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§01 芽を奪う桜果パフェ
君のメに絶叫ローズヒップ
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「きみに言った苗字、あれは本来のカウンセラーの名字で」
勝手にケトルのスイッチを入れて、男はベッドに腰かけた。簡素な響の部屋の中で一番の面積を誇る、青いツバメの柄の布団が音もなく沈む。
「美路道、影と名乗ってます。よろしく」
「ミロドウ……?」
「適当にトラックから取りました」
「トラック?」
「トラック」
住所だろうか。響にはどんな意味なのか予想がつかなかった。
「って……あのカウンセラー、やっぱりあんただったのか」
「はい。ちょっとの期間入れ替わってました。人間らしい雰囲気出せてました? 本物は先週カウンセリングを休んでましたよ」
「マジか……あとあんた、凄く胡散臭かった」
響は警戒しながら部屋の隅に立つ。ベッドからもケトルからも離れ窓が近くにある好位置だ。もっとも、その程度のことが有利に働くとは思えなかった。
「『人間らしい』、ね……」
「あ、沸きましたね。早い。素晴らしいですねこの機械。カップ使いますよ響くん」
「もう好きにしろ……」
「じゃあ遠慮なくここのローズヒップ? を。お洒落なもの持ってますね」
「……ハーブティー飲むのかよ」
「はい?」
「いや、あんた……てっきり、植物のバケモノかと……」
「『植物』ではないもので」
「っ……じゃあ、何なんだよ。俺、植物と同じようにあんたが怖いんだけど」
「『ショクブツ』です」
「しょく、ぶつ」
発声されただけで、それが「植物」ではないことが分かった。イントネーションを真似るように響が言うと、影は、
「正確に言えば、『ニンゲン』でもありますね」
「……」
「分かりやすく言えば……あ、文字」
言うと、影は机上から勝手にペンをとって壁掛けのカレンダーに近づいた。
「ちょっ」
響は思わず一歩近づく。そのときにはもう、月の半分のスペースが枠を無視して影の文字に埋められていた。
『蝕橆』
「うわ」
「どうです? イメージが掴めますか?」
「なんていうか……すごい厨二っぽい」
「私が決めた名前ではありません」
そして、残り半月も無事では済まなかった。
『稔眷』
「これが、あんた?」
「そうです。蝕橆の稔眷。動物の人間みたいなものですね」
「そのまんまだな」
「そのまんまです」
響はしばらくその字を眺めてみる。その間に、影はいそいそとティーバッグで茶を淹れていた。
「……この、『稔眷』? 『眷』って字さ、眷属の眷だよな」
「はい」
「何か意味あんの? あんた、何かバケモノの従者とか」
「いえ。『人間』だって謎な文字でしょう? 間と書くのに動物の頂点と自称する」
いつの間にか背後に迫ってきていた影が、響にもカップをひとつ押し付けながら言う。
「どちらかといえば私が主人です」
「うわ近、っていうか、俺、飲まな」
「飲んでください」
「はあ?」
「主人たる私には、君のようなスケープゴートが必要です、響くん」
響は壁と影の間をなんとかすり抜けるように離れた。
「スケープゴート……って、『生贄の羊』みたいな意味だよな」
「はい」
「生贄って……嫌な予感しかしないんだけど」
「その言い方が嫌なら、苗ど……眷属と言い換えても良いですよ」
「今苗床って言いかけなかったか?!」
押し付けられたカップの中身を恐る恐る見る。
「私は何も入れていませんよ」
「嘘だ」
声は淡々としていたが、響の身体は震えていた。薄手のカップが揺れて紅い液体が手にかかるが、熱いと感じる暇もない。
「だって、怖い」
一見、ただの紅茶だった。そうとしか見えなかったのに、遠ざけたくて仕方がなかった。覗きこめば自分の目が赤く映る。その中に小さく見える茶葉の欠片が、ひどく恐ろしい。響は弾かれたように走ると、流しに中身を捨てた。
「は、っ……」
「きみは面白いですね。付け加えておきましょう」
背後から影の声が聞こえる。
「私『は』何も入れていませんが、この中には確かに、入っていました。もともと、蝕橆が」
