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012 入学前某日(その3)

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 ……もう、陽が暮れる。
 夕食の為にテーブルの上を片付け終えた睦月は、今日受け取った教科書を麦茶の入ったコップ片手に、椅子に腰掛けながらのんびりと中身を吟味していた。
「でもいまさら勉強する内容なの、これ。ボクの時とは少し変わっているみたいだけど……」
「お前と一緒にするな。こっちは中卒の上に、独学で培った知識しかないっての」
 向かいの席に腰掛けた弥生が別の教科書片手にそう言ってくるが、頭の良さを比較する相手が違うと、睦月は自分が持っている物に視線を戻した。
 放浪癖があるせいで、弥生の工房には常に食料がない。
 おまけに普段からの仕事選びが手段優先で適当な上に、経費度外視で消耗品を多用するので、弥生の懐は常に寂しいことになっている。前回の仕事で睦月の『ヒメッカーズチョコバー』を勝手に貪っていた程に。
 だから今日もまた、仕事を終えて別れたはずの弥生は睦月の家に突撃して、食事を集りに来たのだ。普段はあちこちをほっつき歩いているくせに、こういう余計な時だけは顔を出してくる。
 睦月にとって弥生は、本当に面倒な昔馴染みだった。
「そういえば弥生……」
「何~?」
 台所で夕食の支度をしている姫香の作業音をBGMに、睦月は視線を上げないまま弥生に問い掛けた。
「お前……ここの住所、誰から聞いた?」
「発信機――てっ!?」
 弥生の頭に、小さな金属の塊がぶつかった。どうやら姫香がすでに見つけていたらしく、調理の合間に投げつけてきたのだ。
「油断も隙も無いな、お前……」
「だって婆ちゃんに聞いてもお金掛かるし……彩未ちゃんあれで、口堅いじゃん」
「まあ、事前に確認取る位の分別はあるわな、あいつ……そういえば、その彩未は?」
 そう睦月から声を掛けられた姫香は、器に盛り付けていく作業を一時中断してから振り返り、両手の掌を上にしてから、それぞれ左右に二回、近付けては離したりした。
「【仕事】」
「何だろう……泣く泣く帰っていく姿が、目に浮かぶな」
 仕事の詳細は分からないが、彩未が一度働き出すと、数日掛かってしまうこともざらだった。新しい恋人がいないので、しばらくは相手することになるかと思っていた睦月だったが、そこまででもないというのも、それはそれで寂しく感じるものである。
 そんなことを考えていると、姫香はそのまま右手を開いて、斜め上に指先で差してから弧を描くようにして降ろす。そして人差し指と中指を伸ばす形に変えてから、上に向けた左掌から口元に向けて、箸で食事を摂るようにして再び持ち上げた。
「【夕方】、【食事】」
「……ああ、夕飯できたのか」
 運ぶのを手伝おうと、睦月は教科書を置いてから立ち上がり、姫香の元へと向かった。
「今日はどんぶりか……」
 陶器の丼に盛られた米の上には、姫香特製の卵汁が掛けられている。出汁の濃さは彼女の手によって個別に調整され、睦月の分は豚カツの乗ったカツ丼、自身の物は鶏肉が彩られている親子丼に仕上がっていた。
 それと弥生の分を含めた丼を三つ、蓋を閉じてからお盆に載せ、睦月はテーブルの上へと配膳していく。副菜のサラダや味噌汁、漬物類は姫香が別に運んだ。
「待ってました~」
 パチパチと手を叩く弥生の前にも配膳し終え、睦月と姫香もお盆を片付けてから席に着く。
 それぞれが手を合わせ、声が出せない姫香を別にして、残りの二人が言葉を発した。
「いただきます」
「いっただっきま~す!」
 丼に載せられた蓋を外し、睦月と姫香が中身を味わう中……弥生は手を降ろして、愕然とした表情を浮かべている。
「ねぇ……ボクのこれ、って…………?」

