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駅前のカラオケルームにて(十二)・祖母の入院
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…ええ、そうなんでしょうね。あの日はお昼を食べただけで、夕飯前に、しかもそれまで病気知らずだった人がいきなり発症して、救急車で知らない病院に運ばれて、飲まず食わずで、検査、また検査、でしたから。
でもね、伍代さん、その時私、祖母には餓鬼が取り憑いたのか、って思ったんです。
餓鬼…って、お分かりになりますか?餓えた鬼、って書きます。鬼、って言っても、この場合は、いわゆるオニって言うよりも、死者の霊、亡霊、…或いは亡者。そういったモノに近い存在です。
仏教の概念で、六道輪廻ってあるんです。…ああ、ご存じなんですね?
あの中のひとつに、餓鬼道ってあるの、ご存じですか?…そうですか。私も、仏教や宗教については、専門家ではないので、大雑把なご説明しかできませんし、もしかしたら間違っているかも知れませんけれど…。
とにかく、いつ如何なる時も飢えと渇きに苦しむ世界、なんだそうです。運良く食べ物や水を見つけても、手に取ろうとすると、たちまち燃え盛る火に変わってしまうんだそうです。なので、そこを彷徨う餓鬼は、ろくなものが食べられず、また、どんなに飲み食いしても、絶対に飢えや渇きは満たされないままなんだそうです。
だから、私はその時、…祖母はそういったモノに取り憑かれたのか、それとも…祖母自身が生きながら餓鬼道に堕ちたのか、…って思って、ぞっとしたんです。
一通り食べ終わった祖母は、急にうつらうつらし始めました。私が、お手洗い大丈夫?って訊いても、ただ首を横に振るばかりです。腹の皮が突っ張ると目の皮が弛む、って言いますけれど、正にそんな状態でした。…ええ、精神的にほっとしたのもあったんでしょう。
私が祖母の横で、自分の分のおにぎりをもそもそ頬張っていると、病院のスタッフさんかやって来て、「お祖母様はひとまず検査入院の措置を取ります」って仰いました。確かに、検査中にまた目を覚まして、あんな状態になった祖母に万一のことがあれば、大問題になるでしょう。
祖母は、そのまま車椅子で運ばれて行きました。私は病棟のナースステーションの前の、…何て呼ぶかは知りませんが、大きなテーブルが幾つか並んでいる、広場のようなスペースに案内されて、祖母の入院についての書類に記入するように言われました。
保証人として、別所帯に暮らす人間の名前が二人必要だと言われたので、正直抵抗はありましたけれど、母と、それから父にも、本当に久し振りに連絡を取りました。…ええ、何かあった時に備えて、一応二人の連絡先は、私の携帯電話に登録してあったんです。
幸いなことに、母とも、それに父とも、すぐに連絡が付きました。事情を説明した上で、看護師さんに、メモ用紙と筆記用具をお借りして、二人の現在の住所と、あと、仕事場の住所と電話番号も確認して書き留め、やっと電話を切った時には、随分と擦り切れたような気分になったのを覚えています。
全部の書類の記入と、内容の確認を終えて、やっとお役御免になった私に、看護師さんが「お祖母様の様態、見て行かれますか?」って訊いてきました。看護師さんに、そのまま個室の一室に案内してもらい、電灯を落とした部屋のベッドを覗き込むと、病院のパジャマを着て、腕に点滴の管を繋いだ祖母が、何だか泣き疲れた子供のような寝顔で眠っていました。
私は、酷く切ないような気持ちになって、そのまましばらく祖母の寝顔に見入っていましたけれど、看護師さんに促されて廊下に出ました。そのまま看護師さんに、祖母をどうぞよろしくお願いいたしますって頭を下げて、夜間通用口の場所を教えて頂いて、エレベーターに乗り込みました。
病棟の一階でエレベーターを降りたところで、私はふと気が付いて、祖母のお財布の中身を確認しました。お財布の中身は、千円札が二枚、それに僅かな小銭、それだけでした。
当然のことですけれど、外は完全に真っ暗になっていました。病院の夜間通用口を抜けて外に出て、どうやって帰ろうって思って、取り敢えずは家の最寄りのバス停までの経路を調べようとして、ダッフルコートのポケットからスマートフォンを取り出した時でした。病院の正面玄関前の車寄せにタクシーが一台停まって、ドアが開くのが私の目に入りました。