火傷した手の痛みが、今更やってくる。
「それともう一つ。人間の手の免疫? は薄いので、不用意に怪しい物に触れないことをお勧めします」
「何言って……」
画鋲で刺されたような痛みが、手に走る。
「……蝕橆に、寄生されたくなければ」
紅茶がかかった手の甲で、小さな水疱が弾けた。……ように、見えた。
「う」
響は右手首を左手で抑え込み、びくりと全身を震わせる。肌は火傷したように薄赤く染まっているばかりで、血も出ていない。しかし、何かがいるのを感じていた。
皮膚の奥、表皮を突き抜けて、奥の真皮にまで入り込もうとする複数の感覚が火傷痕を襲った。痛さよりも、同時に感じる耐え難いむず痒さと、何かが食い込むようなブチブチという絶え間ない音が響の感覚を支配する。
「う、そだ、ろ」
皮膚と筋肉の間に何かが蠢いている。ほんのり浮き出た手の甲の静脈をなぞるように、何かがその場所を上書きしていく。薔薇色の何かが、薄い皮膚を透かして見える。痛いはずなのに、奇妙な非現実感で何もできない。火傷痕のような丸い痕から、音もなく肉腫が膨らむ。
自分の身体が、何かに侵食される。それが何より怖いことを、響は初めて知る。
小さな肉の芽が、皮膚を食い破り、押しのけるようにして広がると、腕全体を裂かれるような痛みが一瞬に響を襲った。
「う……ぐ、ぎっ、っああああっ!」
部屋の壁が薄いのも忘れて、響は大声を上げる。
手の甲に、真っ赤な双葉が生えていた。
「……なんだ。きみ、凄く……良い声、出すじゃありませんか」
背後から声が聞こえた、気がした。
「が、あああああ、ぁ、う、やっ……め、」
「全く。きみどうして、今まで黙ってたんですか?」
腕が、バキバキと音を立てた。火傷をしたときのように肌が熱くなる。たまらず左手を離せば、手首をぬるりと何かが内側から撫ぜる。
「うっ……ふ……」
「面白い。実に面白いですよ」
骨を伝わって届く衝撃音と気持ち悪いむず痒さに響は全身を震わせた。
「おや、聞いて……か? ひび………………?」
影の言葉が、腕から響く音にかき消される。意識を向ける余裕など、あるわけが、ない。
「あん……た、な……にいって、ぅああ、っ…………ぐ!!」
耳の骨が砕けたのかと間違うような音と頭痛が、響の鼓膜を攫った。同時に、手首から腕へと、一番柔らかく感じやすい部分を指でゆっくりと何者かに撫で上げられた。
響はバランスを崩して尻餅をついた。
指は何本も響の腕を撫ぜる。甲から、掌から、何度も何度もしつこく、どこか扇情的に……。いや、実際には指で触れる女などはいない。それは、響の腕の中を這い伸びる、根の先が肉を侵す感触だった。
(なんでこんな、目に遭ってんのに、痛みじゃなくって……)
響は唇を噛みしめ、左手で右肩を押さえて恐怖と刺激に耐える。耐えようとする。
「……っ、…………う、」
唇から血が滲む。ガクガクと震える右肩が左手をあっさりと払い落とした。自分の身体なのに制御が利かない。限界を超える刺激に、何も考えられないまま、腕が張り巡らされた根の形に赤く染まっていく――
「気に入りませんね。私の言葉を無視とは」
そのとき、不機嫌そうな冷たい声がはっきりと、響の耳に届いた。
「え」
パンク寸前だった脳が、一瞬で現実に引き戻される。
美路道影が、片膝をついて目の前で、響の右手をとっていた。
「今度は聞こえますね? 響くん」
顔をあげた響は、初めてすぐ間近で影の顔を見る。すらりとした輪郭、切り揃えられた細くしなやかな黒髪、青白い額、細い眉、尖った鼻、何を考えているのか端が吊り上がった大きな口が、響を見返す。
「あ、ああ……」
不思議と痛みも奇妙な音も恐ろしい感覚も、感じない。
「それでいい。では響くん」
影は、顔を前に向けたまま、響の右手の双葉――もうもうだいぶ成長して葉の数が増え始めているソレを、咥える。仕草だけは、姫君に傅いて手の甲にキスを落とす王子のようだった。
「私のメを見てください」
響は、ようやく気付く。輪郭、髪、額、眉、鼻、口。こんなにすぐ近くにあるのに、影の目を、見ていなかったことに。
「!」
今、初めて見たことに。
