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第5話 【多殺】
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俺がその日記を見つけたのは、今日の午前九時ーー今から十分ほど前のことだ。
その日記はびしょびしょに濡れていた。そりゃそうだ。日記は風呂の蓋の裏という、紙類がおよそあるべきではない場所にがっつりとガムテープで留められていたのだから。
見覚えがある薄い百均のノート。何度も見たことがある、兄の日記だった。
ずっしりと水分を含んだそれは、今、俺の手の中にある。その重さは風呂の湿気のせいなのか、それとも俺の心情ゆえなのか、中身を読んでしまった今となってはわからない。
嫌な予感はしていたんだ。
朝飯の時つけてたニュースの星座占いが最下位だったからじゃない。母さんが俺の茶碗を割ったからでもない。父さんが間違えて俺の靴を履いて仕事へ行ってしまったからでも。
兄が。
あの兄が俺に声をかけたんだ。
『……今日大学あるのか』
一瞬答えに詰まった。やましい考えがあったわけじゃない。ただ単純に、どこからかけられた声かがわからなかったからだった。目の前にいた兄から発せられたと気付いたのはその質問に対する答えが三回くらい返せそうな沈黙の後だった。それが兄の声だわかってなお俺は返事を返せなかった。黙って首だけを縦に振った。兄はそんな俺の反応に何の感情も浮かんでいないような暗い目を向けて
『そうか』とだけ言ってリビングを出て行った。会話は、会話と言っていいのかわからないコミュニケーションはそれで終わった。俺が兄の声を聞いたのは、四年ぶりのことだった。
兄は今日、俺が大学に行くことを知っている。そしていつもその前にシャワーを浴びることも。そのついでに母親に言いつけられている日課の風呂掃除をすることも。いくら何年も顔を合わせていなくとも、同じ家に暮らしているのだ。この小さな一軒家に母親のキンキン声は良く響く。
だからこれは兄の意思だ。
兄はこれを俺に見つけて欲しかった。
ぺラリとページをめくる。所々にじんだ文字は、それでもちゃんと読めてしまう。学生時代のいじめ。それから始まった引きこもり生活。それに対する葛藤と苛立ち。渇望。社会への恐怖。そんな言い訳がましい言葉の羅列のあと、しばらくの空白。
それから、一言。
【今日 ぼくは 人を殺します】
それから先に兄の言葉はない。
ただ何かを書き写したのか、それとも誰かに言われたことをメモしたのか、殴り書きのような汚い文字が並んでいた。よくわからない英語と記号、今日の日付、場所、それから。
「バクダン、かあ……」
日記を閉じる。
俺はきっと兄を止めるべきなのだろう。多分兄もそれを望んでいたからこそこんな見つけやすい場所にこの日記を残したのだろう。まるで俺に託すように。意気地のない兄のやりそうなことだ。場所も時間も方法も、全てこの日記の中にある、止めるのは簡単だ。この情報を警察に流すだけでいい。イチイチゼロ。そしてこの日記を読み上げるだけでいい。
だけど。
「……」
俺はそのノートを、そっと浴槽に落とした。昨日の湯が入ったままの、薄らと緑色の水の底へ、ゆっくりと沈んでいく。自然と開いたノートのページから水溶性のインクが溶け出していくのを、俺はじっと見つめていた。
俺の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
溶け出したインクで紫色に染まったノートをゴミ箱に捨てて、俺は浴室を出た。
「あれ? まだいたの」
今起きてきたのだろう、リビングに入ってきた母さんが少し驚いた顔をする。
珍しくニュースを見ている俺に首を傾げながら、母さんはいつものように浴室へ向かった。
「母さん、今日体調悪いから大学休むね」
「そう。お風呂入った?」
「ううんーーー入ってない」
兄の書いた時間まで、あと、一時間。
その日記はびしょびしょに濡れていた。そりゃそうだ。日記は風呂の蓋の裏という、紙類がおよそあるべきではない場所にがっつりとガムテープで留められていたのだから。
