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037 久芳姫香が生まれた日(その1)
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バーベキューの日から数日後、ゴールデンウイークももうすぐ終わる頃合いだった。特別に休みとなる場合もあるが、カレンダー上の平日でも運営している施設は存在する。
由希奈が通院している病院も大手の為か通常営業で、普通に診察を受けることができた。
そして今日の診察の結果、由希奈は杖無しでも問題ないことが分かった。
とはいえ、すぐに杖無しでの生活を送れるわけではない。今まで杖に頼っていた為にずれた重心を戻し、二本の足で再び地面を歩けるように、身体の動きを修正する必要がある。
だから今日も杖を持ち歩いているものの、なるべく体重を掛けないようにして、徐々に利用する頻度を落としていかなければならない。
「これから、だよね……」
病院のエントランスで清算を済ませた由希奈は、近いうちにお別れとなる杖を見つめながら、無意識にそう呟いていた。
この後の用事に、若干憂鬱の混じる不安を抱えながら外へ出ようとすると、その相手が丁度来ていた。
「……来たわね。足は大丈夫だった?」
ミディアムのくせ毛が目立つ少女だが、今はパンツスタイルの上に着ているバイクウエアが場違い感を醸し出し、整った顔立ちと相まって悪目立ちしていた。
正直に言って、少女の方から声を掛けられなければ、由希奈は黙って近付くしかなかったかもしれない。
「あ、はい。大丈夫でした……」
「そう」
それだけ言うと、少女は先に歩いていく。由希奈もその後を追い掛けた。
エントランスの外から少し歩いた所にある駐車場には、無骨なデザインに見える黒の側車付二輪車が停まっていた。
「ちょっと狭くて座り辛いかもしれないけど、側車側に座れる?」
「多分、大丈夫だと思います……」
相手に言われるまま、由希奈は側車側に腰掛けた。多少、足を曲げるのがおぼつかなかったが、どうにか座ることには成功した。
そして少女もまた二輪車側に掛けていたヘルメットを掴み、一つを由希奈に手渡してから、自分の分を被りだす。
「ベルト締めたらヘルメット被って……準備いいわね」
「はい……」
由希奈がヘルメットを被るのを確認した少女は二輪車に跨り、右足のブレーキペダルを踏みつつ、ハンドルを握り込む。
「これもそろそろ、分解整備しないと駄目かな……」
「あの、このバイクは……」
「側車付二輪車のこと?」
キーを捻って電源を入れ、エンジンスタートボタンを押した運転手……
「ほぼ睦月のお下がり……仕事手伝うようになってから、ずっと借りっぱなしだし」
……緘黙症の少女はそう答えた。
由希奈は最初、姫香に声を掛けられてすごく驚いた。
初めて会った際に『緘黙症だ』と紹介されていたからだ。だから話し掛けられることはないと思っていただけに、完全な不意討ちで驚いてしまったのだ。
『今度時間取れる? 話したいことがあるんだけど』
あの夜、睦月達の住むマンションの前で、二人きりで待っている時にそう言われたのだ。姫香と連絡先を交換した際も、驚愕で放心しながら、半ば無意識に行っていた程に。
けれども、内心は今日の通院、診察後の再会まで不安が渦巻いていた。いや今でも、不安な気持ちで押し潰されそうになっている。
その由希奈の内情を知ってか知らずか、姫香はずっと前を向いたまま、側車付二輪車を運転していた。
目的地は意外にも、由希奈の自宅近くだった。最寄りのバス停から、さらに奥へと進んだ先にあるアパート前の駐車場に側車付二輪車を駐車させ、姫香はエンジンを切った。
「着いたわよ。手を貸そうか?」
「いえ、大丈夫だと……思います」
少しおっかなびっくりにはなりつつも、由希奈は側車から降りた。一応傍に寄っていた姫香も、無事に降車したことを確認してヘルメットを受け取った後は、すぐに視線を外してしまっている。
「じゃあ行くわよ」
「あの、ここは……?」
「ここ? ああ……」
