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序 囚われの奥方はただ拳を握る
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石造りの室内は、おそらく外気より温度が低い。しかし私の背筋をひやりとさせたのはそのせいだけではないだろう。ほとばしる殺気に似た気配を浴び、私は手に持った弓を固く握りしめる。
夜半、外界と室内を隔てていた分厚い木製の扉が大きく開け放たれたそこに、壁の篝火を背にした大柄な男が立っていた。逆光の中、白い甲冑は冷たく輝き、肩から垂らされた騎士の証であるベルベット地の長いマントが赤い炎のように床を這う。そのマントの上には銀糸の髪が、儚げに揺蕩っていた。
ロカ・アンブロシオ・ラスコーン侯爵。
私が政略結婚した相手であり炎の氷帝と呼ばれるこの国きっての英雄の姿を認め、私は複雑な気持ちで弓を下ろした。盗賊達によって囚われの身となり一昼夜ほど。王都から離れていないとはいえ、立て篭もった廃砦まで助けが来たというのは喜ばしい。しかしこのような形で会いたくはなかった。
扉に片手をかけ、だらりと剣を持ったもう片方の腕を下ろした侯爵の息は荒い。
砦の最上階に位置するこの部屋まで、そんなに急いで階段を駆け上がってきたのだろうか。下の階にいた盗賊たちはどうしただろうか。一体何人でここまでやってきたのだろうか。侯爵に怪我はないだろうか。
様々な考えが浮かんでは消える。しかしそれらは杞憂だろう。
剣に血糊が付いている様子もないし、そもそも盗賊風情が束になってかかったところでこの男にとっては何の障壁にもならないだろう。せいぜいで風に巻き上げられた木の葉の煩わしさと同じくらいのはずだ。
かわいそうな盗賊たちの末路を想像していると、それまで肩で呼吸をしていた侯爵が深く息を吐いた。がちゃりと固い金属の音が石壁に反響する。それが甲冑の動く音だと気が付いた時には、私の眼前に陶器のように美しい顔が迫っていた。
いくら広くない部屋とはいえ、扉から窓の近くにいた私のところまで大人の歩幅で数歩分はある。いつの間に、と私は一、二歩後ずさった。
しかし侯爵はそれを許さなかった。だんっと耳元で大きな音がして身を竦めると背中に固い石壁が当たる。目を開ければそこには白い甲冑に包まれた腕があった。はっとして顔を上げると、苛立った気配を隠そうともしない深紅の瞳と目線がかち合う。
「……だ、旦那……様」
咄嗟に発した私の声は掠れていた。そしてその次に何を言ってよいか分からなくなる。
不甲斐なく囚われたことを詫びたらよいのか、助けに来てくれたことに対して謝意を伝えたらよいのか、それとも他の言葉が良いのか。しかし赤く燃える火のような瞳はそのどれもを許さない気がした。
ひんやりとした壁を背に侯爵の腕の檻で囲われ、身動きもできないまま私はただひたすらに彼の赤い瞳に睨まれるしかない。侯爵はただ黙ったまま、じっと私を見下ろしているだけだ。
「も、申し訳ございません……旦那様……」
耐えきれずに私は詫びの言葉を漏らした。それが正解かどうかも分からないけれど、まずは勝手に飛び出し勝手に捕まったことについては詫びる必要がある。そのほかのことは後で考えよう、と私が目を伏せた時だ。
がつっとごわついた物に顎を掴まれ上向かされると、赤い目がすごい勢いで近づいてきた。ルイーサ、と低い声で名を呼ばれ、それとほとんど同時に唇に柔らかいものが押し当てられる。
え、と私の頭は真っ白になった。
ぎゅうぎゅうと押し当てられているのは侯爵の唇で、私の身体はすごい力で抱きしめられているのだ。
なんで。
どうして。
訳が分からない。だってこの人は私の双子の妹、マリナの想い人で、そしてこの人もマリナに想いを寄せていたのではなかったか。それなのに。
戸惑っているうちに上下の唇を甘噛みされ上手く呼吸ができなくなった。は、と思わず口で息を逃がすと、わずかに開いた唇の隙間からぬるりとした肉厚で柔らかいものが口内に侵入してくる。強引に歯列を割って入ってくるのは、侯爵の舌だ。
口内にねじりこまれたそれは、異物を押し出そうとする私の舌に絡みつく。ぴちゃりという水音が口内から鼓膜を揺らした。閉じきれない口の端から、ゆっくりと何かが滴ってくる。
