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雪乃の章 ツイン・バース(其の五)

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 京都・松永流――

稽古場ではいつものように旗旺彦が雪乃の指導に当たっている。

「雪乃。そこはもう少し軽やかに」
「はい」
(ホンマに雪乃は飲み込みが早いわ。家元になってからは益々舞に磨きが掛っとる。先が楽しみな娘や・・・)

父として師として、雪乃の成長を喜ぶ旗旺彦。

「今日は、この位でええやろ」
「有難う御座いました」
例え、父娘と云えども芸事の世界では師匠と弟子の関係が崩れる事は無い。

ガラガラガラッ

稽古場の扉が開かれ、ヨシが顔を出す。

「お疲れさんどす。旗旺彦様、雪乃お嬢はん。お茶が入りましたえ」

ヨシの顔を見た、雪乃の顔に年相応の笑顔が戻った。



 松永家では、代々【道】の名の付くモノ・・・、弓道・茶道・華道・香道などを嗜む事がしきたりとなっている。
その中でも、雪乃が最も好んでいたのが弓道である。
京舞踊の稽古の合間を縫っては、ほぼ毎日、近くの弓道場に足を運んでいた。



 ビュッ! シュッ! トンッ!
弓を引き的に命中する音だけが静寂の中に聞こえる。
ここは、沖弓道場。
雪乃は幼少の頃より、ここの師範『沖景次』直々ら手解きを受けている。

 静かに弓を引く雪乃の凛とした姿をじっと見つめる視線が2つあった。
師範の沖と、峰流馬である。

「見事な射ですやろ」
沖が饒舌に語り出した。

「あの娘、あの若さで京舞踊二代目家元ですのや。弓もなかなか・・・、儂の自慢の弟子や」
「・・・」
喋りすぎたと思ったのであろうか、沖が慌ててその場を取り繕いに入る。

「な、なぁに、峰はんも筋が宜しい。直ぐに上達しはります。さ、練習を始めまひょ」
沖の言葉の終わらぬうちに流馬が口を開いた。

「面白い・・・」
そう言うと、流馬は雪乃に向けて歩を進める。

「み、峰はん・・・?」
沖はただ呆然と流馬を見ている。


「随分と調子が良さそうだな」
不意に背後から、声を掛けられた雪乃が振り返る。

「どうだ? 私と勝負しないか?」
(なんや、このおっさん!)
怪訝な表情をした雪乃が流馬を睨みつける。

「どうした、自信が無いのか?」
「うちに勝負挑むとはええ度胸や! 思い知らせたるわっ!」
雪乃の突っかかるような視線を向けられた流馬がニヤリと笑った。

(負けん気の強さ・・・。やはり、乙十葉にどことなく似ているか・・・)

「ええでしょ。その勝負とやら、お受けしまひょ。・・・で、うちが勝ったらどうしてくれはるんえ?」
「何でも望みのモノを与えよう。だが、私が勝ったら・・・」
「・・・」
「そうだな・・・。少し付き合って貰おうか・・・」
有無を言わせない底知れぬ威圧感が漂う。

(えらい自信やけど・・・。おっさんのその鼻、へし折ったるわっ!)
雪乃のスイッチが入ってしまったと見た沖が、慌てて2人の間に入る。

「峰はん! この雪乃は的を外した事がおへん。悪い事は言わん、止めときなはれ!」
だが、流馬は不敵な笑みを浮かべたままである。

「雪乃も雪乃や。素人はん相手に何をムキになってるんや・・・」
沖の言葉を遮るように雪乃は流馬をしっかと見据えたまま話し出す。

「沖先生、これは真剣勝負や・・・。口は出さんといておくれやす」
これ程迄、熱くなった雪乃は見た事が無いと師匠である沖でさえ止められない事を感じていた。

(雪乃・・・。峰はん・・・)
こうなってしまうと、最早成り行きを見守るしかないと沖も口を噤む。



「ルールは簡単や。互い一射ずつ、3本で勝負。的を外したらその場で負け、ええなっ!」
「良かろう」
雪乃を見る流馬の目がキラリと光った。



 雲一つない晴天、無風でもあり絶好の日和である。
沢山の弟子達が見つめる中、雪乃の流馬の試合が火蓋を切った。

 横に並び、ほぼ同時に矢を放つ。
互いに1本目・2本目を的の中心に命中させ、勝負は最後の1本に賭けられていた。

(ふうん、この峰とか言う男・・・。なかなか侮れんわ。でも、うちが勝つ!)

雪乃が引き絞った弓の弦から指を離し、ほぼ同時に流馬も矢を放つ。

ビュッ! シュッ!

放たれた矢は一直線に的へと向かって飛んだ・・・

(えっ!)

だが、急に一陣の風が吹き抜ける。

(まさかっ!?)

雪乃の放った矢は、的に届く事なく手前で落下した。

(そんな・・・)
ガックリと膝を折る雪乃。
信じられないと言う表情である。

かたや、流馬の放った矢は同じ様に風を受けながらも真っ直ぐに的を射抜いていた。


「うちの完敗や」
手を叩きながら、雪乃がゆっくりと流馬の元へと歩を進める。

「貴方はんのお名前、伺っても宜しおすか?」

流馬はゆっくりと雪乃へと向き直る。

「峰流馬・・・。では、約束通り暫く付き合って貰おうか」
口元にうっすらと笑みを浮かべる流馬に黙って頷く雪乃。

(うちを始めて負かした男はん・・・。峰・・・、流馬・・・)

20以上も年齢差のある男性に自分はきっと恋焦がれてしまうのかも知れない・・・
そんな予感が雪乃の中に芽生え始めていた。

また、流馬も・・・
(この私が・・・、こんな小娘に惚れるとはな・・・)
あの世の乙十葉が自分と雪乃を引き合わせたのかと、1人嘲笑する流馬。
自分が雪乃の中に乙十葉を重ねていたが、今は雪乃本人を見ている事に気が付いたのである。


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