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それはまるで、枕元のあの小説のように
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たぶん、僕は期待していたんだと思う。
期待していたから、今僕は失望しているのだ。
三月の末、僕は髪を染めた。
美容院から帰宅した僕を、あか抜けたわね、と母さんがやたら喜んでいたのを覚えている。
入学祝いなのか、父さんが勝手に買ってきてくれたやたらと高い値段のブランドスニーカーを履いて、いってきます、と僕は玄関を開けた。
あか抜けた、だなんて、よく言うよ。
別に何も変わらない。
毎日着る服が、みんなと同じ学ランからシンプルなシャツと黒いスキニーパンツに変わっただけで、駅までの道に並ぶ葉桜も、なぜか左から二つ目の改札を通りたくなることも、特に変わりやしない。
ああでも、重たいスクールバックが、すかすかのトートバッグに変わったことと、電車の線も時間も変わったから、6号車の端の席がいつも空いているのは、少しだけ気分がいい。
意外と変わったのかな、と少しだけ思って、見てくれだけじゃないかと、すぐに僕は僕を嘲笑した。
朝の電車は、とても静かだ。
それは、次の駅で隣に座ってきた男のヘッドホンから、最近テレビでよく聞く、ロックバンドの音楽が微かに聞こえるほどだ。
僕は自分の膝に目を落とした。
僕は、何かが変わると思っていたんだ。
よく分からないブランドスニーカーも、シャツにスキニーパンツという服装も、すかすかのトートバッグも。
…黒縁の眼鏡だけは、変えられなかったけど。
きっと何かが変わると、本当に思っていたんだ。
電車がトンネルに吸い込まれる。
イヤホンをしていない僕の耳に、一瞬の轟音と、気圧が押し寄せた。
顔を上げれば、反対側の黒い窓に透けた大学生が映っている。
ああ僕か、と、また下を向いた。
なんだかまるで、幽霊みたいだ。
僕は昔から、流行りというものが、よく分からなかった。
何のドラマが、何の音楽が、何の映画が、何の雑誌が。
一方的に話しかけてくる変なやつがいたから、おかげさまで名前だけは知っていたけど、僕はあいつの話にへぇ、と返すだけで、どれも見ようとか、聴こうとか、思ったことがなかった。
そんな僕をみんなが、暗いやつ、と言っていたのを、知っている。
言われてもしょうがない、と、諦めている僕がいたのも、僕だけは知っている。
だから、変わると思っていたんだ。
みんなと同じように、見た目を変えて、情報を追って、話を合わせて、溶け込んでいければ。
電車はゆっくりと速度を落とす。
隣のやつの肩が、少しだけ僕に当たる。
慣性の法則。電車の中とは、そういうものだ。
ドアが開くと、まるでプログラミングされたかのように、乗客の一部がホームの人間と交換される。
日本人の電車マナーは、とても行儀がいいと、何かの番組で聞いたのを思い出した。
段々と乗車率が上がっていく中、人をかき分けるようにして僕の前にたどり着いた男が、よぅ、と腕時計の付いた手を挙げた。
顔を上げた僕は、その顔を見て、またすぐに下を向く。
一瞬だけ僕と目が合った男は、隣のやつがおぉ、と言ったので、何ともなかったかのようにすぐ首を横に逸らした。
おろしたヘッドホンから、少し大きくなった音漏れ。
なんだっけ、えーと。…ああ、思い出した。この間始まった医療ドラマの主題歌。
サビの途中だったその音楽は、ぶつりと途切れた。
僕の通う大学まで、あと二駅。
車内は少しずつ、話し声が増えてきていた。
見てくれだけなら、僕も変わらないのに。
晴れやかに笑う学生たちを、僕は少しだけ、手すりに頭を預けて眺めていた。
そしてひっそりと、一人でに溜息を吐いた。
見てくれだけしか、変わらないからだろう。
誰かが頭の中で嗤う。
分かってるよ、うるさいなぁ、と、僕は心が灰色になるのを感じた。
最近、似たような感情を、味わった気がする。
あれはなんだったっけ。確かベッドの上で、僕は寝転がっていて。
…ああ、思い出した。これは失望だ。僕は今、がっかりしている。
まるで、タイトルに惹かれてあらすじも読まずに買ってみた、あの小説みたいだ。
薄っぺらな中身に途中で飽きてしまって、枕元に置き去りにしたのと、同じ感覚。
表紙を開くまでが一番面白かったなぁ、なんて思ったのと、同じ感情。
僕は、あの本と一緒なんだ。
電算が速度を落とし、緩やかに止まる。
大学の最寄り駅についた。
立ち上がった僕は、学生たちで出来た波の一つとなって、改札階へと流されていく。
帰ったら、あの本、もう一度開いてみようかな。
そしたら明日は、何か変わるかもしれない。
なんとなく、そう思った。
