いつか花と、歌えたら

れい

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いつか花と、歌えたら

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全てのものには、魂が宿るという。
日本では、百年の年月を経たものには、付喪神が宿るとされている。
だがそれは、何も日本だけの話ではないのだ。



八月の、とても暑い日だったのを、覚えている。
私はその日、とても浮かれていた。
転職すら考えるほど上手くいかないと数年悩んでいた仕事だったが、ついに私の企画案が採用され、さらにはプロジェクトリーダーに任命されたのだ。
先輩からは激励を。後輩からは憧憬の眼差しを。そして私と同じようにくすぶっている同期からは、羨望をも入り混じった視線の中、賞賛の言葉をたくさんかけてもらえた。
高ぶる気持ちの中、大事なのはこれからだぞ、と戒めるように胸の前で両の拳を握り、気を引き締めようとはするのだが、今日くらいは自分にご褒美をあげてもいいのでは、囁く声も脳内に響く。

そうだそうだ。私は頑張ったのだ。
ずっと頑張ってきて、それがようやく実を結び始めたのだ。
自分にご褒美を与えてあげよう。初採用、初リーダー記念だ。
先月末のボーナス額も上がっていたし、ちょっとくらい、いいではないか。
手始めは…そうだな。普段は滅多に行かない、あの有名な高めのコーヒーショップで、贅沢なひと時を過ごそうではないか。

私は、自覚ができる程いつもより高めの声で、お疲れ様です!と華麗に定時退社を決めた。






いつもよりふたサイズ大きめに頼んだコーヒーフラペチーノだったが、飲み終わる頃には寒くて寒くてしょうがなかった。
入店したころ、首から滴るほど汗だくだったのが嘘みたいだ。
だってここ数ヶ月の私は、残業ばかりしていた毎日だったため、まさか定時退社をするとあんなにも太陽にさんさんと照らされることになるとは知らなかったのだ。
知らない間に日が長くなったものだなぁ、と、私はストローに口をつける。
ずずず、という低い音を立てて、あんなに重かったコーヒーフラペチーノは、ただの軽い、透明な容器になった。
私は、水滴のついたテーブルを紙ナプキンで拭くと、テーブルに両肘をついて目を閉じる。
コーヒーの香りと、なんだろう、クッキーを温めたような、ほのかに甘い、小麦粉の焼ける香り。
内容が聞き取れない、雑音にも近い人々の話し声や、隣でパソコンのキーボードを打つ音、店員の明るい声、蒸気が吹き出す音、氷を砕くような機械音でさえ、普段は気にも止めないくせに、今は不思議と心地よかった。
数分間ほど浸り、このまま眠れたらいいのにとすら思ったが、ざわり、と無意識に震えた腕がそれを邪魔する。
冷房の効いた店内は、巨大なコーヒーフラペチーノを飲み干した私には寒すぎた。
鳥肌のたった両腕をさすって、私は席を立つ。
いつもは背中で聞いている店員の感謝の言葉に、私は肩ごしに笑みを向けた。





少しだけ、日が傾き始めていた。
すれ違う女性がハンドタオルで首の汗を拭っているが、冷え切った身体の私には、今がちょうどいいくらいの温さだ。
次はどうしようか。家に帰って撮りためていたドラマを一気に見るのもいいが。
何となくそれはもったいないなぁ、とまだ家に帰る気が起きなかった私は、駅の反対方向に、歩みを進めた。
帰路に着く人々に逆らって歩く自分が、汚れ一つないショーウインドウを流れる。
いつもより背筋が伸びていて、軽い足取りの私を、店内を見るフリをしながら歩き続けた。


私の足を止めさせたのは、ゆったりとしたリズムで鳴る、丸い、可愛らしい音だった。
ガラス越しのそれは小さく、きっと普段なら気付きもしない音だったが、なぜか今日は人々の足音よりも、大きく聞こえた。
木彫りの箱の、オルゴールだ。
立方体の形をしたそれは、各面に季節の花々が色とりどりあしらわれている。
ニスの少し褪せた、鈍く光る木目も、所々傷のついた丸い角も、花弁の先の剥げた絵の具も、なぜか不思議な魅力を感じさせるものだった。
気付けば私は、その隣の木製の扉を、開けていた。
同時に、きっと中が錆び付いている鐘が、小さく私を歓迎する。
店内は薄暗く、壁のランプの灯火が、少し揺れた。