多くの人同様、賢木響は人の目を見て話すのに慣れているタイプではない。机上の花瓶に目を落とすくらいなら顔を見るが、それにしても無遠慮に目を見つめたいとは感じない。相手だってそんなことをされたら気まずいだろう。
人はだいたい、話すときには焦点を鼻や口にずらしている。だからきちんと向かい合おうと思ったとき、なんとも言えない気まずさや恥ずかしさを覚えるのだ。
今、二十センチもない距離で影の目を見た響は……首を後ろに、思い切り傾けた。
そして前に額を振り下ろした。
「わっ」
目の前に小さく星が散る。響の頭突きは確かに影の額に命中し、影は予想外に可愛い声を上げる。
「何するんですか、響くん」
「それはこっちのセリフだ」
本気で当てたにも関わらず、影は血の気のない額を晒したまま、先ほどと一ミリも変わらない位置で微笑んでいる。口に赤い茎を咥えながらどうやって話しているのか、間近で見てもさっぱり分からない。
「あんた、その目……いや、目、なのか? ソレで、何をしようとした」
「ふふ。きみ本当に敏感なんですねぇ。でも私は、面倒が嫌いです」
影は笑顔のまま、空いた手で響の後頭部を押さえる。
「離せ」
「『話せ』? 別に『何をするのか』なんて聞く必要はないと思いませんか。ねえ響くん? これからすぐ体験するのに」
「だから、離せ」
「もう離しても変わりませんよ。ほら」
影は手を離す。響は、影から離れようとして……
「は? ……何で、動かないんだよ」
影の目を見つめたまま、顔を動かせずにいた。顔だけではない。首をひねることも、身じろぎすることも、瞼を閉じることもできなかった。
「良いですね。こういうときでも質問できるだけの余裕があるというのは」
「いや、こう見えてもパニックなんだけど。あんなもの見せられて、体は動かないし。あんた、何した」
「『メを見て』と言ったでしょう? きみは見てくれた。それだけのことです」
「『メ』……ああそうかよ、メって……」
「芽、です。言ったでしょう? 俺の『芽』を、ちゃんと見て」
そして影は、無抵抗な響の瞳に、自分の目を、押し当てた。
もとい、芽を。
「ああぁああああああぁぁぁああああああああああああっっ!!!!」
勝手にケトルのスイッチを入れて、男はベッドに腰かけた。簡素な響の部屋の中で一番の面積を誇る、青いツバメの柄の布団が音もなく沈む。
「美路道、影と名乗ってます。よろしく」
「ミロドウ……?」
「適当にトラックから取りました」
「トラック?」
「トラック」
住所だろうか。響にはどんな意味なのか予想がつかなかった。
「って……あのカウンセラー、やっぱりあんただったのか」
「はい。ちょっとの期間入れ替わってました。人間らしい雰囲気出せてました? 本物は先週カウンセリングを休んでましたよ」
「マジか……あとあんた、凄く胡散臭かった」
響は警戒しながら部屋の隅に立つ。ベッドからもケトルからも離れ窓が近くにある好位置だ。もっとも、その程度のことが有利に働くとは思えなかった。
「『人間らしい』、ね……」
「あ、沸きましたね。早い。素晴らしいですねこの機械。カップ使いますよ響くん」
「もう好きにしろ……」
「じゃあ遠慮なくここのローズヒップ? を。お洒落なもの持ってますね」
「……ハーブティー飲むのかよ」
「はい?」
「いや、あんた……てっきり、植物のバケモノかと……」
「『植物』ではないもので」
「っ……じゃあ、何なんだよ。俺、植物と同じようにあんたが怖いんだけど」
「『ショクブツ』です」
「しょく、ぶつ」
発声されただけで、それが「植物」ではないことが分かった。イントネーションを真似るように響が言うと、影は、
「正確に言えば、『ニンゲン』でもありますね」
「……」
「分かりやすく言えば……あ、文字」
言うと、影は机上から勝手にペンをとって壁掛けのカレンダーに近づいた。
「ちょっ」
響は思わず一歩近づく。そのときにはもう、月の半分のスペースが枠を無視して影の文字に埋められていた。
『蝕橆』
「うわ」
「どうです? イメージが掴めますか?」
「なんていうか……すごい厨二っぽい」
「私が決めた名前ではありません」