 弥生の丼の中身は……ただのお茶漬けだった。

「これって……『さっさと帰れ』ってこと?」
「ああ、ぶぶ漬けの話か? あれって本当は『楽しい時間を過ごしました』っていう、締めの挨拶らしいぞ」
「それって……どっちにしても『帰れ』にならないっ!? ねえどうなの姫香ちゃん!?」
 しかし姫香は一度弥生を指差し、その右手を持ち上げながら親指と残りの指をそれぞれ伸ばすと、そのまま右斜め前に動かしながら摘まむ形に閉じてしまう。
「【お帰り下さい】」
 しかし、今の睦月達にはこう見えてしまう。
『【失せろ】』
 と。
「姫香ちゃん酷い……」
「いつものことだろうが……」
 しかし慣れたものとばかりに、睦月は啜っていた味噌汁のお椀を置き、再び丼を掻き込もうと手を伸ばしたが……その手は空を切った。
「だったら睦月の頂戴っ!」
「ふざけんなこのアマっ!」
 とはいえ、さすがの『ペスト』も武器無しで、かつ二人掛かりではあっさりと取り押さえられてしまう。しかし弥生は、睦月や姫香の手に身体を掴まれようとも、丼の中身を掻き込むのを止めなかった。
「止めろそのカツだけはっ! せっかく取っといたのにっ!」
「メインのほとんどを食べといて最後の一口だけ残すとかっ、いつも思うけどなんかせこいよっ!」
「元々好物は最後に取っとくたちなんだよっ!? なのに仕事のせいで食事自体が中断させられることもあるしっ!」
「それならいいがけん転職したらっ!? だから裏で蝙蝠・・なんて陰口叩かれ――」
 ――ブーッ、ブーッ……
『…………ん?』
 テーブル上に置かれた、姫香のスマホが震えている。
 しかしいくらスマホ中毒の姫香でも、この状況下で着信を優先するわけがない。それでも弥生から手を放した理由は別にある。
「……仕事か?」
 残りの米を掻き込もうとする弥生を押さえながら、睦月は姫香に問い掛けた。
 スマホの画面を確認した姫香は睦月に向けて、首を縦に振ってくる。
「しょうがない……内容は?」
 仕方なくカツ丼を諦めた睦月は、弥生から離れてすぐに、姫香の持つスマホの画面を覗き込んだ。そして丼の中身は、弥生がそのまま綺麗に平らげていた。
 和音から仲介されることもあるが、基本的に運び屋の仕事を管理マネジメントしているのは姫香である。インターネット越しに来る依頼を精査し、請け負うべきかどうかを睦月に伝えるのが彼女の仕事の一つだった。
 無論、最後に決めるのは実行する睦月だが、姫香が依頼を精査する時点で、変な仕事は大体弾かれている。しかし彼女がスマホの画面をあっさり見せてくるということは、少なくともまともな依頼なのは間違いなかった。
「内容は……要人護送? しかもすぐに?」
 商売道具である仕事用のスポーツカーの点検どころか、夕食を済ませる余裕すらない。すぐに出なければ間に合わないと、睦月はお椀の味噌汁だけ飲み干してから、すぐベランダ側へと向かい、外出着に着替え始めた。
「弥生、夕飯は食ってってもいいが……最後に食器位は洗っていけよ」
「え~……睦月の奢り、ってことでいいじゃん」
「アホかお前は……」
 着替え終えて玄関に向かう睦月に、姫香は『ヒメッカーズチョコバー』と整備が済んだ回転式拳銃リボルバーの入った包みを手渡してくる。
 その中身を確認して、包みの口を閉じてから、睦月は弥生に忠告めいた口調で言葉を発した。
「料理してくれている相手を怒らせたらどうなるか位、いくらお前でも分かるだろう?」
 その言葉を脳裏で吟味する弥生。やはり狂っていても天才的な頭脳の持ち主なのであろう、わずか一秒にも満たない内に結論へと至って、顔を青褪めさせていた。
「……油断したら毒盛られる、ってこと?」
「というか、姫香こいつが本気を出したら……料理の味を変えないまま、しれっと塩分過多に追い込んで完全犯罪できるんじゃないかと、常々思ってるんだが…………」
 家事を手伝うという言葉が許されるのは、子供か客人だけである。本来ならば家族内で分担し、行うことが正道であると睦月は考えていた。
 そもそも睦月みたいな好色漢女たらしを容認しているだけでも器が大きいと言えるのに、さらに姫香を怒らせてしまえば……そして相手が弥生という、彼女からすれば付き合いが長い上に消毒しまくる程嫌な人間だとすれば…………果たしてお茶ぶぶ漬け程度で済むのだろうか?
「とにかく、帰る前に片付け位していけよ」
 そう弥生に言い投げてから、睦月は姫香に向き直った。
「じゃあ悪いけど行ってくる。内容的に日を跨ぐと思うから、戸締りはしっかりしておけよ」
 睦月の声に姫香は一つ頷くと、掌を左右に振った。
「【行ってらっしゃい】」
 急いで出掛けていく睦月を見送ってから、姫香は閉じられた扉を再び施錠した。
「ねえ、姫香ちゃん……」
 睦月を送り出してから振り返った姫香に、弥生は食べ終えた丼をテーブルの上に置いてから、恐る恐る話し掛けた。
「睦月が言ってたことって……本当?」
 弥生からの問い掛けに、姫香は静かに笑った。
 いや……哂っていた。心の内側にある悪意を閉じ込めるよう、静かに。
「……せめてお代わり下さい。後、掃除もするからお風呂にも入れて」
 しかし、しれっとお代わりと入浴を要求してくる辺り……弥生の神経もなかなかに図太かった。



