっくりと飲み、タオルで顔を拭いた。その間にテレーゼは入浴の支度をした。用意されたナイトドレスは、細い肩ひもにフリルが豊かに縫い付けられ、前裾が割れて後ろ裾に美しいドレープを作る。幾重にも重ねられた薄絹は白地に銀の縫いとりが施してある。女性なら誰でも夢見るような美しいドレスだ。
「こういったドレスは着なれなくて……」
 渋るアンネリーゼをなだめながら、テレーゼはドレスを着せていく。テレーゼも若い娘なら、こういった衣装に袖を通したいのではないか。アンネリーゼはついテレーゼに言った。
「私よりあなたのように若い娘が着た方がいいドレスのように思うのだけれど」
 それを聞くと、テレーゼは表情を変えた。彼女がはっきりと表情を変えたのは初めてだったので、アンネリーゼは驚いた。しかも、そこに浮かんだのは好意的な表情に見えた。
「本当にアンネリーゼ様はご自分のことに構われないのですね」
「え? ええ、そうかしら? 身だしなみは清潔を心がけているのだけれど」
「そうですね、清潔は大事です。それと、お似合いになるかどうかも」
 テレーゼは手早く着つけを終えた。アンネリーゼはテレーゼの横顔に、自分の仕事への誇りが浮かんでいるように感じた。
 これ以上何かを言うことは、彼女の誇りを傷つけることになるのかもしれない。
「ありがとう、テレーゼ。あなたももう休んで下さい」
 アンネリーゼは心からの笑みをテレーゼに向けた。
 テレーゼはアンネリーゼの顔を一瞬見つめてから、顔を伏せた。
 ふと窓の外に何かの光が見えた。
 アンネリーゼは窓際に立って、下に広がる庭園を眺めた。
 庭園には雪が残っているとはいえ、それは一部のみで、大部分の雪は避けられていた。春に備えて植栽を新たにするためだろう。
 人影が二つある。一人はランプを持っていて、その灯りが反射したのだ。
 夜目にも際立って涼やかな立ち姿、ランプを持っていない人影はディートリヒに違いない。
(こんな夜更けに何を?)
 アンネリーゼはもっとよく見ようと、窓に手を伸ばした。
「……アンネリーゼ様」
 テレーゼは低い声で話しだした。
 ただならぬテレーゼの様子に、アンネリーゼは息を飲む。
「陛下が、王位を継いでから、王都を空けられないということは、王都を空けることの不利益があったからです。
 つまりは、反逆者が出るかもしれないこと。
 それが、王都を出られたのは、王宮内に、陛下に逆らうものがいなくなった。
 そして、陛下は己に逆らうものを許しません。
 だから、ヴァイゼンブルグに」
「ヴァイゼンブルグに、反逆を企んでいるものがいる、ということね」
「国内に反逆の芽があることを、他国に悟られることは避けねばなりません。ましてやここ、ヴァイゼンブルクは陛下に由来の深い土地です」
「……陛下自らが、秘密裏に、反逆者を処分するために、ここを訪れる理由が必要だったのね」
「アンネリーゼ様」
「もう休みます」
 窓に手を伸ばした手が、行き場をなくして落ちた。
『あなたの故郷だから、陛下は』
 どのくらい立ちつくしていたのだろう。
 もう庭園の人影は消えていた。
 テレーゼの姿もない。
 ナイトテーブルの上に見慣れない絵本が置いてあった。テレーゼが置いて行ったのか。
 手を伸ばす。その手が届かない。アンネリーゼの体が傾いているのだ。
 アンネリーゼの体はそのまま斜めに倒れ、彼女は意識を失った。










『むかしむかし、ある国がありました。
 その国には美しいお姫様がいました。
 ある年、日照りが国を襲いました。
 お姫様は、神様に祈りました。

 どうか神様、雨を降らせて下さい。たくさんの民が苦しんでいるのです。

 神様は言いました。

 代わりにお前を貰い受けよう。

 お姫様は、神様の花嫁になりました。
 神様はお姫様の右腕をちぎりとり土に埋め、左腕をちぎり取り川に流し、右足を獣に食らわせ、左足を焼きました。
 胴体からは木が生え、花が咲き、実が生りました。
 神様はお姫様の頭に聞きました。