足に力が入るまで、杖に体重を預けながら、由希奈は問い掛けた。姫香は二人分のヘルメットを指に引っ掛けた状態で持ちつつ、それに答える。
「……私の家」
姫香に案内されるまま、由希奈はアパートの中へと入って行く。その一室に促されて入ると、雑多に服や調理器具が散乱している惨状が、視界に飛び込んできた。
「そっちの座椅子に座ってて。紅茶淹れるけど、ディンブラでいい?」
「あ……できれば、ミルクティーでお願いします」
「ミルクか……ちょっと待ってて」
普段置きしていないのだろう、外へ出てミルクを調達しに行こうとする姫香。
「あ、あの、なければ別に……」
しかし由希奈が声を掛けるよりも早く、姫香は出て行ってしまった。
ただ、不思議なことに……行き先は何故かコンビニとかではなく隣の部屋だったらしく、ノックと呼び鈴のけたたましさがここまで響いてくる。
『七瀬っ、居るなら早く出て来なさいっ!』
『なっ、なんだよ久芳っ!? 家賃は来週必ず払いますから……っ』
『だったら今すぐ牛乳寄越しなさいっ! 生乳100%のやつ!』
『金無いから加工乳しか買えねえよ!』
「ご、強盗……」
何とも言えないまま待っていると、隣の部屋の扉が開く音がした。
『頼むからこれで勘弁してくれ。200mlしかないけど、新品で口付けてないし……』
『ふむ……まあ、仕方ないわね。いいわ、これで手を打ちましょう』
『この強盗め……荻野に言いつけてやる』
『睦月なら『今夜、駅前に飲みに行く』って言ってたわよ。便乗したら?』
『マジでっ!?』
未だに騒いでいる隣室をそのままにしてきたのか、姫香が牛乳片手に、自室へと戻ってきた。
「おまたせ……って、どうかした?」
「いや、ちょっと……何から聞けばいいのか、分からなくなりまして」
不思議そうに首を傾げる姫香に由希奈は思考の整理が追いつかず、視線をあちこちに彷徨わせてしまう。
「そう。じゃあ……紅茶淹れるから待ってて」
「えっと……お構いなく?」
「疑問形な上に、本来はリクエストする前に言うべき言葉よ。それ」
姫香からの手厳しい指摘に思わずたじろぐ由希奈。
キッチンでの作業音を耳にしながら、何となく周囲を見渡していく。
「それにしても……」
視界に広がるのは、大量のダンボール箱と雑多に並べられたパイプハンガーの列。寝床や今由希奈が腰掛けている座椅子付近を除く、全ての床が荷物で埋め尽くされていた。しかしゴミ屋敷というわけではなく、どちらかと言えば、無差別に押し込んだ倉庫を連想してしまうような空間だった。
「……すごい量」
「今は私専用の荷物置きにしているのよ。元々この部屋に住んでた、ってのもあるけど……」
そう説明しながら、姫香は由希奈の前に紅茶とお茶請けのクッキーが並べられた皿を並べていく。
「ヴィーガンクッキーよ。味は薄いと思うけど、その分カロリーは抑えめだから」
「あ、ありがとうございます」
向かいに座る姫香に頭を下げてから、由希奈は手を合わせた。
「いただきます……」
「召し上がれ」
意外にも、姫香は挨拶を返してきた。
由希奈はまずクッキーに手を伸ばし、一つ口に咥えてみる。
「あ、美味しい……」
「そう……」
姫香の言う通り味が薄いかと思っていたのだが、そんなことはなかった。由希奈はゆっくりと咀嚼してから、今度はミルクティーに口を付ける。
「紅茶も、美味し、」
「……そのお茶の葉、去年に開封して放置していたものよ。もう一年以上経っているわね」
由希奈は思わず咳き込んでしまう。視線と共に、姫香の声が飛んでくる。
「大丈夫よ。紅茶の葉って保存状態ちゃんとしてれば、二、三年位持つから。実際、私も今飲んでるし」
「だっ、たら、言わない、で……」
咳き込みながらも、どうにか苦言を呈しようとするものの、視線を上げた由希奈が見たのは、しれっとそっぽを向いて自分の紅茶に口を付けている姫香の姿だった。
「なん、で……そんなことを?」
「……あんたが隙だらけだからよ」
紅茶の入ったカップを置いた姫香は視線を戻すと、由希奈の目を真っ直ぐに見据えてきた。
「私が毒入れてたら、どうするつもりだったのよ?」
「え……何、を……」
何を言っているかが、最初は分からなかった。