 持参した回転式拳銃リボルバーをダッシュボードの隠し収納二重底の下に仕舞った睦月は、姫香から転送されてきた情報を再度確認しようと、自身のスマホを操作していく。
「さて、内容は……」
 大まかには姫香のスマホの画面を覗いて確認したものの、分かっているのは今すぐに要人を護送することだけだった。
 単に移動するだけならばわざわざ依頼せず、タクシーを呼ぶだけでも十分なはずだが、今回の依頼はそれだけでは済まないらしい。
「政治家の息子、ね……」
 護送する人物の詳細を斜め読みするだけでも、睦月の心は湿っぽくなってくる。
 汚職疑惑のある政治家に捜査のメスが入ったのはいいのだが、その息子すらも罪を犯していたらしい。
 暴行に薬物、そして強姦レイプの三重奏だ。父親が握り潰していたのだろうが、それも今回の件でご破算。汚職捜査のニュースが流れた時点で親子問わずに被害者が一斉に被害届を提出したのが、この依頼の発端だった。
「にしても、ここまで逃げてくるかね……」
 政治家だから首都寄りに住居を構えているものだろうが、今は南西の地域に隠し持っている別荘へと移動、いや逃走してきているらしい。父親の方は別ルートで、睦月が護送するのは息子の方。同業者の類から受け取り、また受け渡すのが今回の依頼だった。
 公共交通機関はNG、深夜帯でしかも高速は使えないとなると、移動範囲が限られてくる。資金源に余裕があるならば、移動の際に複数の運転手を雇って、使い回すのが確実だ。
 中継点である待ち合わせ場所を確認した睦月はスマホを仕舞ってから、車のエンジンを掛けた。
「予定までそんなに時間もないし……ちょっと飛ばすか」
 リモコンを操作し、眼前のシャッターを上げる。
 もう夜ということもあり、整備工場周辺に車も人影もない。後はアクセルを踏み、目的地へと向かうだけだった。
 睦月はギアを一速ローに入れて、周囲の迷惑にならないよう、静かに車を発進させた。



 丁度その頃、
「姫香ちゃん、ま~だ~……」
 椅子に腰掛けたままテーブルの上に突っ伏した弥生が、浴室にいる姫香に向けて声を投げるものの、返答はない。
 食器洗いもあるからと、姫香に一番風呂を譲った弥生だったが、その選択は間違っていた。
 防水ケースに入れたスマホ片手に長風呂を決める姫香スマホ中毒を待つ弥生だったが、家事手伝い含めて暇を潰せず、ただだらけることしかできないのであった。
「こうなったら時間潰しに盗聴器でも――」
 ――バンッ!
 裸にバスタオルを巻いただけの姫香が突如浴室から現れ、
 ――ガンッ!
「あたっ!?」
 弥生を手桶でぶん殴ってから、背を向けて戻っていったのであった。
「地獄耳? それとももしかして、もう仕掛けているとか……?」
 ふっ飛ばされた眼鏡を拾い上げながら、弥生は再び椅子へと腰掛けた。
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