それに気づいたら駄目だった。
かあっと顔面が熱くなる。私は拳を握りしめて振り上げた――。
夜半、外界と室内を隔てていた分厚い木製の扉が大きく開け放たれたそこに、壁の篝火を背にした大柄な男が立っていた。逆光の中、白い甲冑は冷たく輝き、肩から垂らされた騎士の証であるベルベット地の長いマントが赤い炎のように床を這う。そのマントの上には銀糸の髪が、儚げに揺蕩っていた。
ロカ・アンブロシオ・ラスコーン侯爵。
私が政略結婚した相手であり炎の氷帝と呼ばれるこの国きっての英雄の姿を認め、私は複雑な気持ちで弓を下ろした。盗賊達によって囚われの身となり一昼夜ほど。王都から離れていないとはいえ、立て篭もった廃砦まで助けが来たというのは喜ばしい。しかしこのような形で会いたくはなかった。
扉に片手をかけ、だらりと剣を持ったもう片方の腕を下ろした侯爵の息は荒い。
砦の最上階に位置するこの部屋まで、そんなに急いで階段を駆け上がってきたのだろうか。下の階にいた盗賊たちはどうしただろうか。一体何人でここまでやってきたのだろうか。侯爵に怪我はないだろうか。
様々な考えが浮かんでは消える。しかしそれらは杞憂だろう。
剣に血糊が付いている様子もないし、そもそも盗賊風情が束になってかかったところでこの男にとっては何の障壁にもならないだろう。せいぜいで風に巻き上げられた木の葉の煩わしさと同じくらいのはずだ。
かわいそうな盗賊たちの末路を想像していると、それまで肩で呼吸をしていた侯爵が深く息を吐いた。がちゃりと固い金属の音が石壁に反響する。それが甲冑の動く音だと気が付いた時には、私の眼前に陶器のように美しい顔が迫っていた。
いくら広くない部屋とはいえ、扉から窓の近くにいた私のところまで大人の歩幅で数歩分はある。いつの間に、と私は一、二歩後ずさった。
しかし侯爵はそれを許さなかった。だんっと耳元で大きな音がして身を竦めると背中に固い石壁が当たる。目を開ければそこには白い甲冑に包まれた腕があった。はっとして顔を上げると、苛立った気配を隠そうともしない深紅の瞳と目線がかち合う。
「……だ、旦那……様」
咄嗟に発した私の声は掠れていた。そしてその次に何を言ってよいか分からなくなる。
不甲斐なく囚われたことを詫びたらよいのか、助けに来てくれたことに対して謝意を伝えたらよいのか、それとも他の言葉が良いのか。しかし赤く燃える火のような瞳はそのどれもを許さない気がした。
ひんやりとした壁を背に侯爵の腕の檻で囲われ、身動きもできないまま私はただひたすらに彼の赤い瞳に睨まれるしかない。侯爵はただ黙ったまま、じっと私を見下ろしているだけだ。
「も、申し訳ございません……旦那様……」
耐えきれずに私は詫びの言葉を漏らした。それが正解かどうかも分からないけれど、まずは勝手に飛び出し勝手に捕まったことについては詫びる必要がある。そのほかのことは後で考えよう、と私が目を伏せた時だ。
がつっとごわついた物に顎を掴まれ上向かされると、赤い目がすごい勢いで近づいてきた。ルイーサ、と低い声で名を呼ばれ、それとほとんど同時に唇に柔らかいものが押し当てられる。
え、と私の頭は真っ白になった。
ぎゅうぎゅうと押し当てられているのは侯爵の唇で、私の身体はすごい力で抱きしめられているのだ。
なんで。
どうして。
訳が分からない。だってこの人は私の双子の妹、マリナの想い人で、そしてこの人もマリナに想いを寄せていたのではなかったか。それなのに。
戸惑っているうちに上下の唇を甘噛みされ上手く呼吸ができなくなった。は、と思わず口で息を逃がすと、わずかに開いた唇の隙間からぬるりとした肉厚で柔らかいものが口内に侵入してくる。強引に歯列を割って入ってくるのは、侯爵の舌だ。
口内にねじりこまれたそれは、異物を押し出そうとする私の舌に絡みつく。ぴちゃりという水音が口内から鼓膜を揺らした。閉じきれない口の端から、ゆっくりと何かが滴ってくる。
それに気づいたら駄目だった。
かあっと顔面が熱くなる。私は拳を握りしめて振り上げた――。
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