aranea

千日紅

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本編

約束

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 克彦の抱き方は、十代の頃とはまるで違っていて、初めて私達が過ちを犯した時からまるで変わっていなかった。 すっかり大人になった、克彦の裸身は彫像のように美しかった。成熟した男としての色香は、花のように蝶を引き寄せるだろう。私でない誰かと、幸せになるのだろうにふさわしい。
 けれど今だけは、私こそが彼の獲物になるのだ。

 克彦と私は見えない何かに絡め取られ、もがくようにお互いを抱き締めた。 
 涙はとめどなく流れた。もう両親の帰ってくることのない、幼い頃から育った家に、獣みたいな息づかいと喘ぎ声だけが、波紋のように広がっていく。 
「俺は、もうずっと姉さんしかいないって決めているのに。どうして、姉さんは信じてくれないの。俺が、姉さんを傷つけるから?」 
 熱い指が私の額をあらわにし、傷跡を撫でた。吐息は肌を焼く。 
 克彦は答えを待たない。じゅぶ、じゅぶと肉を通して、私達の交合の深さが――罪深さが伝わってくる。信じられないくらい奥まで、克彦が入っているのがわかる。ぴったりと合わさった湿った皮膚や、突き上げられる内臓が、混じり合おうとしても、どこまでも私達は別の人間で、そのことがもどかしくてまた私は泣いた。 
 私が克彦でなく、克彦が私でない、その限りにおいて、私達は傷つけあってしまうのだ。 
 克彦が私を傷つけた、その何倍も、何十倍も、私は克彦を傷つけた。私は克彦を従わせ、傷つけることでしか、彼と向き合うことができなかった。 
 愛し方は知らず、愛するために傷つける。 
 私達は自分を愛するより先に、相手を傷つけることを学んでいた。 
 私はうわごとみたいにして、何度も腰を打ち付けてくる克彦に願った。 
「中に、中に、出して、克彦」 
 レコードの針が飛ぶごとく繰り返される私の命令に、克彦は逆らわなかった。艶めかしく腰を揺らめかして、私のなかで果てる。私はもうずっと下りてくることのできない高みに押し上げられていて、びくんびくんと腰を跳ねさせる。口は閉じることもできなくて、克彦の唇に閉じられていない限り、ひっきりなしに淫らな声が出る。 
 克彦は胴震いをして、私のなかに出しきると、またゆるゆると動き始める。 

