囚人花嫁

千日紅

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本編

雪檻

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 馬は確かな歩調で雪の中を進む。
 狩りのために更に山に分け入れば、辺りは雪景色となる。
 人間では足を取られる雪の深さも、馬には関係ない。むしろ、蹄鉄を外されて、雪の中を進むことを楽しんでいるように見える。
 猟犬と従僕を伴った狩りだが、獲物はまだなかった。
 ブロイツェン伯爵が従僕に指示をし、従僕は猟犬を使って獲物を探し、発見すれば追い詰める。
 貴族の狩りは、しもべたちが獲物を囲み、それを射るだけだ。危険を楽しむゲームに過ぎない。
 狩りで犠牲が出るとしても、その殆どが従僕で、貴族は従僕を犠牲にして逃げるのだ。
「陛下、あちらの方に獲物の気配がすると。冬眠明けの熊でしょうか。さぞや手ごたえがあることでしょう」
 ブロイツェン伯爵は場を取り繕うように明るい声で言った。それもそうだ、狩りが始まってから、あっちこっちと獲物を追って馬を歩き回らせている。
 ディートリヒはブロイツェン伯爵に誘導されて進んでいる。近くまで行けば「逃げたようです、次はあちらへ」と残念そうにブロイツェン伯爵は言う。

 冬の最中は吐く息も凍るほどの寒さとなる森も、今はそこまで寒くはない。
 ただ、キンとした空気の冷たさはあって、その中では馬から伝わる体温は心地よい。
「出しきらぬ膿は軍部に……か」
 ディートリヒの呟きを、影だけが聞いている。
 ディートリヒの前方には、栗毛の馬に乗ったブロイツェン伯爵がいる。
 戦争が起これば、利権争いが起こる。
「利権で肥え太った豚達が、やっと飢えて騒ぎだしたということです」
 影の声はディートリヒにしか聞こえない。

 ディートリヒとブロイツェンを含む一行の後ろから馬が駆けてきて、ブロイツェンの馬の隣に並ぶ。
 馬に乗った従僕は、ブロイツェンに何やら耳打ちした。それを聞いてブロイツェンがディートリヒを振り返る。
 ゆっくりと馬を歩かせ、ディートリヒの近くに来ると、ディートリヒに顔を寄せた囁いた。
「陛下、大きな声を出されますな。アンネリーゼ嬢は預かりました。私の言うとおりにして下さい」
「……わかった」
 ブロイツェンが人払いをする。狩りにあたって、連れてきた従僕たちから十分に距離を取ると、ブロイツェン伯爵は早口で話しだした。
「陛下は素晴らしい国王です。その政治手腕も実行力も、まことに稀有なお方です。だが、もう少し我々の意見を取り入れて下さってもいいのではないですか。陛下のもとには優秀な軍がおります。陛下がこれを動かして下されば、グランツェンラントはもっと栄えますでしょう」
「女の命を盾にとって、言うことはそれだけか」
「やはり我々の意見は聞き届けて頂けませぬか?」
「くどいな」
「これが最期です、陛下。お聞き届けください。それに、アンネリーゼ嬢がどうなっても構わないと?」
「くどいと言っているだろう。アンネリーゼはどこだ!」
「……わかりました。先の山小屋におられます」
 ディートリヒは脚で馬の腹を締め、鐙を踏み直した。彼の乗った黒鹿毛は重い雪の上を飛ぶように駆けだした。
 翻るディートリヒの銀髪が陽光を跳ね返す。
 後ろ姿に向かって、ブロイツェン伯爵は呟いた。
「残念ですな。今日はとても暖かい。陛下のよき命日になりそうです」





 痺れ薬によって体は動かないが、意識ははっきりしている。
 ピートルと御者はアンネリーゼを小麦の詰まった麻袋のように馬車に乗せた。乱暴に座席に放り投げられても、体は痛みを感じなかった。座っていることはできずに、座席に横倒れていると、向かいの座席にピートルが座った。
 ピートルは膝を小刻みにゆすっていた。貧乏ゆすりだ。 馬車が揺れるのよりも早く、ピートルの膝は上下する。
 ピートルに馬車に乗せられ、山小屋に運ばれる途中も、アンネリーゼは考え続けていた。
 一番の障害はディートリヒ自身のカリスマ性なのかもしれない。
 年若くして国を継いだ彼を与し易しと思った者はたくさんいたはずだ。しかし、彼らの目論見は外れてしまった。
 そして、もはやディートリヒは押しも押されぬ賢王として国を総べている。平和が訪れ、軍は政治の中枢から追いやられる。今まで戦の恩恵に浸ってきた軍の上層部や、武器商人達は苦々しい思いに違いない。
 そんな平和な治世に倦んだ軍部の一部の者たちが、革命を起こしてピートルを国王として擁立しようとしている。
 アンネリーゼからすれば算段のなっていない謀略だが、ディートリヒは間近にある太陽のようなものである。遠くにいれば温かいだけだが、近くにいればあまりの熱に焼かれてしまう。彼らはディートリヒを近くで見て、なまじな方法では彼を廃すことができないと思ったのだろう。