 民は苦しみから救われたが、お前はどうだ。

 お姫様は答えました。

 神様、あなたのお傍にいられるならば、こんなに幸福なことはありません。
 どうぞ、私の胴から生った実をお食べ下さい。

 神様は喜んで実を食べました。
 神様と頭だけのお姫様は、ずっと幸せに暮らしました。』



 アンネリーゼはぽかりと目を覚ました。
(私眠っていたの。いつベッドに入ったの……?)
 部屋は灯りが落とされている。確かめるように、シーツの上に手を這わせれば、枕元には絵本が置いてあった。
 何とも奇妙な物語だった。
 挿画は美しい。黒髪の美しい姫と、銀の髪に燃えるような炎の色の目をした神が絡み合う表紙は、異国風だ。装飾の草模様などは、はるか東方から伝来したものに似ている。
(テレーゼが話したこと……あれは夢? 夢じゃないわ、この絵本がある)
 アンネリーゼの心にじわじわと暗い波が押し寄せる。
 天使の彫刻された置時計を見れば、まだ真夜中である。
 アンネリーゼはガウンを羽織って、部屋を滑り出た。



 月は雲に隠れている。あたりはしんとして、空気は冷え切っていた。アンネリーゼの吐く息が白く凍る。
 アンネリーゼはジューンベリーの木の下にしゃがみ込んだ。
 白い小さな花をつけたジューンベリーは、すぐに実を付ける。そうすると鳥たちが実を食べに来て、忙しく飛び回る。
 けれど、今は蕾もなく、夜の闇の中にひっそりと佇んでいるのみだ。
 アンネリーゼは体を小さく丸め、両手で顔を覆った。亜麻色の髪が彼女の華奢な肩を滑り落ちる。
 テレーゼの話が本当だとすれば、ディートリヒの狙いはブロイツェン伯爵だ。アンネリーゼの存在を隠れ蓑にして、ディートリヒは秘密裏にブロイツェン伯爵に何らかの処罰を下すのだろう。
(わかっていたじゃない。バカなアンネリーゼ!!)
 無礼にも国王に手を上げた女が、都合のよいことに反逆者がいる土地の出身だった。
 だから国王は女を利用した。
 それだけのことだ。なのに、なぜ、こんなにも胸が痛むのだろう。
 鋭い爪で掻きむしられた心臓が、どくどくと赤い血を溢れ出させている。
 アンネリーゼを美しいといったことも、よい教師だと言ったことも、口づけも、すべてただの方便だった。
 風が強く吹いた。
 手で覆った目に光を感じ、アンネリーゼは顔を上げる。
 風が雲を吹きやり、月が姿を現わしていた。
 まがまがしいほどに美しい満月。
 月の浮かぶ空を背にして、ディートリヒが立っていた。
 月よりも美しく、月よりも冴え冴えとしたその美貌。
「こんな夜更けにどうしたのだ、美しいアンネリーゼ」
 アンネリーゼは震える脚で立ちあがった。
「逃げるのか? アンネリーゼ」
 逃げない、そう言い返そうとした声が、喉に張り付いたまま、声にならない。
 ディートリヒはいつものようにゆったりと笑みを浮かべた。
 アンネリーゼは両足に力を入れた。逃げたい。そればかりが頭に浮かぶ。何かに縋りつきたかった。
「私を利用したのですか? 陛下。ヴァイゼンブルグに来るために」
 ディートリヒは小首を傾げた。
「やれやれ、体も冷える。もう部屋に戻りなさい」
 駄々をこねた子供に対するような態度に、アンネリーゼはカッとなって声を荒げた。
「私が、私が罪を犯したから、私みたいな女は、利用してもかまわないと、何をしても構わないとお思いですか!  陛下!」
 ディートリヒは目を細めた。
 月光を背にしたディートリヒとは反対に、アンネリーゼは月の光を全身に浴びている。
 透けた薄絹に露わになる女性らしい曲線。長く波打つ髪、青ざめた顔に月の光を浴び黄金に輝く瞳。懐古派の絵画に出てくる女神のようだ。
「そうだ、と言ったら?」
 その瞬間、アンネリーゼの心は闇に塗り潰された。
 そして、アンネリーゼは踵を返して、走り出した。
 決して逃げないと誓った、ディートリヒ、その人から逃げるために。