「…おや、いらっしゃい」

一人の老人が、柔らかく笑った。
髪も眉も、長めに伸ばした髭も真っ白で、細い髪質が、私にさらに柔らかな印象を与える。
よれてくすんだアイボリーのシャツを着ているが、どうして不思議と清潔感を感じるのだろう。
それどころか、どこか懐かしさすら感じる出で立ちだった。
低く軋むロッキングチェアを規則正しく揺らしながら、老人は膝の上の少女に、目を落とした。
少女は目を伏せ、老人に身を任せるようにして、眠っている。
老人は彼女のまっすぐなブロンドの髪を、壊れ物を扱うかのようにゆっくりとした丁寧な動作で、繰り返し梳いていた。
少女の肌は、サイドテーブルに置かれたランプの灯火でも分かるくらい真っ白で、まるで陶器のようだ。
白いワンピースに身を包む彼女は、肌といい髪といい、どう見ても日本人ではない。欧州の子だろうか。
私がその少女から目を離せずにいたことに気付いたのか、彼女の髪を梳いていた老人が手を止めて、ああ、と再び柔らかく笑う。

「この子は人形だよ。フランスの百年もののビスクドールだ。
向こうでは、百年経つとアンティークドールというようだがね」

「あ、お人形さん…」

よくできているだろう、と老人は再び彼女の髪を梳き始めた。
彼女が目を閉じている仕様だからだろうか、人形だと言われても、不思議と私にはまだ彼女が眠っているだけのように見える。
あの、と私は、手を止めない老人に声をかけた。

「少し、店内を見させていただいてもいいですか?」

「ああ、ご自由にどうぞ」

老人はまた、柔らかく笑った。
そこで私は、先ほど懐かしさを感じた理由が、この老人が、かつて映画で見たサンタクロースにそっくりだったからだと、思い出した。
老人はこちらを見ることもなく、椅子をゆったりと揺らしながら、ただただ人形の髪を梳き続けている。
私はその様子を横目に、店内を歩き出した。
普段は気にもとめない、自分の足音がなんだかとても大きく聞こえる。
足を止めれば、店内は規則正しく軋む椅子の音と、ゆったりとしたオルゴールの曲と、時折リズムを合わせる、古時計の秒針の音、微かにランプの中で、何かが弾けるような音しか聞こえない。
表通りに面しているはずなのに、不思議と車の音も、人々の喧騒も、まるで耳に入ってこなかった。

現実とかけ離れた、別世界すら思わせる空間。

なのにどうしてだろう、とても懐かしい。ノスタルジーを感じるというのは、まさにこういう感情なのだろう。
先ほどのコーヒーショップと同じ街だとは思えないなと、私は少し埃臭さの混じった、木の香る空気が胸に染みていくのを感じていた。
この店は、アンティークものを取り扱っている店なのだろうか。
最初は、棚やテーブルといった大きな家具もあるし、傘立てやハットスタンドもあるため、家具を取り扱う店だと思ったが。
私は店の中央に位置するテーブルをそっと撫でる。
木目をなぞる指先に、細かくついた生活の痕を感じた。
よく見れば、まるで人が座っているように、少しテーブルから離れ、角度の付けられた位置にあるペアの椅子。
ワンセットしか置かれていない、少し模様の剥げたティーセット。
ソーサー付きのティーカップは、椅子に座ればちょうど、右利きの私が置く位置にある。
壁際の大きな戸棚の蝶番は錆びて光を失っているし、右側の側面が色褪せている。きっと今と同じように、右側から太陽がよく当たる、窓際に置かれていたのだろう。
青と緑のドレスに身を包んだ双子のビスクドールは、ビスケットの置かれたお皿の前で仲良く肩を寄せ合っている。
このビスケットは本物だ。埃も被っていないし、定期的に交換しているのだろうか。

不思議な店だ、と改めて思った。

店全体の陳列として、統一感は全くない。それどころか一見、適当に物を並べたようにすら見えるかも知れない。
だがよく観察すれば、その物が置かれた僅かな空間だけは、異常にリアルな生活感を見せるほど、統一されている。
きっとこれは、商品を買う人のための陳列ではなく、売っている物のための陳列なのだ、と思った。

「お嬢さん」

突然声をかけられ、私はハッとした。
振り返れば、老人は人形の髪を梳くのを止め、真っ白なタオルで人形の腕を拭いている。
赤ん坊の柔肌を扱うかのように、とても丁寧に。
老人は手を止めず、続けた。