 木立を抜けると、そこは開けた斜面になっていた。
 上方を頂点にして、辺の長い二等辺三角形になった雪の斜面の、底辺にあたる部分、やや傾斜がなだらかになったところに一軒の山小屋が立っていた。
 丸太で組んだ山小屋は、狩猟時の休憩場や、吹雪の際の避難場所として使われるものだ。丸太の色はまだ明るく、朽ちてもいない。戸口の近くに薪が積んであった。
 山小屋には鍵はかかっていない。吹雪でほうほうの体で山小屋に辿り着いた者が、鍵を持っているとは限らないからだ。
 ピートルと御者は、アンネリーゼを持ち上げて、山小屋の中に運び込んだ。
 彼らは自分の膝ほどの高さからアンネリーゼを床に放り落とした。衝撃がうっすらと体に響く。痺れが取れてきているのかもしれない。
「さあ、君はここで陛下が助けに来るのを待つんだね」
 アンネリーゼは目だけを動かして辺りを見回した。
 小屋の中は二階建てになっていて、一階の部屋の中央から階段が二階へと続いている。
 暖炉があり、レンガでしつらえたマントルピースの上には毛皮が積んである。
 こじんまりとして、居心地のよさそうな山小屋だ。こんなときでなければ滞在を楽しんだだろう。
「寒いな。もう夜が来るからもっと寒くなる」
 アンネリーゼの顔は青ざめて、体は小刻みに震えていた。
「ピートル様、お早く」
 ついてきた御者がピートルを急かす。
「うるさいなあ」
 ピートルは暖炉の前の薪台に積んであった薪を暖炉に放り入れた。次に、焚きつけ用の新聞紙を丸めてマッチで火をつけ、暖炉に入れる。
「陛下が早く来るといいな、アンネリーゼ嬢」
 アンネリーゼは唇をかすかに動かした。
「……フン、僕にお礼を言ってる余裕なんかあるのか? 平民は図太いな。
「その根性に免じて教えてやるよ。陛下が山小屋に入ったら、父上の手の者が上で雪崩を起こす。もう春が来ているからな、雪崩が起こりやすくなってるから簡単だ。山小屋でしっぽりやってた陛下と愛人が、雪崩事故で死ぬ……簡単だろ? 陛下には子がいない。王位継承権を持っているものはいないんだ。そこでブロイツェン伯爵と、その息子ピートルの登場だ。家系図を引っ張り出して、王族の血を引いてることを示す。軍部と議会に根回しをして、僕が王位に就く」
 ピートルはばつの悪そうな早口でアンネリーゼに告げた。
 そして、彼女の足首に足枷をはめ、鎖の先を階段の手すりにつないだ。
「……助かったら愛人にしてやるよ」
 彼と御者が出ていくと、山小屋には途端に沈黙が満ちる。
 痺れ薬が効いているせいか、寒さはあまり感じない。けれど、全身が冷え切ってきたのがわかる。床から直接熱を奪われているのだ。
 暖炉に火を入れたとはいえ、続けて暖炉全体が温まるまで燃やし続けなければ、小屋の中は冷えたままだ。炎にあたれる暖炉近くは暖かいが、アンネリーゼは暖炉と戸口のちょうど中間にうつ伏せになっていた。
 それでも、暖炉の炎は慰めになった。




