自殺写真家

中釡 あゆむ

文字の大きさ
上 下
19 / 55
第三章

しおりを挟む
「こんばんは」 


 人影は答えない。菊の横を通り抜け、切り株を背に座った。菊は慌てて駆け、横に腰掛けた。 


「ごめんね、私がこの上に立ったから……」 


 切り株をぽんぽんと叩いてみせ、謝ってみたが影は何も言わなかった。何も言わないし、菊のことを見ようともしない。 
 なのに暗闇であることは、菊を大胆にさせた。身体が溶け、心まで暗闇に馴染み、一体化した二人の魂が寄り添っている。 


「あのね……私、人を殺してしまったの。……人が死んでしまうきっかけになってしまった、と言った方が正しいかもしれない」 


 影は相変わらず口を真一文字に結んでいる。菊は、人影というよりは世界に読み聞かせるように穏やかな表情で語った。 


「だから、私は生まれてこなかったらよかったのかもしれないとさえ思えたの。そうしたら命を奪うことはなかった。神様でも何でもない、私が……」 


 安心のせいでぽろぽろと言葉が出た。気付いたら今日何度目かの涙を流していて、溶けた心が暗闇で波打つ。人影は、ゆっくりと口を開いた。 


「あなたが殺さなくても人は死ぬよ。神でも何でもない、人為的なものによって、不条理に、あるいは自然にね。それが道理だ」 


 菊は目を丸くさせ、人影を見つめていた。人影は変わらず菊を見ようとしない。 
 ひとり言のように呟かれたその言葉は、ようやく菊の心に浸透する。肯定も否定もされていないのに、力強い言葉は何よりも答えで、真理だった。 


 人影は立ち上がり、踵を返す。菊は慌てて後を追いかけようとしたがそれを制された。 


「いいよ、もう少しそのままでいたらいい」 


「でも……君はここへ……」 


「いい。こんなところにいたら危ないしね」 


 初めて人影が笑った気配がし、菊も釣られて笑う。人影が歩いていく後ろ姿を見つめた。あの影は聞いていないようで聞いてくれているのだ。 


 それは、初めて会ったときもどうやら同じようだ。どこの誰よりも優しい温もりを感じる。菊は座り直し、星空を見上げた。 
 夜空は地球の輪郭をなぞってドーム型に世界を覆う。細かく散りばめられた星がきらきらと煌めいて、それはさながら鼓動に似ていた。菊は目を瞑り、音にならない鼓動を聞いた。 


 翌日、菊は朝早く飛び起きてカーテンを力いっぱい横に引いた。陽光が熱を持って窓を突き抜ける。目を細め、布団を畳んで一階に降りた。 
 母はまだ眠っているようだ。食パンを焼いてバターを塗って、間に沸かした湯をカップに注いでトマトスープの粉末を溶かして椅子に腰掛けた。 


 食パンをかじって噛み締める。特に美味しくもないその味が、今日は愛おしく感じられた。力が足元から漲っていく。そそくさと食べ、トマトスープで流して支度をし、母が起きてくるのと同じ時間に家を出た。 


 母の、行ってらっしゃい、の声を聞き、家を飛び出した。鳥の鳴き声を聞く。老人が早々と家の前の掃除をしているのを見つけ、挨拶をしてみた。いつもしてきたはずの挨拶と、返された挨拶に新鮮味を覚えた。 


 久しぶりに外へ出たような気がした。昨日の夜中抜け出したのに、あれはまるで夢だったかのよう。けれど夢ではない。その証拠に、何も恐ろしくないのだから。 
 駅まで歩いて改札口を抜け、ちょうど来た電車を乗った。たくさん座る場所は空いているけれど座らずに、ドア際で流れていく家々を眺めた。 


 ふと、男が菊の横に座った。菊はそれに気付きながら知らない振りをして横目で窺い、気のせいだと思い直す。男は真っ直ぐと景色を見ていた。むしろ睨み付けているくらいに、自分など見もしない。 


 やがて目的駅につき、降りた。人々が同じように降り、菊は邪魔にならないように隅に立つことにしてぼんやりと見つめていた。 
 改札口へ歩いていく人達、同じ方向へ動き出す電車。人々を吐き出して、なおも走るのだ。走って乗せ、走って乗せ、走って轢いて――気の毒に思えた。 


「ねえ」 


 突然肩を掴まれ、静かになったホームに響いた声に驚いた。振り向くとさっき菊の横に座った男が立っていた。女性の平均身長である菊よりも彼は頭一つ分と拳一つ分大きい。 
 緑色の目で菊を見下ろしていた。ホームの屋根のせいで影が出来ているのに、鮮やかな金髪は輝くことを忘れていない。優しげに弧を描いた唇がゆっくり動き出す。 
しおりを挟む

処理中です...