「今日呼んだのも、その話がしたかったからよ。一般人が裏社会の住人と友達? 寿命削る行為だっていう自覚ある?」
「あ、あり……、」
あります、とそう肯定しようとする。
しかし由希奈が口を開くよりも早く、姫香の言葉が被さってきた。
「ちなみに、返答次第では私……彩未も殺そうとしていたから」
「え……」
信じられなかった。
簡単に人を殺そうとする発言もそうだが、由希奈から見て、姫香と彩未は気心知れた仲だと思えてならなかったからだ。キャンプ場や車の中でも、二人の間に遠慮なんて似つかわしくないように振る舞っていたと思う。
少なくとも……相手を殺そうなんて考えていたこと自体、思いにもよらなかった程だ。
心に、恐怖が宿りそうな感覚に怯える由希奈に構わず、姫香は言葉を続けてきた。
「当然でしょう。あいつがどう生きるかは勝手だけど……こっちに矛先向けられるのは勘弁して欲しいもの」
そう言ってから、姫香はスマホを座卓の上に置いてきた。画面を上に向けて、ある音声を再生しだした。
『どうかしたの?』
『写真はいいの?』
それはある日の、姫香が彩未に電話した時の会話だった。
何故それを録音し、あまつさえ由希奈に聴かせようとしているのかまでは分からないが……
『う~ん。いまさら感あるし……もういいかな、って』
『彩未、あんたさあ……社会の裏側を舐めてない?』
少なくとも……その言葉は、今の由希奈にも突き刺さってきた。
「ついでに言っとくと、その時私は……彩未を銃で狙ってたわよ」
これは、由希奈は知らない話だが、姫香は本当に彩未を殺そうとしていた。
ベランダに出て、エアコンの室外機の下に隠していた自動拳銃に発射音抑制器を取り付け、帰宅途中の彩未の背中に銃口を向けていたのだ。睦月を先に風呂へと入れていた上に、他に姫香を止める人間が居ない状態に持ち込んだ上で。
使用する銃弾も、睦月の自動拳銃と同じ5.7mm小口径高速弾。有効射程距離を考えれば、十分に狙撃可能だった。
けれども、姫香はすぐに引き金を引くことなく、彩未に電話を掛けていた。
相手の動きを止める、という目的もあるが……彩未との会話自体を、姫香が望んでいたからだ。
『いや、傍迷惑なウザ絡み野郎だって思ってる』
『……それ、ちょっと酷くない?』
『酷くない』
「私もちょっと、酷いと思うんですけれど……」
「酷くない」
録音と同じ回答を、姫香は由希奈に投げつけてきた。
「あいつとつるんでいれば、そのうち分かるかもしれないけど……」
『その疑問……最初からまったく信用してないなら、絶対に出てこないって気付いてる?』
「少なくとも……全面的に信じていたわけじゃないのはたしかよ」
姫香の顔が、少し歪んでいるのが分かる。それがただの照れ隠しなのか、それとも殺人にまで及ばずに済んだことへの安堵からなのかは、今の由希奈には分からなかったが。
「『道具も女も、扱い辛い位が丁度いい。扱い易いと、その分簡単に裏切ってくる』……私も、それには同意見ね」
「誰の、言葉ですか……?」
「睦月。言葉というよりも、単なる自分ルールね」
同じASDだからこそ、認識する点がずれていることは理解できる。それに、初対面の時から『捻くれている』と言っていたのだ。そのことを思い出して……何となく姫香の言いたいことが分かりかけていた。
「私が……睦月さんを傷付けると、思われているんですか?」
「それ以前」
その間も、スマホから流れる録音の会話が止まることはない。
『私にとって、睦月君は気の置けない友達。身体の関係を持つ程度には異性として見ている。でも……彼の生涯にまでは、ついて行けない』
「睦月はね……友達程度なら、問題が起きればあっさり切り捨てようとする。普段から、そう考えているの。でも、それは理性での判断であって……感情の方は絶対に納得しない」
要するに、姫香は由希奈に問い掛けているのだ。
「近付いてくる女を追い払いたい、って私の気持ちもあるけど……一番の理由は、あんたが睦月にとっての重荷になる前に、その芽を摘んでおきたいのよ」
『だから姫香ちゃんは、ちょっと尊敬しちゃうんだよね~……たとえ何があろうとも、睦月君について行く覚悟を決めているんだから』
「だから、今から選んでくれない?」