私は反射的に、スマートフォンを握り締めたまま駆け出して、降りて来るお客さんと入れ替わるようにタクシーに乗り込んで、運転手さんに、自宅まで帰りたいこと、手持ちが二千円しかないっていうことを、ほとんど捲し立てるように訴えました。
人の良さそうな運転手さんは、家の大体の場所を訊いた後で、「大丈夫です。そちらまでなら、二千円で充分お送りできると思います。もし不足するようなら、お家に着いた後でお支払い頂ければ結構ですから」って言ってくれました。私、何だか訳もなく胸が一杯になって、よろしくお願いしますって頭を下げました。
走り出したタクシーの中で、運転手さんに、すみません、私ちょっと携帯電話を使っても良いですか?って尋ねました。運転手さんの了解をもらって、私はLINEのアプリを開きました。
余所のお教室の事情は分かりませんけれど、うちの…祖母の教室では、連絡用として、LINEのグループ機能を使っていました。…ええ、私のアイデアです。祖母は最初「何だか味気ないねえ」って言っていましたけれど、そのうちに「なかなか便利なもんだねえ」って言うようになっていました。
私はそこに、祖母の具合が悪くなったこと、取り敢えず二週間ほどお休みを頂くことを、できるだけ簡潔で分かりやすい文章を考えながら打ち込みました。私の独断で、祖母には申し訳ないって思ったんですけれど、いざとなれば自分一人が怒られれば良い、って開き直ることにしました。
それから、そのグループのメンバーではないお弟子さん、…やっぱりご年配の方だと、スマートフォン自体持っておられない、っていう方もいらっしゃるんです。全体から見れば少数派ですけれど…。そういう方をアプリの電話帳からピックアップして、片っ端から連絡して、LINEに打ち込んだのと同じことをお伝えしました。
皆さん、まるで判で押したみたいに、揃って事情を知りたがられましたけれど、私は、申し訳ありません、夜遅いですし、次の方にご連絡しないといけませんから、って切り上げました。これはまんざら言い訳っていう訳でもなくて、スマートフォンの時計はもう午後八時をとっくに過ぎていましたから。
最後の方に連絡を終えて、やっと一息ついて、ずっと持って歩いていたビニール袋の中から、自分の分のお茶のペットボトルを取り出して、残りを一気に飲み干した時、車が見覚えのある路地に入ったのが分かりました。
でもね、伍代さん、その時私、祖母には餓鬼が取り憑いたのか、って思ったんです。
餓鬼…って、お分かりになりますか?餓えた鬼、って書きます。鬼、って言っても、この場合は、いわゆるオニって言うよりも、死者の霊、亡霊、…或いは亡者。そういったモノに近い存在です。
仏教の概念で、六道輪廻ってあるんです。…ああ、ご存じなんですね?
あの中のひとつに、餓鬼道ってあるの、ご存じですか?…そうですか。私も、仏教や宗教については、専門家ではないので、大雑把なご説明しかできませんし、もしかしたら間違っているかも知れませんけれど…。
とにかく、いつ如何なる時も飢えと渇きに苦しむ世界、なんだそうです。運良く食べ物や水を見つけても、手に取ろうとすると、たちまち燃え盛る火に変わってしまうんだそうです。なので、そこを彷徨う餓鬼は、ろくなものが食べられず、また、どんなに飲み食いしても、絶対に飢えや渇きは満たされないままなんだそうです。
だから、私はその時、…祖母はそういったモノに取り憑かれたのか、それとも…祖母自身が生きながら餓鬼道に堕ちたのか、…って思って、ぞっとしたんです。
一通り食べ終わった祖母は、急にうつらうつらし始めました。私が、お手洗い大丈夫?って訊いても、ただ首を横に振るばかりです。腹の皮が突っ張ると目の皮が弛む、って言いますけれど、正にそんな状態でした。…ええ、精神的にほっとしたのもあったんでしょう。
私が祖母の横で、自分の分のおにぎりをもそもそ頬張っていると、病院のスタッフさんかやって来て、「お祖母様はひとまず検査入院の措置を取ります」って仰いました。確かに、検査中にまた目を覚まして、あんな状態になった祖母に万一のことがあれば、大問題になるでしょう。
祖母は、そのまま車椅子で運ばれて行きました。私は病棟のナースステーションの前の、…何て呼ぶかは知りませんが、大きなテーブルが幾つか並んでいる、広場のようなスペースに案内されて、祖母の入院についての書類に記入するように言われました。