そして、残り半月も無事では済まなかった。
『稔眷』
「これが、あんた?」
「そうです。蝕橆の稔眷。動物の人間みたいなものですね」
「そのまんまだな」
「そのまんまです」
響はしばらくその字を眺めてみる。その間に、影はいそいそとティーバッグで茶を淹れていた。
「……この、『稔眷』? 『眷』って字さ、眷属の眷だよな」
「はい」
「何か意味あんの? あんた、何かバケモノの従者とか」
「いえ。『人間』だって謎な文字でしょう? 間と書くのに動物の頂点と自称する」
いつの間にか背後に迫ってきていた影が、響にもカップをひとつ押し付けながら言う。
「どちらかといえば私が主人です」
「うわ近、っていうか、俺、飲まな」
「飲んでください」
「はあ?」
「主人たる私には、君のようなスケープゴートが必要です、響くん」
響は壁と影の間をなんとかすり抜けるように離れた。
「スケープゴート……って、『生贄の羊』みたいな意味だよな」
「はい」
「生贄って……嫌な予感しかしないんだけど」
「その言い方が嫌なら、苗ど……眷属と言い換えても良いですよ」
「今苗床って言いかけなかったか?!」
押し付けられたカップの中身を恐る恐る見る。
「私は何も入れていませんよ」
「嘘だ」
声は淡々としていたが、響の身体は震えていた。薄手のカップが揺れて紅い液体が手にかかるが、熱いと感じる暇もない。
「だって、怖い」
一見、ただの紅茶だった。そうとしか見えなかったのに、遠ざけたくて仕方がなかった。覗きこめば自分の目が赤く映る。その中に小さく見える茶葉の欠片が、ひどく恐ろしい。響は弾かれたように走ると、流しに中身を捨てた。
「は、っ……」
「きみは面白いですね。付け加えておきましょう」
背後から影の声が聞こえる。
「私『は』何も入れていませんが、この中には確かに、入っていました。もともと、蝕橆が」
火傷した手の痛みが、今更やってくる。
「それともう一つ。人間の手の免疫? は薄いので、不用意に怪しい物に触れないことをお勧めします」
「何言って……」
画鋲で刺されたような痛みが、手に走る。
「……蝕橆に、寄生されたくなければ」
紅茶がかかった手の甲で、小さな水疱が弾けた。……ように、見えた。
「う」
響は右手首を左手で抑え込み、びくりと全身を震わせる。肌は火傷したように薄赤く染まっているばかりで、血も出ていない。しかし、何かがいるのを感じていた。
皮膚の奥、表皮を突き抜けて、奥の真皮にまで入り込もうとする複数の感覚が火傷痕を襲った。痛さよりも、同時に感じる耐え難いむず痒さと、何かが食い込むようなブチブチという絶え間ない音が響の感覚を支配する。
「う、そだ、ろ」
皮膚と筋肉の間に何かが蠢いている。ほんのり浮き出た手の甲の静脈をなぞるように、何かがその場所を上書きしていく。薔薇色の何かが、薄い皮膚を透かして見える。痛いはずなのに、奇妙な非現実感で何もできない。火傷痕のような丸い痕から、音もなく肉腫が膨らむ。
自分の身体が、何かに侵食される。それが何より怖いことを、響は初めて知る。
小さな肉の芽が、皮膚を食い破り、押しのけるようにして広がると、腕全体を裂かれるような痛みが一瞬に響を襲った。
「う……ぐ、ぎっ、っああああっ!」
部屋の壁が薄いのも忘れて、響は大声を上げる。
手の甲に、真っ赤な双葉が生えていた。
「……なんだ。きみ、凄く……良い声、出すじゃありませんか」
背後から声が聞こえた、気がした。
「が、あああああ、ぁ、う、やっ……め、」
「全く。きみどうして、今まで黙ってたんですか?」
腕が、バキバキと音を立てた。火傷をしたときのように肌が熱くなる。たまらず左手を離せば、手首をぬるりと何かが内側から撫ぜる。
「うっ……ふ……」
「面白い。実に面白いですよ」
骨を伝わって届く衝撃音と気持ち悪いむず痒さに響は全身を震わせた。
「おや、聞いて……か? ひび………………?」
影の言葉が、腕から響く音にかき消される。意識を向ける余裕など、あるわけが、ない。
「あん……た、な……にいって、ぅああ、っ…………ぐ!!」
耳の骨が砕けたのかと間違うような音と頭痛が、響の鼓膜を攫った。同時に、手首から腕へと、一番柔らかく感じやすい部分を指でゆっくりと何者かに撫で上げられた。