録音の切れたスマホを片付けた姫香は、由希奈を見据えた状態で選択肢を放った。
「問題が起きた際は、すぐに身を引くか……最後まで傍にいるかを」
同時に、自動拳銃を持った手を、座卓の上に置きながら。
由希奈が通院している病院も大手の為か通常営業で、普通に診察を受けることができた。
そして今日の診察の結果、由希奈は杖無しでも問題ないことが分かった。
とはいえ、すぐに杖無しでの生活を送れるわけではない。今まで杖に頼っていた為にずれた重心を戻し、二本の足で再び地面を歩けるように、身体の動きを修正する必要がある。
だから今日も杖を持ち歩いているものの、なるべく体重を掛けないようにして、徐々に利用する頻度を落としていかなければならない。
「これから、だよね……」
病院のエントランスで清算を済ませた由希奈は、近いうちにお別れとなる杖を見つめながら、無意識にそう呟いていた。
この後の用事に、若干憂鬱の混じる不安を抱えながら外へ出ようとすると、その相手が丁度来ていた。
「……来たわね。足は大丈夫だった?」
ミディアムのくせ毛が目立つ少女だが、今はパンツスタイルの上に着ているバイクウエアが場違い感を醸し出し、整った顔立ちと相まって悪目立ちしていた。
正直に言って、少女の方から声を掛けられなければ、由希奈は黙って近付くしかなかったかもしれない。
「あ、はい。大丈夫でした……」
「そう」
それだけ言うと、少女は先に歩いていく。由希奈もその後を追い掛けた。
エントランスの外から少し歩いた所にある駐車場には、無骨なデザインに見える黒の側車付二輪車が停まっていた。
「ちょっと狭くて座り辛いかもしれないけど、側車側に座れる?」
「多分、大丈夫だと思います……」
相手に言われるまま、由希奈は側車側に腰掛けた。多少、足を曲げるのがおぼつかなかったが、どうにか座ることには成功した。
そして少女もまた二輪車側に掛けていたヘルメットを掴み、一つを由希奈に手渡してから、自分の分を被りだす。
「ベルト締めたらヘルメット被って……準備いいわね」
「はい……」
由希奈がヘルメットを被るのを確認した少女は二輪車に跨り、右足のブレーキペダルを踏みつつ、ハンドルを握り込む。
「これもそろそろ、分解整備しないと駄目かな……」
「あの、このバイクは……」
「側車付二輪車のこと?」
キーを捻って電源を入れ、エンジンスタートボタンを押した運転手……
「ほぼ睦月のお下がり……仕事手伝うようになってから、ずっと借りっぱなしだし」
……緘黙症の少女はそう答えた。
由希奈は最初、姫香に声を掛けられてすごく驚いた。
初めて会った際に『緘黙症だ』と紹介されていたからだ。だから話し掛けられることはないと思っていただけに、完全な不意討ちで驚いてしまったのだ。
『今度時間取れる? 話したいことがあるんだけど』
あの夜、睦月達の住むマンションの前で、二人きりで待っている時にそう言われたのだ。姫香と連絡先を交換した際も、驚愕で放心しながら、半ば無意識に行っていた程に。
けれども、内心は今日の通院、診察後の再会まで不安が渦巻いていた。いや今でも、不安な気持ちで押し潰されそうになっている。
その由希奈の内情を知ってか知らずか、姫香はずっと前を向いたまま、側車付二輪車を運転していた。
目的地は意外にも、由希奈の自宅近くだった。最寄りのバス停から、さらに奥へと進んだ先にあるアパート前の駐車場に側車付二輪車を駐車させ、姫香はエンジンを切った。
「着いたわよ。手を貸そうか?」
「いえ、大丈夫だと……思います」
少しおっかなびっくりにはなりつつも、由希奈は側車から降りた。一応傍に寄っていた姫香も、無事に降車したことを確認してヘルメットを受け取った後は、すぐに視線を外してしまっている。
「じゃあ行くわよ」
「あの、ここは……?」
「ここ? ああ……」
足に力が入るまで、杖に体重を預けながら、由希奈は問い掛けた。姫香は二人分のヘルメットを指に引っ掛けた状態で持ちつつ、それに答える。
「……私の家」
姫香に案内されるまま、由希奈はアパートの中へと入って行く。その一室に促されて入ると、雑多に服や調理器具が散乱している惨状が、視界に飛び込んできた。