保証人として、別所帯に暮らす人間の名前が二人必要だと言われたので、正直抵抗はありましたけれど、母と、それから父にも、本当に久し振りに連絡を取りました。…ええ、何かあった時に備えて、一応二人の連絡先は、私の携帯電話に登録してあったんです。
幸いなことに、母とも、それに父とも、すぐに連絡が付きました。事情を説明した上で、看護師さんに、メモ用紙と筆記用具をお借りして、二人の現在の住所と、あと、仕事場の住所と電話番号も確認して書き留め、やっと電話を切った時には、随分と擦り切れたような気分になったのを覚えています。
全部の書類の記入と、内容の確認を終えて、やっとお役御免になった私に、看護師さんが「お祖母様の様態、見て行かれますか?」って訊いてきました。看護師さんに、そのまま個室の一室に案内してもらい、電灯を落とした部屋のベッドを覗き込むと、病院のパジャマを着て、腕に点滴の管を繋いだ祖母が、何だか泣き疲れた子供のような寝顔で眠っていました。
私は、酷く切ないような気持ちになって、そのまましばらく祖母の寝顔に見入っていましたけれど、看護師さんに促されて廊下に出ました。そのまま看護師さんに、祖母をどうぞよろしくお願いいたしますって頭を下げて、夜間通用口の場所を教えて頂いて、エレベーターに乗り込みました。
病棟の一階でエレベーターを降りたところで、私はふと気が付いて、祖母のお財布の中身を確認しました。お財布の中身は、千円札が二枚、それに僅かな小銭、それだけでした。
当然のことですけれど、外は完全に真っ暗になっていました。病院の夜間通用口を抜けて外に出て、どうやって帰ろうって思って、取り敢えずは家の最寄りのバス停までの経路を調べようとして、ダッフルコートのポケットからスマートフォンを取り出した時でした。病院の正面玄関前の車寄せにタクシーが一台停まって、ドアが開くのが私の目に入りました。
私は反射的に、スマートフォンを握り締めたまま駆け出して、降りて来るお客さんと入れ替わるようにタクシーに乗り込んで、運転手さんに、自宅まで帰りたいこと、手持ちが二千円しかないっていうことを、ほとんど捲し立てるように訴えました。
人の良さそうな運転手さんは、家の大体の場所を訊いた後で、「大丈夫です。そちらまでなら、二千円で充分お送りできると思います。もし不足するようなら、お家に着いた後でお支払い頂ければ結構ですから」って言ってくれました。私、何だか訳もなく胸が一杯になって、よろしくお願いしますって頭を下げました。
走り出したタクシーの中で、運転手さんに、すみません、私ちょっと携帯電話を使っても良いですか?って尋ねました。運転手さんの了解をもらって、私はLINEのアプリを開きました。
余所のお教室の事情は分かりませんけれど、うちの…祖母の教室では、連絡用として、LINEのグループ機能を使っていました。…ええ、私のアイデアです。祖母は最初「何だか味気ないねえ」って言っていましたけれど、そのうちに「なかなか便利なもんだねえ」って言うようになっていました。
私はそこに、祖母の具合が悪くなったこと、取り敢えず二週間ほどお休みを頂くことを、できるだけ簡潔で分かりやすい文章を考えながら打ち込みました。私の独断で、祖母には申し訳ないって思ったんですけれど、いざとなれば自分一人が怒られれば良い、って開き直ることにしました。
それから、そのグループのメンバーではないお弟子さん、…やっぱりご年配の方だと、スマートフォン自体持っておられない、っていう方もいらっしゃるんです。全体から見れば少数派ですけれど…。そういう方をアプリの電話帳からピックアップして、片っ端から連絡して、LINEに打ち込んだのと同じことをお伝えしました。
皆さん、まるで判で押したみたいに、揃って事情を知りたがられましたけれど、私は、申し訳ありません、夜遅いですし、次の方にご連絡しないといけませんから、って切り上げました。これはまんざら言い訳っていう訳でもなくて、スマートフォンの時計はもう午後八時をとっくに過ぎていましたから。
最後の方に連絡を終えて、やっと一息ついて、ずっと持って歩いていたビニール袋の中から、自分の分のお茶のペットボトルを取り出して、残りを一気に飲み干した時、車が見覚えのある路地に入ったのが分かりました。
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