コーヒーブレイク

れい

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コーヒーブレイク

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「コーヒーひとつ」

「はい、以上でよろしいでしょうか」

頼みもしないメニュー表を見ながら、俺は低く、はいと答えた。
100円になります、と言った店員の声に、スーツの後ろ左ポケットを探る。
手のひらに乗った、鈍く光る金属硬化たちの中から、銀色の100円玉を選んで、キャッシュトレイに落とした。

100円で一杯のコーヒーが飲める日本は、素晴らしいと思う。もちろん、質やこだわりを求めない上での話だ。洒落た喫茶店に入れば、一杯1000円のコーヒーなど当たり前にある。だが淹れ方の違いとか、豆の違いとか、比べれば分かるが特に見合った価値も分からない舌を持つ俺は、そこで一日を過ごすならこのファーストフード店で、同じような10日間を過ごすことを選ぶ。

隣の受け渡し口で片手に収まるほどの小さなコーヒーを受け取って、俺は二階の隅の二人がけテーブルに腰をかけた。
平日の夕方、日が落ちる前。会社ではたぶん、内勤の奴らは忙しなく働いている時間だ。それでもこのファーストフード店には、まばらに客が、各々の時間を過ごしていた。

俺は、どこにでもいるような営業マンだ。今日は朝から商談を三件回って、今は自宅のある県の、二つ隣の県で一服中だ。会社の予定を書くホワイトボードは直帰にしてきたし、今日の仕事はもう家に帰るだけ。家に帰れば、6歳年下の美人な妻が飯を作っていて、3歳と5歳になった、娘と息子が玄関まで走って出迎えてくれる。
会社は中小企業だが、給料だって悪くない。贅沢が出来る訳ではないが、家族を養うには十分だ。まだ役職についはいないが、営業成績だって同期よりはいいし、少なくとも、上っ面だけ仕事が出来るフリをして、社長や専務に媚びへつらう上司や、無意味に時間をかけて残業をし、死んだ魚のような目をして帰路につくおっさん達よりは、満ち足りている。

幸せだと思う。誰もが羨む、絵に書いたような、幸せな人生だ。分かっている。だけど俺には、今みたいな時間が必要だった。

自分の携帯も、会社の携帯も、今は電源を切っている。この県には知り合いもいない。こうやって、コーヒーを飲んでいる間は、誰も俺に話しかけてこない。物思いに耽るには、最適な時間だ。

自分にこの時間が必要な理由は正直、分からなかった。
だけど行きたい場所なら、何となく分かっていた。

例えば、さざめく木々に囲まれて、風鈴のような虫の声に、どこかで微かに流れる湧水の音が聞こえる、澄んだ空気の山。

例えば、押し寄せては引き返す波の音と、カモメたちの鳴き声と、広い空のど真ん中で、まっすぐ照らしてくる太陽のある、潮風のベタつく海。

そんな、誰もいない所に、たぶん行きたかった。だけどそこに行くには、時間も金もない。週末は愛しい家族のために時間を使うことにしているし、高速道路の料金だって、馬鹿にはならないのだ。
だから俺は、会社の外回りは好きだ。誰にも邪魔されず、一人の時間を経費内で過ごすことが出来る。俺が出さなくてはいけないのは、このお供にするコーヒーのための、100円玉一枚だけだ。

スーツの内ポケットから、携帯を取り出す。電源を入れるが、複数来ていたSMSの通知は見ない。俺はミュージックアプリを起動し、インナーイヤホンを耳に突っ込む。サイドボタンで音量を上げれば、周りの客の話し声は、一気に遠いものになった。
タイトルに癒しBGM、と書かれたそれは、無料動画サイトで見つけた、海の音だ。
人の声はおろか、カモメの声も、太陽の光も、潮風もない、純粋な波の押しては引き返す音。目を閉じれば、俺はその前に立てた。俺の海はいつも、安いコーヒーの香りと一緒にある。

20分が経った。波の音が消えた。
元々これは睡眠導入用のBGMだ。20分の波の音しか、そもそも用意されていない。俺はいつも途切れたタイミングで海から帰ってくることにしていた。帰ってこざるを得ないのだ。

目を開けて、2cmほど紙カップに残っていたコーヒーは微温くなっていた。飲み干して、立ち上がり、ゴミ箱に捨てる。1000円のコーヒーの価値は分からないが、微温くなった最後より、最初の熱い一口目のほうが旨いよなと、冷めたあとにいつも思う。俺は店を後にして、お気に入りの社用車にキーを挿した。

渋谷のスクランブル交差点では、朝の4時過ぎ、20秒間だけ無人になるらしい。それ以外は常に誰かがいるということだ。都会の人間は、忙しい。
俺は100円で、小さなコーヒーと孤独を買う。絵に書いたような幸せを手に入れた俺は、忙しい人間だった。
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