(雪崩……ディートリヒ様を事故に見せかけて殺す? 私を人質にして、ここにディートリヒ様をおびき寄せるの?)
 アンネリーゼの脳裏にディートリヒが浮かぶ。
(来るはずないわ。たかが女教師のために、国王が危険を冒すなんてこと)
 いっそ来ない方がいい。来なければ彼は安全なのだ。
 けれど、ディートリヒとブロイツェン伯爵は行動をともにしている。命を狙うには格好の機会だ。
 いつもどこか冷めて皮肉げな微笑。流れる銀髪、黄金の肌、エメラルドの瞳。
 しなやかな体つき、洗練された身のこなし、それら総て。アンネリーゼを捕えた彼の総て。
 それが失われてしまう。
(だめ……!)
 暖炉で燃える薪が崩れ落ち、火花が散った。薪は燃え尽きようとしている。
 アンネリーゼは痺れる体に力を込める。指先が動いた。
 床に爪を立てる。ガリと嫌な音がして、爪が割れる。
 痛みが突き抜けると、痺れは少しましになった。
 逆の手も同じようにしてみる。今度は爪は割れず、腕の力で、少しだけ体が動いた。鎖が音を立てる。
 必死で頭を持ち上げる。その向こうに山小屋のドアがある。
 あそこを開けるのだ。
 ディートリヒに知らせなければならない。
 ブロイツェン伯爵が彼の命を狙っている。
 早く、早く。
 膝でいざるようにして、アンネリーゼはじりじりと進む。
 もつれた髪が肩から胸の方へ入り込んで、体と床の間で擦れる。山小屋の床はささくれ立っていて、絹のドレスごしにアンネリーゼの肌を突き刺した。
 鎖が重い。けれど、せめてあのドアさえ開けることができれば、助けを呼ぶこともできる。
 幸い、鎖は長かった。そして重くアンネリーゼの足首に絡みついていた。
 床でのたうつアンネリーゼの体中から汗が噴き出て、一層体が冷え切っていく。
 ぼやけた視界が徐々にはっきりとしてくる。
「は、やく……知らせな、きゃ……」
 その時、山小屋のドアが開いた。
 差しこんだ夕暮れの光の中に立つ人影。
 夕焼けを背にした闇の輪郭。
「アンネリーゼ!」
 アンネリーゼは目をみはった。来てくれた、会えた、それだけで胸がいっぱいになって、痺れが抜けかけているというのに言葉が出ない。
 来てくれなくていいと思っていた。けれど、アンネリーゼの恋心は、思い人が自分に駆けてくれることを願っていた。その願いが果たされ、アンネリーゼは溢れるよろこびに圧倒されていた。
 素早く駆けこんだディートリヒがアンネリーゼを抱き起こす。確かめるように、彼女の額に、頬に、血の流れた指先に口づけて、ディートリヒはアンネリーゼを抱きしめた。
 アンネリーゼの冷え切った体に瞬時に血が巡る。
 体だけでなく、血を噴き出していた心ごと、ディートリヒに抱きしめられた。アンネリーゼは、今が最良の瞬間だと感謝した。
「ディートリヒ様、に、げて、下さい……ここは、危険です。はやく……」
「ああ、お前も一緒にな」
「く、鎖があるのです。私はここから動けません。私を置いて、早く」
「なぜ私がお前を置いて行かねばならぬ。鎖などどうにでもなるであろう」
 ディートリヒの様子は随分悠長にアンネリーゼには見えた。
 そのせいで、アンネリーゼはまた、自分の中に荒れ狂う思いを抑える箍が外れてしまった。
 痺れの残る腕は、振り上げたけれど、力なくディートリヒの頬を叩いた。
「アンネリーゼ……?」
「も、もう……! わかって下さい! あなたが大切なんです! だから、あなただけでも、逃げて欲しいんです!」
 ディートリヒの腕の中で、アンネリーゼはもう一度手を振り上げる。その手をディートリヒが掴んで引き寄せた。
「……わからないから、もう一度言って欲しいんだが」
「ば、バカなの? これだけ言ってわからないの!? いいですか、よく聞いて下さい。あなたを愛しています! だから」
 逃げて、と続けるつもりの言葉は、ディートリヒの口づけに奪われた。
 甘い口づけだった。あやすようにアンネリーゼの舌をくすぐり、ぴったりと合わさった唇からは吐息も逃げられない。アンネリーゼは息も満足に継げず、苦しげに鼻を鳴らした。
「私のものだ、アンネリーゼ……!」
 ひとしきり貪られ、薬とはまた違う痺れにぐったりしたアンネリーゼを、ディートリヒは軽々と抱き上げた。
 そのアンネリーゼの華奢な足首から足かせが音を立てて外れる。
「足枷が……どうして? 鍵もかかっていたのに……」
「行くぞ」
 開いたままの扉をくぐると、夕日が沈みかけている。空の天辺は紫になり、あたり一面が夕焼けに染まっていた。
 茜色に照らされたディートリヒが、アンネリーゼに微笑みかける。陶然としたアンネリーゼに、
「いつもそのくらい素直であればよいのにな」
 と言って、戸口には黒鹿毛の馬が立っている、その手綱を取った。
 馬は後ろ足で雪を蹴り、落ち着かない。