 幼いころは自由だった。
 アンネリーゼは父と母に愛されていた。風は薫り、花は咲き、朝が来て夜が来る、その繰り返しは美しくアンネリーゼの裡に刻まれた。
 幼いながら、アンネリーゼの母譲りの容貌は、ひとの目を引いた。
 向けられるのは好意ばかりではなかった。母は周囲から浮いた存在であった。旅芸人の女と蔑まれた母は、それでも笑顔を忘れなかった。病を得てさえ。
 父は母を愛していた。けれど、アンネリーゼと母を周囲との摩擦から守り抜くことはできなかった。
 母が死んで、アンネリーゼは母の分まで、周囲からの冷たい視線を感じるようになった。
 父が村々の人々から尊敬されるのは、父が優れた学者だったからという理由だけではない。
 父は、ヴァイゼンブルグの人間で、そして男だった。
 国は男が作り、女は家を守る。そういう通念が、田舎の常識だった。
 アンネリーゼが学問をすることはよく思われなかった。なまじ同じ年の少年より優秀であったのも、反感を煽った。
『どこの馬の骨とも知れない女の娘」
 その言葉を跳ね返すように、学問に没頭し、教職に就いた。日々は瞬く間に過ぎた。
 アンネリーゼはその間、心赴くままに風の匂いを嗅ぐことも、花を愛でることもなかった。
 気付けば、『行き遅れたオールドミス』とからかわれるようになっていた。

 アンネリーゼは走った。何も知らない子どもの頃のように。
 長い髪が風を受けて踊る。
 ただ一生懸命生きてきただけだ。
 弟、ニコラスのことが思い出された。
 ニコラスだけが、無心にアンネリーゼを慕ってくれた。
 ニコラスのために頑張ろうと思っていた。頑張っていたつもりだった。
 けれど、王都に来て気付いた。
 ニコラスはもうひとりでやっていける。
 では、アンネリーゼは? アンネリーゼはどうだろうか。今まで、周りをはねつけることしかしてなかったアンネリーゼが、守るものを失って、どうやって生きていけばいいのだろう。


 庭園は迷路のようになっていた。
 闇雲に走り続け、アンネリーゼは大きな楡の木にたどり着いた。
 葉が豊かに茂り、幹の半ばまで覆っている。
「はぁっ……はぁっ……はぁ……」
 幹にもたれかかり、アンネリーゼが乱れた息を整えようとしていると、後ろからものすごい力で肩を引かれた。
「な…にっ…!?」
 そのまま体をぐるりと裏返され、背中が楡の幹に押し付けられる。
 勢いよく、アンネリーゼの顔を挟むように、捕食者の手が叩きつけられる。
 ディートリヒだった。
 吐息がかかるほどの距離に、絶世の美貌がある。
 彼の呼吸は全く乱れていなかった。
「余から逃げることは許さない」
 ディートリヒの双眸が揺らぐ。猫目石のように変わり、月光を弾く。
 ゆらゆらと燃えている。
 炎の中に閉じ込められているのは、アンネリーゼだ。
「いやっ……」
 アンネリーゼは顔を背け、己を閉じ込めるディートリヒの腕から逃げ出ようとした。
 それをディートリヒが許さず、強く体を押し付けてくる。
「いやっ!」
 今までのディートリヒとの接触には、隙間があったのだ、とアンネリーゼは気付く。
 アンネリーゼを追い詰めながらも、アンネリーゼを待ってくれていた。アンネリーゼの頑是なさを見守り許容するような距離。戯れにアンネリーゼに快楽を与え、その反応を眺めるための距離。
 それが今や、完全に失われている。
 ぴったりと体が重なり、アンネリーゼの胸の膨らみがディートリヒの体との間で押し潰される。アンネリーゼは半ば恐慌状態に陥っていた。そして叫んだ。
「もう、許して下さい! 私を放っておいて!」
 刹那、アンネリーゼとディートリヒの間で全ての音が消え失せた。
 沈黙の中で、アンネリーゼは、ディートリヒの顔から表情が消えていくのを見ていた。
 この瞬間、ディートリヒはアンネリーゼを完全に支配する者へと姿を変えた。