響はバランスを崩して尻餅をついた。
指は何本も響の腕を撫ぜる。甲から、掌から、何度も何度もしつこく、どこか扇情的に……。いや、実際には指で触れる女などはいない。それは、響の腕の中を這い伸びる、根の先が肉を侵す感触だった。
(なんでこんな、目に遭ってんのに、痛みじゃなくって……)
響は唇を噛みしめ、左手で右肩を押さえて恐怖と刺激に耐える。耐えようとする。
「……っ、…………う、」
唇から血が滲む。ガクガクと震える右肩が左手をあっさりと払い落とした。自分の身体なのに制御が利かない。限界を超える刺激に、何も考えられないまま、腕が張り巡らされた根の形に赤く染まっていく――
「気に入りませんね。私の言葉を無視とは」
そのとき、不機嫌そうな冷たい声がはっきりと、響の耳に届いた。
「え」
パンク寸前だった脳が、一瞬で現実に引き戻される。
美路道影が、片膝をついて目の前で、響の右手をとっていた。
「今度は聞こえますね? 響くん」
顔をあげた響は、初めてすぐ間近で影の顔を見る。すらりとした輪郭、切り揃えられた細くしなやかな黒髪、青白い額、細い眉、尖った鼻、何を考えているのか端が吊り上がった大きな口が、響を見返す。
「あ、ああ……」
不思議と痛みも奇妙な音も恐ろしい感覚も、感じない。
「それでいい。では響くん」
影は、顔を前に向けたまま、響の右手の双葉――もうもうだいぶ成長して葉の数が増え始めているソレを、咥える。仕草だけは、姫君に傅いて手の甲にキスを落とす王子のようだった。
「私のメを見てください」
響は、ようやく気付く。輪郭、髪、額、眉、鼻、口。こんなにすぐ近くにあるのに、影の目を、見ていなかったことに。
「!」
今、初めて見たことに。
多くの人同様、賢木響は人の目を見て話すのに慣れているタイプではない。机上の花瓶に目を落とすくらいなら顔を見るが、それにしても無遠慮に目を見つめたいとは感じない。相手だってそんなことをされたら気まずいだろう。
人はだいたい、話すときには焦点を鼻や口にずらしている。だからきちんと向かい合おうと思ったとき、なんとも言えない気まずさや恥ずかしさを覚えるのだ。
今、二十センチもない距離で影の目を見た響は……首を後ろに、思い切り傾けた。
そして前に額を振り下ろした。
「わっ」
目の前に小さく星が散る。響の頭突きは確かに影の額に命中し、影は予想外に可愛い声を上げる。
「何するんですか、響くん」
「それはこっちのセリフだ」
本気で当てたにも関わらず、影は血の気のない額を晒したまま、先ほどと一ミリも変わらない位置で微笑んでいる。口に赤い茎を咥えながらどうやって話しているのか、間近で見てもさっぱり分からない。
「あんた、その目……いや、目、なのか? ソレで、何をしようとした」
「ふふ。きみ本当に敏感なんですねぇ。でも私は、面倒が嫌いです」
影は笑顔のまま、空いた手で響の後頭部を押さえる。
「離せ」
「『話せ』? 別に『何をするのか』なんて聞く必要はないと思いませんか。ねえ響くん? これからすぐ体験するのに」
「だから、離せ」
「もう離しても変わりませんよ。ほら」
影は手を離す。響は、影から離れようとして……
「は? ……何で、動かないんだよ」
影の目を見つめたまま、顔を動かせずにいた。顔だけではない。首をひねることも、身じろぎすることも、瞼を閉じることもできなかった。
「良いですね。こういうときでも質問できるだけの余裕があるというのは」
「いや、こう見えてもパニックなんだけど。あんなもの見せられて、体は動かないし。あんた、何した」
「『メを見て』と言ったでしょう? きみは見てくれた。それだけのことです」
「『メ』……ああそうかよ、メって……」
「芽、です。言ったでしょう? 俺の『芽』を、ちゃんと見て」
そして影は、無抵抗な響の瞳に、自分の目を、押し当てた。
もとい、芽を。
「ああぁああああああぁぁぁああああああああああああっっ!!!!」
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