「ははっ……全然萎えない」 

「あぁんっ、あんっ、あっ、あっ、いやっ、んっ」 

「姉さんの中、びくびくして狭くなってる……うれしいって、喜んでる……俺、もっとできるよ。たくさん、姉さんのなかに出す」 

 その度に私は、深い悦楽の波に飲まれる。身体だけが抱かれているのではない。心さえ抱かれているのだ。――私の弟に。 
「姉さん、こども、できたらどうするの」 
 何度目かの射精のあと、ハアハアと息を荒げていた克彦は、ぽつりと言った。私達の身体は汗にまみれていて、克彦の頬が濡れていたのは、汗のせいなのか涙のせいなのかもわからない。 
「ほら、たくさん……」 
 克彦は濡れてひくつく場所に指を含ませ、ぬちゃぬちゃと揺すって、中に注ぎ込まれたものを掻き出そうとする。 
「だめ、出さないで」 
 震えておぼつかない手で、克彦を止める。そのうち、止めていたはずの手は、自慰するように動き、私は自分の指と克彦の指を一緒に飲み込む。 
「あ、あぁっ、や、あ、指、だめ、ちがうの、ちょうだい、いや、克彦、克彦が、いいの」 
「姉さん、かわいい」 
 克彦は上ずった声で何度も「かわいい、かわいい」と言いながら、私の体中に口づけた。「かわいい、好きだよ、姉さん」「姉さん、好きだよ」「好きだ」「姉さんが好きだ」「ずっと」言いながら、克彦は泣いていた。「なのに、どうして俺を置いていくの」 
 まだ高校生の頃、夏の夕暮れの記憶がふいに蘇る。克彦はいつも私を誉めそやし、お姫様みたいに大事にしようとしていた。 
 ベッドの中だけは、私と彼の王国で、彼は王子様で、私はお姫様だった。そこには魔女も呪いも悪魔も存在しなかった。 
 私達はキスをして、抱きしめあった。混ざり合い、一つになった。麻薬のように夢中になった。麻薬のように、一時の幸せな夢を見せてくれた。 
 遠いあの夏に、私達の楽園はあった。 
「あげるよ、姉さんに、何度でも、何でも、俺があげられるものなら」 
 私は髪が頬に張り付くのも構わずに、ぼろぼろと涙をこぼしながら、うんうんと子供のように頷く。まだまだ固さを失わないものが宛がわれて、ひくひくと蠢く粘膜を掻き分けてずんと奥まで入ってくる。満たされる。爪先を丸め、尻を上げ、挿入の衝撃に感じ入る。 
「あっ、あー……、あ……」 
「くっ……すごい……きつい……」 
「いって……いってるから……」 
「姉さんのなか、覚えてくれるかな。誰よりもここに入ったのは俺だって、一番深く、奥まで、何回でも、他の誰でもない、俺だって」 
 達していても、克彦は少しも休んでくれない。びりびりと快楽が痺れとなって足の裏まで走り抜ける。 
 私はエビか魚みたいに身体をびくびく打ち震わせて、克彦をぎゅうぎゅうと締め付けた。 
「ねえ……子供、できたらどうするの? 誰の子だって言うの」 
 私は泣きながら笑った。頬には涙の痕が幾筋も乾いていて、引き連れて痛んだ。 
 決まっている、私は不道徳でふしだらな、汚れた女だが、嘘は好きではない。 
 夫となった男の隣で、膨らんだ大きなお腹を抱え、私は言うのだ。 
 愛しいひとの子供です、と。 
 汗みずくの身体を克彦にすり寄せて、私はその時を想像して、幸せそうに微笑んだに違いない。 
 きっと、克彦が私にくれる命は美しい。この世でもっとも美しく、けれど決してこの世には存在しない、私と克彦の子供。 
 克彦は顔をくしゃりと歪ませると、真っ赤になった目に滲んだ新たな涙を、乱暴に手の甲で拭った。 
「……どうしたら、信じてくれる……? 俺が弟だから? 姉さんはいつも俺より先に……先に大人になって、俺は守られるばかりで、今までもずっと……これからもそうなの? 俺だって大人になったよ。でもまだだめなの? まだ、俺は姉さんの弟でしかないの? 姉さんを守れる男にはなれないから、俺を捨てていくの? 
 姉さんは気づいていたんでしょ? 最初から、おかしいのは俺の方なんだって。姉さんだけが、俺を見てくれた。姉さんだけが俺の世界だった。当たり前みたいに、姉さんを好きになって、姉さんを傷つけて、姉さんから奪って、それでも、姉さんと一緒にいようとするから、もういやになった? だから、他の男と、結婚するの? 俺じゃない誰かのものになるの?」 
 克彦の肩の向こうで、赤い爪先が揺れる。克彦の言葉は、蜘蛛の糸のように私の意識を絡め取る。 
「いやだよ、無理だよ、そんなの……どうして……」 
 克彦の手が、私の首にかかる。 
 じわじわと指に力がかかり、痛い――。けれど、このまま克彦の、あのテニスのラケットを握っていた、たこのできた指が、私を縊り殺してくれたら、こうやって、深くひとつに繋がったまま、時を止めてしまえたら、どんなにか。 
 私が目をつむると同時に、克彦の手が離れた。 
「そうやって、姉さんは、俺を許してしまう……」 
 薄目を開けると、克彦は両手で自分の顔を覆っていた。 
「好きだよ、姉さん。姉さんだけ。最初から、ずっと、俺は、それだけ」 
 暗闇がやってくる。克彦の腕に抱かれ、克彦の芯に貫かれ、途中から、私の記憶は定かでなくなる。 
「姉さん、俺はずるいから、姉さんの言うことはもう聞いてやらないよ。一年だ。一年経って、姉さんが幸せじゃなかったら、その時は俺のしたいようにする」 
 それを最後に、私の意識は闇に飲まれた。 




 その次の朝、荷物をまとめて私は家を出た。蓄えはあったから、結婚生活が始まるまでの数週間を、ビジネスホテルで過ごした。克彦からの着信が二回あって、私はその二回とも出なかった。 
 三回目は、私から電話をした。私達は、普通のきょうだいのように、これからのそれぞれの生活について話した。 
 結婚式はつつがなく、カフェで身内と親しい友人のみで行われた。 
 その席で、克彦は弟として私を祝福した。冷たい炎のような目で私を抱擁し、耳元で囁いた。 
「次に会う時は、――さらっていく」 



 夫は、いやな男だったが、悪い人間ではなかった。 
 彼なりに、結婚生活がうまくいくようにと思っていたはずだ。それに報いようとしなかったのは、私だった。いつも私は上の空だった。 
 仕事をしながら、買い物をしながら、夫に抱かれながら、常に反芻していた。 
 克彦の声や指や、まなざしを。 


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