「ディートリヒ=フォン=ヴァイゼンブルグ! お前の命はここで終わりだ」

 ブロイツェン伯爵だった。
 山小屋が立っている雪の斜面から離れた木々の間に立っている。
 伯爵が黒い手袋の手を上げる。
 そして、素早く下ろした。
 ドォン――――!
 山小屋よりも頂上近くから、爆発音が響いた。

「ディートリヒ様……!」

 地鳴りとともに山小屋の立つ斜面が揺れ始める。
 雪崩が起こったのだ。

 雪は、降ってから時間がたつと、お互いが結束して層状になる。
 冬などは、固く締まった積雪の上に、新たに雪が大量に降ると、その雪が積雪の層の上を滑ってゆく雪崩が多い。雪自体が軽いため、木立の中でも起こるが、比較的小規模でおさまる。
 春になると、その積雪層が気温の上昇によって緩む。また、そこに新雪が積もったり、雨が降ることによって、雪崩が起こりやすくなる。この雪崩は、山の斜面の上を雪の層が一斉に滑り落ち、被害も大きくなる。
 ヴァイゼンブルクには春が来たばかり。
 積雪層にはいくつか緩みがきている部分もあるはず。
 そこに大きな衝撃を加えれば、雪崩が発生する。

 辺りを劈く轟音に怯え、寝支度をしていた鳥達が一斉に飛び立っていく。
 アンネリーゼはディートリヒの首筋にぎゅっとしがみついた。
 雪煙りが辺り一帯を包む。
 けぶった視界の向こうから、天地をひっくり返したかのように、雪が波となって斜面を駆け降りてくる。
 山小屋が雪に飲み込まれる。山小屋は悲鳴を上げて、洗濯されたシャツのように捩れ壊れた。
 アンネリーゼは死を覚悟し、固く目をつぶった。
 しかし、いつまで経っても、衝撃は訪れない。
 アンネリーゼはおそるおそる目を開いた。
「え……?」
 雪狼の群れは、ディートリヒの足元で止まっていた。
 二人に襲いかかった雪崩は、まさに二人を呑み込む寸前で、勢いをなくし、ただの雪塊となっていたのである。

「くそぅ! この化け物めが! 死ね!!」
 再びブロイツェンの声がして、アンネリーゼはそちらを見た。
 矢を番えた男たちが、こちらを狙っている。
 アンネリーゼはディートリヒの腕を振り払って、雪の上に降り立つと、ディートリヒの前に立ち両手を広げた。
 アンネリーゼの聴覚は研ぎ澄まされていた。雪崩の轟音の余韻の残る夕空に、ぎりぎりと弓の引き絞られる音が聞こえる。
「ディートリヒ様は殺させません!」
 アンネリーゼは叫んだ。
 亜麻色の髪を降り乱して、汚れたドレス姿のアンネリーゼに、射手は息を飲む。
「ええい、何をしておるか! 早く殺れ!」
 ブロイツェンは口吻唾してがなりたてる。
「忌々しい! お前は本当に蛇のようだ! いつもいつも気味の悪い! お前は、先王の臣を眉ひとつ動かさず処刑した! その中には私の姉もいた。兄も、従兄も! お前は、私の愛する者たちが死んで行くのを、つまらなさそうに眺めていた。お前にはひとの心がないのだ。そのくせ自分が正しいと……お前のように人間の心がわからぬ者が王でいていい筈がない! 母親ですら疎んだ王子が王とは聞いて呆れる!」
 アンネリーゼはぶつけられる害意の礫から、ディートリヒを守らんと、更に腕を広げた。
(この人、ディートリヒ様を憎んでいる。それだけじゃない、怖がってるんだわ)
「女ごと殺せ! 今なら奴も無防備だ、早くしろ!」
 声に押されて、射手が矢を放った。
 その矢は、ディートリヒに向かうことなく、はるか上方へと放たれていく。
「まさか……そんな……続けて射るんだ!」
 続けざまに射られた矢も、同様にアンネリーゼ達をかすることもなく落ちていく。
 ブロイツェンは矢を見送って、がくりと両膝をついた。
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