見覚えがある薄い百均のノート。何度も見たことがある、兄の日記だった。
ずっしりと水分を含んだそれは、今、俺の手の中にある。その重さは風呂の湿気のせいなのか、それとも俺の心情ゆえなのか、中身を読んでしまった今となってはわからない。
嫌な予感はしていたんだ。
朝飯の時つけてたニュースの星座占いが最下位だったからじゃない。母さんが俺の茶碗を割ったからでもない。父さんが間違えて俺の靴を履いて仕事へ行ってしまったからでも。
兄が。
あの兄が俺に声をかけたんだ。
『……今日大学あるのか』
一瞬答えに詰まった。やましい考えがあったわけじゃない。ただ単純に、どこからかけられた声かがわからなかったからだった。目の前にいた兄から発せられたと気付いたのはその質問に対する答えが三回くらい返せそうな沈黙の後だった。それが兄の声だわかってなお俺は返事を返せなかった。黙って首だけを縦に振った。兄はそんな俺の反応に何の感情も浮かんでいないような暗い目を向けて
『そうか』とだけ言ってリビングを出て行った。会話は、会話と言っていいのかわからないコミュニケーションはそれで終わった。俺が兄の声を聞いたのは、四年ぶりのことだった。
兄は今日、俺が大学に行くことを知っている。そしていつもその前にシャワーを浴びることも。そのついでに母親に言いつけられている日課の風呂掃除をすることも。いくら何年も顔を合わせていなくとも、同じ家に暮らしているのだ。この小さな一軒家に母親のキンキン声は良く響く。
だからこれは兄の意思だ。
兄はこれを俺に見つけて欲しかった。
ぺラリとページをめくる。所々にじんだ文字は、それでもちゃんと読めてしまう。学生時代のいじめ。それから始まった引きこもり生活。それに対する葛藤と苛立ち。渇望。社会への恐怖。そんな言い訳がましい言葉の羅列のあと、しばらくの空白。
それから、一言。
【今日 ぼくは 人を殺します】
それから先に兄の言葉はない。
ただ何かを書き写したのか、それとも誰かに言われたことをメモしたのか、殴り書きのような汚い文字が並んでいた。よくわからない英語と記号、今日の日付、場所、それから。
「バクダン、かあ……」
日記を閉じる。
俺はきっと兄を止めるべきなのだろう。多分兄もそれを望んでいたからこそこんな見つけやすい場所にこの日記を残したのだろう。まるで俺に託すように。意気地のない兄のやりそうなことだ。場所も時間も方法も、全てこの日記の中にある、止めるのは簡単だ。この情報を警察に流すだけでいい。イチイチゼロ。そしてこの日記を読み上げるだけでいい。
だけど。
「……」
俺はそのノートを、そっと浴槽に落とした。昨日の湯が入ったままの、薄らと緑色の水の底へ、ゆっくりと沈んでいく。自然と開いたノートのページから水溶性のインクが溶け出していくのを、俺はじっと見つめていた。
俺の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
溶け出したインクで紫色に染まったノートをゴミ箱に捨てて、俺は浴室を出た。
「あれ? まだいたの」
今起きてきたのだろう、リビングに入ってきた母さんが少し驚いた顔をする。
珍しくニュースを見ている俺に首を傾げながら、母さんはいつものように浴室へ向かった。
「母さん、今日体調悪いから大学休むね」
「そう。お風呂入った?」
「ううんーーー入ってない」
兄の書いた時間まで、あと、一時間。
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コメントありがとうございます。
まさかコメント貰えるとは思わず二度見してしまいました。
お褒めいただきありがとうございます。
この小説はかなり昔に書いたものなので少しブランクがありますが、
この小説の続き、そしてこれがアップし終わったら、久々に新しいものを書くつもりですので、
そちらもぜひ宜しくお願いいたします。
私自身、小説の書き方などは学ぶものではなく、自分の良いと思ったものを取り込み、真似ながら上手くなっていくものだと思っておりますので、稚拙ながら、少しでも僕さんのイマジネーションに繋がれば嬉しいです。
この度はご拝読いただきありがとうございました。