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9話 偽りの恋人に助けられました_③
しおりを挟むこちらの様子を窺う人々が先ほどよりも多くなっている。開演時間もあるので全員が立ち止まっているわけではないし、大半は王都に住む市民のようであったが、中には見覚えのある貴族家の顔もある。これ以上の長居は、誰にとっても利がない。
「ここで急に離れると不自然だな。……仕方がない、ついてきてくれ」
「か、かしこまりました」
ブルーノが演技の続行を提案するので、イリスもその判断に従うと決める。彼のエスコートに導かれて人の少ない通路を進むと、ホワイエの階段を上っていく。
「すまない。イリスが一人で対処できるならと見守るつもりだったが、さすがに腹に据えかねた」
「い、いえ……! とても助かりました。ありがとうございます」
どうやらブルーノは、声をかけてくる少し前からイリスたちの様子を観察していたらしい。もちろん見つけてすぐに救援することも考えたが、人目のある場所だったことや顔見知り同士だったらしいことを考慮して、判断は慎重になった。だがミハエルとエリックがイリスにひどい言葉ばかり投げつけるので、これ以上は見ていられないと感じて助け舟を出してくれたらしい。
あのまま二人の圧に押されていたら、イリスにはさらなる不名誉な噂が立っていたかもしれなかった。ブルーノの救援に、ただただ感謝する。
「ブルーノさまは、観劇のためにこちらに?」
「俺は、母の付き添いなんだ」
周囲の耳と視線を気にしつつそろりと訊ねると、ブルーノが苦笑い気味に呟いた。
「本当は親しいご夫人と一緒の予定だったが、家族が熱を出したとかで、取り止めの連絡が来たらしい。そこで大人しく諦めればいいものの、チケットがもったいないからと言って、代わりに俺が呼び出された」
「えっ……?」
呆れたように肩を竦めるブルーノだが、イリスはまたも驚いてしまう。
(ですがブルーノさまは、今夜もとてもお忙しかったはず……)
週に数回ブルーノの仕事を手伝い、さらに招待状や手紙の返事といったスケジュールが関係する依頼を請け負っていることもあって、最近のイリスは彼の予定を把握できるほどになっていた。
そのイリスの記憶が定かであれば、ブルーノは今日も書類に会議に王女からの呼び出しにと、大忙しだったはず。一日に数時間筆記作業をするだけのイリスと違い、多忙なブルーノに観劇を楽しむ余裕などなかったはずなのに。
(ブルーノさまでも、お母さまのお願いは断れないのですね……)
堅物宰相と噂のブルーノでも、仮にどんなに忙しい状況にあっても、母の求めには応じなければならないらしい。
心の中でそっとブルーノを労っていると、歌劇場の三階へ上がり、長い通路を進んでいた彼が、ふと足を止めてこちらへくるりと振り返った。つられるように足を止めて顔をあげたイリスは――その場でぴしっと固まってしまう。
「こ、ここ……ここって! 特別個室じゃないでしょうか!?」
「ああ、そうらしいな」
目の前のダークブラウンの扉には、文字が書かれていない金色のプレートが埋め込まれている。今は控え人が手で押さえてくれているが、普段はテラコッタ色の暗幕が下げられ、入り口が完全に覆われているという。
それが最上級の特別個室の証だと、父がフロイド歌劇場のオーナーであるユリアに聞いたことがある。娘の彼女ですらこの特別な部屋にはほんの数回しか足を踏み入れたことがないらしく、当然、イリスは一度も立ち入ったことがない。
本日何度目になるのかわからない驚き声をあげると、ふ、と表情を緩めたブルーノがイリスに手を差し出してきた。黒いグローブを着けたブルーノが、イリスを優しく誘い出す。
「おいで、イリス」
最上級の特別個室へ招かれ、ほんの少しだけ躊躇する。自分なんかが足を踏み入れてはいけないと感じてしまう。
けれど視線を上げてブルーノと見つめ合うと、この誘いを拒否することはできないと直感する。どきどきと緊張しているのに、恐れ多いと思っているはずなのに、引き寄せられるように彼のグローブの上に指を乗せてしまう。
その指先をぎゅっと握りしめられるだけで安心する。くい、と手を引かれて腰を抱かれると、イリスの心臓が急に速さを増した気がした。
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