「そっちの座椅子に座ってて。紅茶淹れるけど、ディンブラでいい?」
「あ……できれば、ミルクティーでお願いします」
「ミルクか……ちょっと待ってて」
普段置きしていないのだろう、外へ出てミルクを調達しに行こうとする姫香。
「あ、あの、なければ別に……」
しかし由希奈が声を掛けるよりも早く、姫香は出て行ってしまった。
ただ、不思議なことに……行き先は何故かコンビニとかではなく隣の部屋だったらしく、ノックと呼び鈴のけたたましさがここまで響いてくる。
『七瀬っ、居るなら早く出て来なさいっ!』
『なっ、なんだよ久芳っ!? 家賃は来週必ず払いますから……っ』
『だったら今すぐ牛乳寄越しなさいっ! 生乳100%のやつ!』
『金無いから加工乳しか買えねえよ!』
「ご、強盗……」
何とも言えないまま待っていると、隣の部屋の扉が開く音がした。
『頼むからこれで勘弁してくれ。200mlしかないけど、新品で口付けてないし……』
『ふむ……まあ、仕方ないわね。いいわ、これで手を打ちましょう』
『この強盗め……荻野に言いつけてやる』
『睦月なら『今夜、駅前に飲みに行く』って言ってたわよ。便乗したら?』
『マジでっ!?』
未だに騒いでいる隣室をそのままにしてきたのか、姫香が牛乳片手に、自室へと戻ってきた。
「おまたせ……って、どうかした?」
「いや、ちょっと……何から聞けばいいのか、分からなくなりまして」
不思議そうに首を傾げる姫香に由希奈は思考の整理が追いつかず、視線をあちこちに彷徨わせてしまう。
「そう。じゃあ……紅茶淹れるから待ってて」
「えっと……お構いなく?」
「疑問形な上に、本来はリクエストする前に言うべき言葉よ。それ」
姫香からの手厳しい指摘に思わずたじろぐ由希奈。
キッチンでの作業音を耳にしながら、何となく周囲を見渡していく。
「それにしても……」
視界に広がるのは、大量のダンボール箱と雑多に並べられたパイプハンガーの列。寝床や今由希奈が腰掛けている座椅子付近を除く、全ての床が荷物で埋め尽くされていた。しかしゴミ屋敷というわけではなく、どちらかと言えば、無差別に押し込んだ倉庫を連想してしまうような空間だった。
「……すごい量」
「今は私専用の荷物置きにしているのよ。元々この部屋に住んでた、ってのもあるけど……」
そう説明しながら、姫香は由希奈の前に紅茶とお茶請けのクッキーが並べられた皿を並べていく。
「ヴィーガンクッキーよ。味は薄いと思うけど、その分カロリーは抑えめだから」
「あ、ありがとうございます」
向かいに座る姫香に頭を下げてから、由希奈は手を合わせた。
「いただきます……」
「召し上がれ」
意外にも、姫香は挨拶を返してきた。
由希奈はまずクッキーに手を伸ばし、一つ口に咥えてみる。
「あ、美味しい……」
「そう……」
姫香の言う通り味が薄いかと思っていたのだが、そんなことはなかった。由希奈はゆっくりと咀嚼してから、今度はミルクティーに口を付ける。
「紅茶も、美味し、」
「……そのお茶の葉、去年に開封して放置していたものよ。もう一年以上経っているわね」
由希奈は思わず咳き込んでしまう。視線と共に、姫香の声が飛んでくる。
「大丈夫よ。紅茶の葉って保存状態ちゃんとしてれば、二、三年位持つから。実際、私も今飲んでるし」
「だっ、たら、言わない、で……」
咳き込みながらも、どうにか苦言を呈しようとするものの、視線を上げた由希奈が見たのは、しれっとそっぽを向いて自分の紅茶に口を付けている姫香の姿だった。
「なん、で……そんなことを?」
「……あんたが隙だらけだからよ」
紅茶の入ったカップを置いた姫香は視線を戻すと、由希奈の目を真っ直ぐに見据えてきた。
「私が毒入れてたら、どうするつもりだったのよ?」
「え……何、を……」
何を言っているかが、最初は分からなかった。
「今日呼んだのも、その話がしたかったからよ。一般人が裏社会の住人と友達? 寿命削る行為だっていう自覚ある?」
「あ、あり……、」
あります、とそう肯定しようとする。
しかし由希奈が口を開くよりも早く、姫香の言葉が被さってきた。