「あの、窓際のオルゴールが気になるようだね」

え、と私は思わず声を漏らした。
なぜか、自分の鼓動がとても大きく聞こえる。
悪い事などしていないのに、なんだか居心地の悪いむず痒さまで感じていた。

「お嬢さん、きっと食事では好きなものを最後に食べるのだろう?
なぁに、それとおんなじなだけさ」

少し楽しげに、老人は笑う。
規則正しかったロッキングチェアのリズムが、少しだけ揺らいだ。
心の声でも聞こえるというのだろうか。
完全な図星に、私のむず痒さは消えない。
老人はふぅ、と長い息を吐いて笑い終えると、膝に抱えていた人形をサイドテーブルに座らせて、立ち上がった。

「お嬢さん、花は好きかい?」

「え?えーと、まぁ、ふつうくらいには」

そうかそうか、と老人はまた、柔らかく笑った。
床の軋む音が、徐々に近づいてくる。
勝手に感じていた緊迫した空気は、老人が私の前を横切るのと同時に、音もなく消えた。

「このオルゴールはね、花がとても好きでね。
ほら、たくさんの、季節の花が彫られているだろう?」

「はい、外から見させていただきました。…箱も音色も、とても綺麗だと思って」

そうかそうか、と再び老人は満足げに頷いた。
そしてその皺だらけの手で、優しくオルゴールの蓋を閉じ、私に差し出す。
私は、差し出された、音の止んだ箱を、じっと見つめた。

「あなたはきっと、毎日この子の歌を聴いてくれるだろう。
だから、一輪でも構わない。このオルゴールの隣に、季節にあった花を添えてやってくれるかい?」

私はそこで、初めて老人の目を見た。
薄緑色をした、慈愛に満ちた瞳だ。
サンタさん、という言葉が、ふわりと胸に上がってきて、私は知らず知らず、首を縦に振っていたらしい。
老人はぶら下がっていた私の手をそっと取り、優しく、微かに震えながら、オルゴールを包み込むように、私の手に乗せた。

「これはお嬢さんに譲ろう。…大切に、してやってくれ」

まるで別れを告げるように、老人はオルゴールを見つめる目を細めた。
そっとその表面を撫でる指は、あの人形を撫でるのと同じ、とても優しい仕草。
私は、かすれた声で、ありがとうございます、とだけ振り絞ると、不思議な圧力に押されるようにして、店を出た。

鈍い錆びた鐘の音を背に、私は立ち止まっていた。
行き交う人々の忙しない足音も、内容が聞き取れない、雑音にも近い人々の話し声も、遠くで鳴くカラスの声も、まるで遠く、夢の中にいるような感覚だった。
呆然と眺めていた人々の流れから、目を落とす。
私の手は、しっかりと古びた花模様のオルゴールを握っていた。
長かった日が、傾き始めている。
少し藍色の滲み始めたオレンジ色の空を見て、私は帰ろう、と思った。

ああ、その前に、花屋で夏の花をもらいに行かなくては。

私はオルゴールを優しくカバンにしまって、帰路につく。
少し生ぬるくなった風が、優しく私の頬を撫でた。






「ねぇ、おじいさま」

薄暗い部屋の中、盲目の少女が語りかけた。
窓の外を見ていた老人は振り返ると、ゆったりとした動作で彼女の元へ戻る。
そしてロッキングチェアに腰をかけると、彼女を抱き上げ、赤ん坊を抱えるようにして、ゆらゆらと体を揺らし始めた。

「あの子、またお花と歌が歌えるといいわね」

「ああ、そうだね」

規則正しく軋む椅子の音と、古時計の秒針の音、微かにランプの中で、何かが弾けるような音。
盲目の少女は、ねぇ、と老人に言う。

「私のお母様は、まだ見つからないのかしら」

少女の表情は変わらないが、少しだけ、寂しさを孕んだ声だった。
老人はその薄緑色の目を細めると、彼女の頬を撫でる。
まるで涙を拭うように。

「もう少しだけ、待っていてくれ」

老人は、彼女をあやすように、椅子を揺らし続けた。
まだ耳に残る子守唄を、老人は少しずれた音程で、口ずさむ。
盲目の少女はその声を聞きながら、ゆっくりと眠りについた。


ここは寂れたアンティークショップ。
あなたの理想の持ち主を、必ずや見つけて差し上げよう。
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