 ナイトドレスはあっさりと破かれた。
 ディートリヒの美貌には歓喜が浮かんでいた。 
 朝には霜になるであろう露を含んだ草の上に、アンネリーゼは標本の虫のように張り付けにされた。
 ドレス越しに寒さが沁み入る。
 就寝時はドロワースはつけないから、すぐにアンネリーゼの下肢は剥きだしになった。
 形のよいふくらはぎも、やわらかく肉を乗せた太ももにも、支配の証が残された。
 引き裂かれた身ごろからこぼれ出た胸は揉みしだかれ、痛いほど吸いつかれた。
 行為によって、アンネリーゼの心身は踏み躙られる。
 だというのに、口づけだけは優しいままだった。
 口づけに答えた自分に、アンネリーゼは深く絶望した。
 凌辱は、アンネリーゼの悲鳴が枯れるまで続いた。






 気を失ったアンネリーゼの体をドレスだった布切れでくるみ、ディートリヒは彼女を抱きあげた。
 ぐったりと為されるがままのアンネリーゼの頬には涙の引きつれた痕がある。
「無体なことを」
 背後からかけられた声に、振り向かず、ディートリヒは答える。
「獲物が逃げれば、狩人は追うものだ」
「アンネリーゼ嬢は森の獣ではございません」
 意志の強さを秘めた瞳が閉ざされると、アンネリーゼはとても儚く、幼く見えた。つい今までディートリヒの下で身悶えていた姿が嘘のようだ。
 腕の中のアンネリーゼに、ディートリヒは頬を寄せる。
 月はまた雲に隠れようとしている。
 影はそれ以上問うことを止めた。
 月光が細りゆくにつれ、ディートリヒとアンネリーゼの姿は闇に溶けて行った。



『アンネリーゼ、何か叶えて欲しい願いはないのか』
 魔法使いはアンネリーゼに静かに問いかけた。
『願い事?』
 たとえば、美しいドレス、高価な宝石、ほかにも。
『亡くなった母に会いたくはないか?』
 アンネリーゼは魔法使いの言葉をゆっくりと頭の中で思い描いた。
 あれほど長く病魔に苦しめられた母が、アンネリーゼのもとから去って行った時の、身を切られるような痛みが蘇る。
 母が蘇れば、この痛みが消えるのだろうか。
 アンネリーゼは考えた。
 もし、母が再び戻ってきてくれたとしても、この痛みが嘘になるわけではないのだ。
『会いたい、会いたいわ。だからね、魔法使い』
 アンネリーゼは魔法使いに向かって両腕を広げて見せた。
『ちょっとだけ』
 魔法使いと呼ばれた彼は、その意味を量りかねたようだったが、アンネリーゼが手をひらひらとさせると、ようやく合点を得たのか、アンネリーゼをそっと抱き寄せた。
 アンネリーゼは魔法使いの腕の中で深く息を吸い込んだ。
 目を閉じれば、魔法使いの心臓の音が聞こえる。
『お歌、歌って……』
 鼓動のリズムに絡まるようにして、魔法使いが歌いだす。
(お歌は……あんまり上手じゃないわ……)
 魔法使いから伝わるぬくもりは、アンネリーゼを心から温めた。温かさは眠気を誘い、それを子守唄にして、アンネリーゼは寝入ってしまった。
『おやすみ、アンネリーゼ』