たぶん、僕は期待していたんだと思う。
期待していたから、今僕は失望しているのに。
明日の僕は、どうだろうか。
期待していたから、今僕は失望しているのだ。
三月の末、僕は髪を染めた。
美容院から帰宅した僕を、あか抜けたわね、と母さんがやたら喜んでいたのを覚えている。
入学祝いなのか、父さんが勝手に買ってきてくれたやたらと高い値段のブランドスニーカーを履いて、いってきます、と僕は玄関を開けた。
あか抜けた、だなんて、よく言うよ。
別に何も変わらない。
毎日着る服が、みんなと同じ学ランからシンプルなシャツと黒いスキニーパンツに変わっただけで、駅までの道に並ぶ葉桜も、なぜか左から二つ目の改札を通りたくなることも、特に変わりやしない。
ああでも、重たいスクールバックが、すかすかのトートバッグに変わったことと、電車の線も時間も変わったから、6号車の端の席がいつも空いているのは、少しだけ気分がいい。
意外と変わったのかな、と少しだけ思って、見てくれだけじゃないかと、すぐに僕は僕を嘲笑した。
朝の電車は、とても静かだ。
それは、次の駅で隣に座ってきた男のヘッドホンから、最近テレビでよく聞く、ロックバンドの音楽が微かに聞こえるほどだ。
僕は自分の膝に目を落とした。
僕は、何かが変わると思っていたんだ。
よく分からないブランドスニーカーも、シャツにスキニーパンツという服装も、すかすかのトートバッグも。
…黒縁の眼鏡だけは、変えられなかったけど。
きっと何かが変わると、本当に思っていたんだ。
電車がトンネルに吸い込まれる。
イヤホンをしていない僕の耳に、一瞬の轟音と、気圧が押し寄せた。
顔を上げれば、反対側の黒い窓に透けた大学生が映っている。
ああ僕か、と、また下を向いた。
なんだかまるで、幽霊みたいだ。
僕は昔から、流行りというものが、よく分からなかった。
何のドラマが、何の音楽が、何の映画が、何の雑誌が。
一方的に話しかけてくる変なやつがいたから、おかげさまで名前だけは知っていたけど、僕はあいつの話にへぇ、と返すだけで、どれも見ようとか、聴こうとか、思ったことがなかった。
そんな僕をみんなが、暗いやつ、と言っていたのを、知っている。
言われてもしょうがない、と、諦めている僕がいたのも、僕だけは知っている。
だから、変わると思っていたんだ。
みんなと同じように、見た目を変えて、情報を追って、話を合わせて、溶け込んでいければ。
電車はゆっくりと速度を落とす。
隣のやつの肩が、少しだけ僕に当たる。
慣性の法則。電車の中とは、そういうものだ。
ドアが開くと、まるでプログラミングされたかのように、乗客の一部がホームの人間と交換される。
日本人の電車マナーは、とても行儀がいいと、何かの番組で聞いたのを思い出した。
段々と乗車率が上がっていく中、人をかき分けるようにして僕の前にたどり着いた男が、よぅ、と腕時計の付いた手を挙げた。
顔を上げた僕は、その顔を見て、またすぐに下を向く。
一瞬だけ僕と目が合った男は、隣のやつがおぉ、と言ったので、何ともなかったかのようにすぐ首を横に逸らした。
おろしたヘッドホンから、少し大きくなった音漏れ。
なんだっけ、えーと。…ああ、思い出した。この間始まった医療ドラマの主題歌。
サビの途中だったその音楽は、ぶつりと途切れた。
僕の通う大学まで、あと二駅。
車内は少しずつ、話し声が増えてきていた。
見てくれだけなら、僕も変わらないのに。
晴れやかに笑う学生たちを、僕は少しだけ、手すりに頭を預けて眺めていた。
そしてひっそりと、一人でに溜息を吐いた。
見てくれだけしか、変わらないからだろう。
誰かが頭の中で嗤う。
分かってるよ、うるさいなぁ、と、僕は心が灰色になるのを感じた。
最近、似たような感情を、味わった気がする。
あれはなんだったっけ。確かベッドの上で、僕は寝転がっていて。
…ああ、思い出した。これは失望だ。僕は今、がっかりしている。
まるで、タイトルに惹かれてあらすじも読まずに買ってみた、あの小説みたいだ。
薄っぺらな中身に途中で飽きてしまって、枕元に置き去りにしたのと、同じ感覚。
表紙を開くまでが一番面白かったなぁ、なんて思ったのと、同じ感情。
僕は、あの本と一緒なんだ。
電算が速度を落とし、緩やかに止まる。
大学の最寄り駅についた。
立ち上がった僕は、学生たちで出来た波の一つとなって、改札階へと流されていく。
帰ったら、あの本、もう一度開いてみようかな。
そしたら明日は、何か変わるかもしれない。
なんとなく、そう思った。
たぶん、僕は期待していたんだと思う。
期待していたから、今僕は失望しているのに。
明日の僕は、どうだろうか。
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