「ちなみに、返答次第では私……彩未も殺そうとしていたから」
「え……」
信じられなかった。
簡単に人を殺そうとする発言もそうだが、由希奈から見て、姫香と彩未は気心知れた仲だと思えてならなかったからだ。キャンプ場や車の中でも、二人の間に遠慮なんて似つかわしくないように振る舞っていたと思う。
少なくとも……相手を殺そうなんて考えていたこと自体、思いにもよらなかった程だ。
心に、恐怖が宿りそうな感覚に怯える由希奈に構わず、姫香は言葉を続けてきた。
「当然でしょう。あいつがどう生きるかは勝手だけど……こっちに矛先向けられるのは勘弁して欲しいもの」
そう言ってから、姫香はスマホを座卓の上に置いてきた。画面を上に向けて、ある音声を再生しだした。
『どうかしたの?』
『写真はいいの?』
それはある日の、姫香が彩未に電話した時の会話だった。
何故それを録音し、あまつさえ由希奈に聴かせようとしているのかまでは分からないが……
『う~ん。いまさら感あるし……もういいかな、って』
『彩未、あんたさあ……社会の裏側を舐めてない?』
少なくとも……その言葉は、今の由希奈にも突き刺さってきた。
「ついでに言っとくと、その時私は……彩未を銃で狙ってたわよ」
これは、由希奈は知らない話だが、姫香は本当に彩未を殺そうとしていた。
ベランダに出て、エアコンの室外機の下に隠していた自動拳銃に発射音抑制器を取り付け、帰宅途中の彩未の背中に銃口を向けていたのだ。睦月を先に風呂へと入れていた上に、他に姫香を止める人間が居ない状態に持ち込んだ上で。
使用する銃弾も、睦月の自動拳銃と同じ5.7mm小口径高速弾。有効射程距離を考えれば、十分に狙撃可能だった。
けれども、姫香はすぐに引き金を引くことなく、彩未に電話を掛けていた。
相手の動きを止める、という目的もあるが……彩未との会話自体を、姫香が望んでいたからだ。
『いや、傍迷惑なウザ絡み野郎だって思ってる』
『……それ、ちょっと酷くない?』
『酷くない』
「私もちょっと、酷いと思うんですけれど……」
「酷くない」
録音と同じ回答を、姫香は由希奈に投げつけてきた。
「あいつとつるんでいれば、そのうち分かるかもしれないけど……」
『その疑問……最初からまったく信用してないなら、絶対に出てこないって気付いてる?』
「少なくとも……全面的に信じていたわけじゃないのはたしかよ」
姫香の顔が、少し歪んでいるのが分かる。それがただの照れ隠しなのか、それとも殺人にまで及ばずに済んだことへの安堵からなのかは、今の由希奈には分からなかったが。
「『道具も女も、扱い辛い位が丁度いい。扱い易いと、その分簡単に裏切ってくる』……私も、それには同意見ね」
「誰の、言葉ですか……?」
「睦月。言葉というよりも、単なる自分ルールね」
同じASDだからこそ、認識する点がずれていることは理解できる。それに、初対面の時から『捻くれている』と言っていたのだ。そのことを思い出して……何となく姫香の言いたいことが分かりかけていた。
「私が……睦月さんを傷付けると、思われているんですか?」
「それ以前」
その間も、スマホから流れる録音の会話が止まることはない。
『私にとって、睦月君は気の置けない友達。身体の関係を持つ程度には異性として見ている。でも……彼の生涯にまでは、ついて行けない』
「睦月はね……友達程度なら、問題が起きればあっさり切り捨てようとする。普段から、そう考えているの。でも、それは理性での判断であって……感情の方は絶対に納得しない」
要するに、姫香は由希奈に問い掛けているのだ。
「近付いてくる女を追い払いたい、って私の気持ちもあるけど……一番の理由は、あんたが睦月にとっての重荷になる前に、その芽を摘んでおきたいのよ」
『だから姫香ちゃんは、ちょっと尊敬しちゃうんだよね~……たとえ何があろうとも、睦月君について行く覚悟を決めているんだから』
「だから、今から選んでくれない?」
録音の切れたスマホを片付けた姫香は、由希奈を見据えた状態で選択肢を放った。
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