 次にアンネリーゼが目を覚ました時、薄暗闇の中、見知らぬ寝台の中にいた。
 ヴァイゼンブルク城で与えられた客間のものとも違う。
 四柱式のベッドの柱はチェスナットだろう。細かな装飾が施されている。天蓋からは、薄絹が幾重にも垂らされていて、その向こうに灯りが揺れていた。アンネリーゼはベッドカーテンが作った繭のような寝床の中に一人横たわっていた。
 体中がぎしぎしと痛んだ。
 心も。
 上体を起こそうと腕に力を入れれば、何とか起き上がることができた。
 しかし、体を起こした瞬間に、足の付け根の奥から何かが漏れ出る感触がして、アンネリーゼは戦いた。
 アンネリーゼは何も着ていなかった。
(誰が――誰か――たすけ……)
 アンネリーゼはおぼつかない手つきでシーツを手繰り寄せた。
 恐慌に陥りかけたアンネリーゼがいる繭の外、薄絹の向こうには、アンネリーゼが一番会いたくない人物が座っていた。
「ひっ……」
 ディートリヒは笑みを浮かべて寝台に近づき、カーテンを押しのけると、震えるアンネリーゼの体を一息に抱き寄せた。
「い……や、です……陛下……もう、お許し、くださ……」
 弱々しく拒絶の言葉を口にしようとするアンネリーゼの耳元で、ディートリヒは囁いた。
「それ以上言うな、優しくしてやれなくなる」
 アンネリーゼの双眸を瞼が覆う。
 ディートリヒは、体を固くしたままのアンネリーゼを抱き上げ、バスルームへと運んだ。
 見上げる彼の顔には、激情は露ほども残っていない。それどころか、今までアンネリーゼが目にした中で、最も静謐な美しさをたたえているように感じられた。
 拒絶をすることも禁じられたアンネリーゼは、ディートリヒに従うしかない。
 バスルームには灯りが置かれていたが、十分に暗い。アンネリーゼはそのお陰で、肌をさらすことに耐えることができた。
 なみなみと湯の張ったバスタブに体を沈められる。
 湯はぬるく、花の香りが立ち上ってくる。
 湯の向こうに見える自分の体は青白い。点々と赤いうっ血が散っているが、現実感は薄かった。
 ディートリヒはバスタブのヘリに腰かけ、アンネリーゼの浸かるバスタブの湯を、指先で揺らしている。
 息をすることすらままならなかったアンネリーゼだが、湯の温かさで、体のこわばりが取れてくる。
 ディートリヒはそれを待って、指先でアンネリーゼの肩に触れた。
 さざ波のようにアンネリーゼの脚先にまで、彼が起した波が広がっていく。
「私、もうめちゃくちゃです……」
 絶望の先にあったものは、むき出しにされたアンネリーゼと、アンネリーゼの心の中に新しくともった灯りだった。
「ディートリヒ様のせいです……」
 口にしないままでいれば、この思いは消えるだろうか、それとももっと激しく強くなるのだろうか。
 あのように触れられたことを、どこかでよろこんでいる自分がいる。
 厳しく自分を律してきた日々の中で、アンネリーゼは心底から誰かに求められることを祈っていた。アンネリーゼが例え優秀でなくても、例え器量が悪くても、アンネリーゼを受け入れてくれる誰かに、心を捧げることを願っていた。
 だから、アンネリーゼは勘違いしてしまったのだ。彼女は自分を求められることに、乞食のように飢えていた。だから、誤った相手に心を捧げてしまった。決して報われることのない相手に。更には、純潔まで失い、それでも憎むことすらできない。
 アンネリーゼを傷つけるのはディートリヒ、こうしてその傷を癒そうとするのもディートリヒ。彼に惹かれたのは私、彼から逃げようとしたのは私。
 振り子のように激しく揺らされた心は、涙を溢れさせた。
 はらはらと涙を零すアンネリーゼを、ディートリヒは湯から引き上げる。
 バスタオルで体をくるむと、涙の止まる気配もないアンネリーゼに甲斐甲斐しく新しいバスローブを着せかけ、寝台へと運んだ。
 部屋の中がうっすらと明るくなり始めている。
 窓に掛けられた分厚いカーテンの向こうが白み始めていて、アンネリーゼは朝が近いことを知る。
 アンネリーゼの横に、ディートリヒも体を横たえる。
「おやすみ、アンネリーゼ」
 アンネリーゼはいやいやと首を振った。
 眠れば、その間にどんどん自分を失ってしまいそうで怖い。
 ディートリヒは彼女の目尻に唇を寄せ、涙を啜った。
 頬に、額に、鼻にと、小さく口づけを落とす。
 ディートリヒは完全に弛緩したアンネリーゼの体を自分の体で包み、両手の指を絡ませ合った。
 彼の指は、彼女の指よりも硬かった。
 アンネリーゼは目を閉じた。
 ディートリヒの唇がアンネリーゼの唇に落とされた。唇をこすりあわされると、熱が生まれる。
 アンネリーゼが苦しくなる前に唇は少しだけ離され、恋しくなって涙がにじむ前にまた塞がれる。
 緩やかに口づけは続き、アンネリーゼはディートリヒの腕の中で眠りについた。
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